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第八回関西総会 一生成仏へ生命錬磨の勤行

1986.11.12 「広布と人生を語る」第10巻

前後
1  本日は形式はらず、気楽な気持ちで、懇談的に話をさせていただきたい。まず、第八回の関西総会を心から祝賀申し上げる。
 また、昨日は、「先駆」のモットーを掲げる九州で、秋谷会長が出席して盛大に九州総会が行われた。地球は西から東へ回転している。日本では天候も西から東へと変わっていくことが多い。九州が良い天気だと、やがて関西も晴れ、その翌日には東京や東北も晴天となっていく。雨の場合も同じ道理である。このような大自然の摂理やリズムのうえからも、私は「先駆の九州たれ」と申し上げたのである。
2  「女子部の日」 に寄せて
 またきょうは「女子部の日」である。ち上うど二十五年前の昭和三十六年十一月十二日、横浜市の三ッ沢競技場に八万五千人の乙女が集い、第九回女子部総会が行われた。
 この年は女子部結成十周年にあたり、会場も戸田先生が昭和三十二年に「原水爆禁止宣言」をされたゆかりの三ッ沢競技場であった。加えて、女子部としては初の野外での大総会であった。こうした意義をふくめて「女子部の日」が設定されたわけである。
3  つい先日、ある知人から手紙が届いた。それには「学会は大きくなった。驚くべきたいへんな歴史である。また、青年が多い。これまたすばらしいことである。無責任と享楽のはびこる今の時代に考えられないことだ。それよりも、もっと驚くことは、乙女たちがまじめに信仰して、人生観を確立しながら生きいきと活動していることだ。これは全世界に見あた
 らない事実である。この一点からも、自分は驚嘆し、学会に敬服せざるをえない」との趣旨のことが書かれてあった。
4  現在のこうした社会への広がりをみるとき、二十五年前、八万五千人もの乙女たちが集った意義の大きさを知ることができよう。
 その席上で、私は簡潔に三点について話した。一つは、次代を担う女性指導者に成長してもらいたい、ということである。当時、参加したほとんどの人が、現在、婦人部の第一線の幹部として活躍している事実は、何よりもそのことを証明していよう。
5  次に、全員が教学部員になろう、と申し上げた。これも、そのとおりになっている。教学部師範、教授になった人もいる。ほとんどの人は助教授以上になっている。
 さらに私は、信仰の目的は幸福になることである、と申し上げた。この点も、しっかり信心の実践を積み重ねた方々は、みな幸せな人生を送っておられる。
 この二十五年間、私はさまざまな角度から、この八万五千人の人生行路を見てきたつもりである。強盛な信心、純粋な信心の人は、例外なく、地道であっても幸福な人生を送っている。これは皆さま方もご存じのとおりである。
 役職の上下で幸福が決まるものではない。社会的な境遇で幸・不幸が決まるものでもない。せんずるところは、この正しき信仰を全うし、「信心即生活」の人生を確実に築き上げていることが真の幸せである、と申し上げたい。%その意味から、ただいま紹介した関西の二十五人の方々はみな幸せであるし、時間のつごうで紹介できなかったが、その他の方々の全員の幸せを私は祈っているし、確信している。
6  一生成仏のための仏道修行
 話は変わるが、昭和二十五年、当時、私は二十二歳で、大田区の青葉荘というアパートに住んでいた。この年の九月十七日の日記をみると、こうある。この日は日曜で、天候は晴れであった。
 「洗濯をする。左隣の室の、おばさんに、夜遅くの勤行は安眠妨害だから止めるよう、厳しく叱られる。
 その隣の、おじさんに、早く帰って来い、何を、いつも、うろうろしてるのだと、たしなめられる。
 管理人の若主人からも、御本尊を持つために、何やかやと注意される」――。
 現在、とりわけ大都会などでは、近代的なマンションやアパート、公団住宅などが立ち並び、ますます過密化してきている。それゆえに勤行の声が隣の家に聞こえたり、ある場合には迷惑をかけていることがあるかもしれない。当時も、私どもは迷惑をかけないように注意しあった。いわんや広宣流布が大きく進み、拡大している現在では、そうした問題に対しては、なおさら最大にして細心の心配りが必要である。
7  そこで、きょうほこうした日々の信仰における機微について申し上げておきたい。あくまでも、ひとつの指導の原則論として申し上げるものであり、あとは、指導者である皆さま方が、その場その場に応じた賢明な判断と指導をお願いしたい。これから十年、五十年、そして百年先、広布の伸展は現在の何倍、何十倍にも拡大していくであろう。そうした将来のことも考えての指導であることをご了承願いたい。
 末法における正しい仏道修行とは何か。それは、勤行・唱題と弘教に尽きる。
 総本山第二十六世日寛上人は、当流行事抄に「大覚世尊教えを設くるの元意は、一切衆生をして修行せしめんが為なり」と仰せである。
 つまり、釈尊が数えを説いた元意は、一切衆生にその教えを修行させるためであるとの御教示である。ここでいう大覚世尊とは、一往は釈尊であり、再往は末法の御本仏日蓮大聖人と拝されよう。
8  どんな分野においてもひとつの境涯を極め、それなりの力量を得るには、それ相応の修業が必要である。剣道、柔道、茶道、またピアノの演奏など、それぞれの道を習得していく方途は同じである。仕事でさまざまな技術を身につけるためにも、飛行機の操縦技術も、それなりの訓練、修業が要求される。修業という実践がなければ、たとえいかに立派な理論があっても空文に等しく、観念論の域を出ないからだ。
