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日蓮大聖人・池田大作

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幹部指導会・小樽会館 純粋な信心で永遠の幸福を

1965.9.7 「池田大作全集」第3巻

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1  ただいま御本尊に、小の同志が仏の使いとしてまた仏の子として、より以上折伏ができるように、そしてまだ北海道の同志の方々が、より以上福運を積めるようにとお願い申し上げました。
 特に、きょう集まった中堅幹部ならびに大幹部の方々に申し上げたい。お顔を拝見いたしまして、なかには裕福そうに、非常に生活も楽な感じに見える人もおります。反対に非常に疲れ、経済状態も大変ではないかと思われる相の人もおります。
 いずれにしても題目をあげてあげて、あげぬいていっていただきたい。百万遍、二万遍、否三百万遍とあげぬいて、自分自身の人間革命のために、かつは妻のため、子供ため、不幸な同志のために、偉大なる生命力を発揮し豊かな福運を積むために、即仏界を湧現するために、まず唱題を実践しきっていただきたい。なんとなく青白い、そして疲れている顔を見ていたのでは、私は胸が痛い。後輩の人々も安心してついてこられなくなります。御本尊は平等であり宇宙大の大福運、力をおもちです。それを実証するのは、私どもの信力、行力以外にない。この信力、行力が御本尊の宝庫を開く根本の鍵なのであります。
 戸田前会長は、非常に「三国志」がお好きでありました。したがって、弟子のわれわれにも、広宣流布の戦いに応用するためによく読むようにいわれ、私も何回も読みました。だが「三国志」はどこまでいっても、根底に色心不二の哲学があるわけでもなければ、大仏法の真髄を理念としたものでもありません。しいていうならば、小乗教にも達しない儒教を根底にした人生観、社会観で構成されたものでありましょう。だが、これを仏道修行の序分として参考にすることは、また大事であります。なぜならば、十界の生命、すなわち人生のあらゆる機微を知るうえにおいても、貴重な小説だからであります。
 「三国志」はご存知のとおり、諸孔明のいた劉備玄徳の蜀、曹操の魏の国、孫権の呉の国と、この三国の話であります。「三国志」の最後は、あれだけの乱闘と建設と侵略とがあったが、それらの国は全部滅んでおります。蜀の国は、第二代の劉禅が暗愚で、諸孔明滅後、約三十年にして魏の国に滅ぼされています。共に魏の国も、かの仲達の子供によって滅ぼされ、呉の国も魏に滅ぼされ、全部滅んで晋の時代になります。その三国がなぜ滅びたか、どこに原因があったのか、その点に非常に興味を持ち、それを探求したいので、最近もう一回読みました。
 その原因は、全部、堕落からであります。魏の第二代の王、そしてまたその側近も、全部、堕落してしまった。蜀の国も同じです。呉の国も同様で、一切が堕落によって滅びていきました。建設には希望があり、尊い。また建設にはなみなみならぬ苦難があります。苦しいけれどもそこには偉大な光があり、人間をつくっていきます。反対に堕落は非常に安易であるけれども、魔の働きであり、堕落の後は全部、不幸です。建設には長い時間がかかるが、堕落は一瞬であります。あらゆる人生がこれと同じであると、私はつくづく思いました。
 皆さん方も、ここまで建設してきた方々です。私も生涯、王仏冥合のためには自覚してまいります。堕落は即退転であり、退転は、いっぺんに、いままでの建設を打ち破り、それに関係する大勢の人々を堕落させていく力をもっております。これに対して建設は苦難であるがゆえに、なかなか大勢の人を引っ張っていけないものであります。しかし私どもは、王仏冥合という建設のために、一生成仏という建設のために、否、永遠の幸福という建設のために、一閻浮提第一の大仏法を令法久住してゆく建設のために、子孫末代の繁栄のために、題目を唱えて唱えきって、世界に唯一の尊い最高善の団体である創価学会を守りきって進軍したいと思います。
 皆さん方は、本当に、経済的にも裕福になり、体も丈夫になっていただきたい。そして。一生成仏を成し遂げていただきたい。仏法は現証論であり、実証論です。
 私ども自身が一生のうちに、大御本尊の大功徳を実証できなくてはいけない。まだ皆さん方の功徳は小さすぎます。大御本尊の功徳は、そんな小さなものではありません。顔色もよく、どの家に行っても、みんな生活には困らない。ハワイなで海外旅行ぐらいには、みんな遊びに行けるほどの生活力、経済力はもっていただきたい。それにはやはり、しっかりと御本尊に仕え、大功徳をうけていけるだけの信心をしなくてはいけません。また正本堂その他の、時に応じた御供養の活動に真心こめて参加し、福運を積んでいきなさい。仏様がお金を欲するのではありません。詮ずるところは、御本尊に対する報恩感謝の一念と行動が功徳となってすべて自分に帰着するのです。一切、自分のためでありますから、大胆に、勇敢に折伏し、御供養していきなさい。
