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日蓮大聖人・池田大作

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関西本部幹部会 実践は理論に勝つ

1965.9.19 「池田大作全集」第3巻

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1  台風一過、秋晴れのもと、第一回の地方別幹部会を関西で開くことができました。(拍手)
 私は、小説「人間革命」の第二巻を書くために、いまいろいろと準備をしております。先日、多少時間がありましたので、執筆の参考として何冊かの本を読みました。そのなかの一冊は、吉川英治の「宮本武蔵」です。吉川英治の宮本武蔵観、また、その文体をとおして、なにか得たいと考えて、少年のころ読んだのを引き出して読み返し、今度は三回目の読了です。根底は宮本武蔵も、また吉川英治も、信心をしていない。小説の底流にあるのは、小乗教的な物の考え方であります。
 宮本武蔵がいちばん最初試合をしたのが、かの有名な、室町幕府の師範役である吉岡清十郎であります。清十郎は、何百人、いや何千人の門下生をもつ、京都では最高峰といわれた名門です。それに武蔵は挑戦した。清十郎の父は偉かったが、跡継ぎの清十郎は、強いことは強いが、権力者と結託し、すでに保守になっていた。
 清十郎は驕慢になり、惰性に流されて、もはや真剣に自分の成長を図る意欲がなくなっていた。それに対して宮本武蔵は野人であった。建設的であり、意地があった。希望があった。勝たねばならないという真剣勝負の気概に燃えていた。はたして台寺野の試合に武蔵は勝ち、京都中は大騒ぎになった。
 それに対して吉川英治氏は次のように評論を下しております。――吉川清十郎は、兵法・理論のための理論に流されてしまって、自己建設の修行を忘れた。所詮は増上慢です。そこへくると宮本武蔵は、あくまで実践のなかの実践を進んできた。
 実践と理論との勝負が、ここに決せられたと。
 私は決して理論は必要ないというのではない。吉川英治氏も、それをいっているのではない。要はスタンドプレーだけで、もてはやされることばかり考えるようではいけない。批判のための批判だけではなんにもならない。幸福になるか不幸になるか、勝つか負けるか、実証を示すか示さないか、それが人生の大事な問題なのです。とりわけ仏法は勝負です。私どもは、あくまでも題目を唱えるという実践、教学の成果を生活のうえに現わすという実践、そしてまた王仏冥合という目的に対する実践、汝自身を人間革命し、不幸な人々を救っていくという折伏行の実践、これ以外にありません。この崇高な、また最高に深い仏法を実践している私どもだけが、最後は絶対に、幸福の大勝利者になることは間違いないと、私は言いたいのであります。(拍手)
 どうか「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」との日蓮大聖人様の御金言を忘れずに、一歩たりとも退くことなく進んでいただきたい。なぜかならば、いままでこれほどまでに、皆さん方が戦ってきて、もし今後、九仭の功を一簣に虧くようなことがあれば、あまりにも残念なことであります。
 きのうも本部の前で、何人かの高等部員の人たちと挨拶をかわしました。どの顔を見ても“しっかりしている”“ああ、これで、未来の創価学会は、本当に決まった”と、つくづく思いました。利口そうであるし、お母さんのおなかにいるときから、もうお題目をあげているのだし、(笑い)勤行にしても、教学にしても、純粋さにおいても、お父さんや、お母さんなんか問題ではない。(笑い)学会は磐石の体制が整ったと私は心の中では確信をもっております。
 皆さん方は、どうか、お子さんに大きい望みを託して、信心だけは、まっすぐに進めてあげていただきたい。それはとりもなおさず、また自分自身に、大きい功徳となって戻ってまいります。最後まで、立派な信心の姿を示していかなければ、お子さんがかわいそうです。うちのお父さん、お母さん、最後はとうとう、だめになっちゃった。(笑い)それでは苦しんでしまう。子供の幸せのためにも、孫の大功徳のためにも、最後までしっかりがんばっていただきいと願うものであります。(拍手)