2  さきほどの「三国志」に話がもどりますが、まず諸孔明のことを思い出します あるときに諸孔明に大事な戦いがあった。そのときに、諸孔明の胸中は、馬謖を行かせたくなかった。とかし、魏の仲達が大軍を率いて攻めてきたので、それ相当な人物を行かす以外にないと考えていたのです。その時あまり馬謖が自分で買って出るので、つい情にほだされ、許したのです。そこで諸孔明は、細やかにあらゆる作戦を授け万全の処置を与えて行かせました。けれども馬謖は“おれはみんなの先輩なのだ”という驕慢のために、諸孔明のいうことが聞けなくなっていました。「いちいちそんな細かいところまで、手をまわしすぎて、神経質になって、本当に孔明という人はめんどうくさい」といって、いうことのを聞かなかった。所詮、驕慢になって、いうことのを聞かない者は全部、失敗していくのです。
 馬謖は、そのとき「もし負けたならば自分の首を斬ってもよい。一族全部、斬ってもよい」こういって出かけて行くのです。そこに“陣中に戯言なし”の言葉があり、戯れの言葉はないという意味なのです。ついに馬謖は孔明のいうことを全く無視して、その結果、大敗北をし、仲達の軍に全滅されてしまうのです。蜀の軍勢も立ち上がれないほどの大打撃をうけてしまった。孔明はやむをえず、全軍のために、大勢の同志のために、馬謖を斬るのです。本当は人物もいないし、斬りたくはない。しかし斬らなければ、これは軍律に反してしまう。あれだけ強言を吐き、あれだけ大勢の人間を犠牲にし、蜀の確立すべき体制を妨げてしまった。それで“泣いて馬謖を斬る”という言葉になるのです。
 いくらかかわいがられ、信頼されても、皆さん方は、馬謖になってはいけない。
 特に大幹部は馬謖にならぬよう、厳しく自覚していただきたい。かわいがられ、信頼されればされるほど、力を養い、信心を深め、そして広宣流布のために尽くしていかなければならない。最も帷幕の中にある人間が、もう自分は大幹部になったのだと満足し、驕慢になることは恐ろしいことです。たいてい脱落している人は、驕慢謗法になっております。“もうこれだけ信心しているのだから”と思いあがり、驕慢になり増上慢になって行き詰まり退転してしまう。結局は、信心がないといえます。組織のうえの役職にあぐらをかき、先輩風を吹かせて、後輩に信心で接する心を失い、部下扱いするのは大変な間違いであり、そうした権威主義になった場合には、もう大聖人の仏法の精神からはずれております。創価学会の真実の組織からもはずれております。こういう人には、一人もなっていただきたくありません。
 次に魏延という人は、これまた力のあった人物で、やはり大幹部中の大幹部の立ち場にあった。しかし、この魏延もやはり驕慢、増上慢になってしまった。“おれがいなければ蜀の国はどうにもならない”と思い上がっていた。魏延については諸葛孔明も、心の中で非常に心配していたが、しかし“いまいい気にさせておかないと団結を乱される。また人材が少なく、戦闘にも非常にさしつかえがある、がまんしよう”というわけで、隠忍自重してきた人物なのです。この魏延の根性は、いまでいえば、自民党とか、社会党とか、今日の日本の指導者階層がもっている根性に全部通じます。学会だけは永久にそうなってはならない。だから厳しくいうのです。それはどういう根性であるか。魏延は諸孔明さえ死んでしまえば、おれが自由にできると、そう心の中で考えている人物です。いまでいえば、厳しい信心指導をしてくれる幹部に対して「あれさえいなければよい。なんでもわがままに自由になる」という考え方を魏延というのです。
 こうした考え方をもつということは、人間として最も野獣的であり最も忘恩の徒というべきであります。これは仏法でいえば堤婆達多にたとえられます。堤婆達多は、釈迦が死ぬことを待っていた。また殺そう殺そうと思っていた。そういう人になってはいけない。大なり小なり、信心が止まってくると、そういう心は働くものです。どうか皆さんは、一生成仏のために、一家和楽のためにも、人間革命をしきるためにも、信心のことだけは、純粋にいきなさい。そうでなければ、自分で全部、功徳を破壊します。たとえ功徳はあるように見えても、それは功徳に似せた魔の働きのです。いつかは苦しみを感じ、しかも永遠にその苦しみは続くものです。これが因果の理法であります。
 私皆さん方を守ってまいります。皆さん方は御本尊を守り、そしてまた、学会のために広宣流布のために、真剣に戦っている同志の人々を心から守ってあげて下さい。きょう集まった方々が、一人も残らず最後の最後まで退転なく、いつ会っても朗らかに、いつ会っても向上し、そして、手を取り合って喜び合えるような、この一生を貫き通していただきたい。
 いままでは心ならずも堕落し退転ぎみの人もあったかもしれない。いまそれを悔いている人もあるでしょう。また、いままで真剣に戦ってきて、やっときょうまでたどりついた人もいるかもしれない。しかし過去は過去として、きょうから新しく自分は信心したのだ、これからが第二の青春であるという気持ちで未来へ向かって堂々と進んでいただきたい。

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