 なぜこんなことを申し上げるかといえば、先日、ある本部長が私にこういいました。「班長さんや地区部長さんのなかに、十年以上のクラスの人がたくさんおります。それで、これからはその方々をなるたけ後進に道を譲って休んでもらうなり、または地区の指導員にするなりにしたい」と。それを聞いて私は「とんでもない、いままで十年以上も、ある人は班長として甘んじ、ある人は地区部長としてここまで戦い、基礎をつくった。創価学会の最も大事な尊い礎であり、功労者です。そんな簡単に、あとは後輩に譲ってゆっくり休んでけっこうです、などといういい方は間違いだ」と、このように私は指導いたしました。
 どうしても本人が年配で、またあらゆる点で創価学会の前進についていけないのなら、これは信心のうえから話し合いをすれば、しぜんと交代ができます。それを、大勢の新しい人が成長して“もういらないから”などという考え方でやめさせることは、これは仏法に反する無慈悲であり厳禁しなければなりません。本人が“どうか後輩に譲りたい”という気持ちがあり、また幹部と話し合って、譲るのが当然の推移であれば、その場合はけっこうです。そうでないかぎりは、私どもは、その人たちを、大事にして最後まで守りきってあげ、また、その人も、創価学会を立派に守っていけるような、わが学会の進軍にしたいと思いますけれども、どうでしょうか。(拍手)
 その意味において、最後まで、立派な戦う人は偉い人です。一生空しく過ごして万歳を悔いるようなことがあってはいけない。われわれこそ悔いなき人生を築けるのです。その信心を貫き通す一生のなかでも「時抄」であり時を知らなければなりません。すなわち、その時に応じて、その月、その年に実践すべき最も大事な信心のあり方があります。戦いの焦点があります。その時を、忘れてしまったならば、大福運を積んで、宿命を大転換していくことはできません。
 折伏は民衆救済の根本――であり、宿命転換の直道であり、常に実践していかねばならぬのは当然です。だが、そのうえに、ある時は王仏冥合の選挙戦であり、また正本堂建立の御供養があり、いろいろと時に応じ、重大な実践をすべきことがあります。その時をわきまえず「私は大聖人の御書のとおり、折伏をやっている。だから他のことをやらない」という考え方は、ちょうど雨が降っているときに、一生懸命、植え木に水をやっているようなもので、全く意味がないし、かえってまずい場合があります。
 異体同心の信心があるならば、王仏冥合実践という目的のために、その時代に即した学会の方針を見失わずに、その時々に応じて全魂を打ち込んでいく、その所作こそ、私は真実の、大聖人の折伏精神にかなった行動であると思います。(拍手)
 正本堂の御供養のことにつきましても、悔いのない戦いをいたしなさい。してくださいとは絶対申しません。
 それは皆さん方のためであり、広宣流布達成のために大御本尊に差し上げる御供養です。その功徳は、全部、自分のものになるのです。折伏も同じです。私はいままで私なりに御供養についても折伏についても学会活動についても、一つも悔いのない戦いをしてまいりました。そして偉大な功徳をうけております。皆さん方も悔いのない戦いをして、その戦った何倍、何十倍、何千倍も因果応報の現証があることを確信し、実践してみたらどうでしょうか。(拍手)
 その功徳は一年や二年では証拠の現われない人もいるかもしれない。だが、因果倶時であり、いずれなんらかの結果が必ず現れ、大きく運命が開き、自分の福運が大きく転換されてまいります。大御本尊の功徳は釈迦仏法の功徳よりもはるかに大きく、このことは、信心のうえから見ていけば明瞭にわかります。
 妙法のために戦い、たとえいまは功徳があってもなくても、誹謗されようが毒を与えられようが、どんなことがあっても、大聖人の仰せどおりに活躍していく。微塵も疑わないで従い、行動しきっていく。それが本当の信心なのです。私は、大御本尊を信じきってまいりました。創価学会を信じてまいりました。それだけの実践によって、今日の勝利があるのです。皆さん方も、大御本尊を信じ、創価学会と共に生ききって、今世において、大福運をうけていただきたい。これが私のお願いであります。(拍手)

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