 また、いかなる修業に励むにも、すでにその道を極め、深化している人について、習っていくことが肝要である。たとえば日本舞踊を修業する場合にも、舞踊の奥義を会得した人について修業するのが一番の近道である。一事が万事で、信心の修行にあっても、その道理は同じである。
 ゆえに信心の先輩について、勤行、折伏を教わり、広宣流布の活動に励んでいくことから出発するのである。そうした先輩はひとつの善知識なのである。まして自分は有名大学の出身であるとか、社会的地位が高いからといって、純粋な信心の世界に複雑性をもちこみ、まじめに信心に励む無名の庶民を見下すようなことは本末転倒であると申し上げておきたい。
9  「成仏」という、最高の幸福境涯をめざす仏法において、修行が必要なのはとうぜんである。
 釈尊は、このために、爾前経では六度万行といわれる歴劫修行を説き、法華経では五種の修行を教えた。また天台大師は、観念観法を、その修行の要諦とした。
 しかし、釈尊や天台の修行には、多くの煩雑な戒律がある。それを一つ一つ行うのは、現代に生きる私どもにはとうてい不可能である。かりにこれらの修行に専心したら、時代からとり残され、人生の敗北者とならざるをえないであろう。
 釈尊や天台の修行は、一部の縁のある衆生のためのものであり、あらゆる階層の人々がひとしく成仏できるものではなかった。結論すれば、ただ日蓮大聖人の三大秘法の仏道修行こそ、末法という時にかない、万人に開かれた大法なのである。
 その仏道修行とは、「勤行・唱題」と「折伏」である。この修行を、日日たゆむことなく行じていくことが、「一生成仏」、そして三世にわたる幸福境涯を確立する大道なのである。
 ともあれ、日蓮大聖人の御遺命のままに前進しているのが、わが日蓮正宗創価学会である。皆さま方はこの一生成仏への正しきリズムにのっとっていることを最大の誇りとしていただきたい。
10  日蓮大聖人は諸御抄において、勤行・唱題の実践こそ一生成仏への修行である、と仰せである。
 御義口伝には「釈に云く声仏事を為す」と。また、本因妙抄には「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり」と仰せである。
 また、一念三千法門には「無始より以来我が身中の心性に迷て生死を流転せし身今此の経に値ひ奉つて三身即一の本覚の如来を唱うるに顕れて現世に其内証成仏するを即身成仏と申す」と。
 さらに「妙法蓮華経と唱うる時・心性の如来顕る耳にふれし類は無量阿僧祗劫の罪を滅す一念も随喜する時即身成仏す縦ひ信ぜざれども種と成り熟と成り必ず之に依て成仏す」と御教示されている。
 このように勤行は、仏道を成じ、絶対の幸福境涯を確立するための、仏法の根本中の根本の実践なのである。
11  勤行・唱題の意義
 次に「勤行」について、少々述べたい。
 まず「勤行」とは、行に勤む、と読む。「勤」には、精進の意義がある。精進とは、勇猛精進の意である。すなわち「勤」には”勇敢に勤める”という意味がふくまれている。
 日寛上人は、当流行事抄において「一生空しく過ごして万劫必ず悔ゆ。身命を惜しまずして須く信行を励むべし……勤めよや勤めよや」と仰せである。
 ゆえに勇敢に、またたゆみなく信行の実践、行動に精進していくとき、無量の功徳、福運につつまれゆくことを確信していただきたい。
 また、勤行には「正行」と「助行」がある。正行とは、御本尊に対する唱題である。また助行とは、御本尊を拝して、方便品・寿量品を読誦することであり、正行を助けるための修行をいう。
 そこで日蓮大聖人は、上野殿御返事において「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」、また、十八円満抄にも「正行には唯南無妙法蓮華経なり」と仰せである。
 つまり、あくまでも唱題が根本であり、そのうえで、助行としての方便品、寿量品の読誦があるわけである。
12  この「正行」と「助行」の関係について、日寛上人は次のように仰せになっている。
 「助行とは、方便・寿量の両品を読誦し、正行甚深の功徳を助顕す。誓えば灰汁の清水を助け、塩酢の米麹の味を助くるが如し。故に助行と言うなり。此の助行の中に亦傍正有り。方便を傍とし、寿量を正と為す」と。
 すなわち「助行」というのは、正行である題目の甚深の功徳を助け顕す助行として方便品、寿量品の両品を読誦するのである。それはたとえば、昔、洗たくをするのに、洗剤として灰汁を使い、清水の洗うという効果を助けた。また、塩や酢が米やソバを食べるときの調味料として使われ、味を助けることにもたとえられる。そして、この「助行」のなかにも「傍」と「正」とがあり、方便品が「傍」、寿量品が「正」になる、とお述べである。
 さらに日寛上人は「正行」について「正行とは三世諸仏の出世の本懐、法華経二十八品の最要、本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思、境智冥合、久遠元初の自受用身の当体、事の一念三千、無作本有の南無妙法蓮華経是れなり」と仰せになっている。
 そして、妙楽大師の法華文句記の「正助合行して因って大益を得」、すなわち、正行と助行を合わせ行じて大利益を得る、との釈を引かれている。
 このように、日蓮正宗においては、題目を根本とし、方便品、寿量品を読誦するのである。
13  こうしてみるとき、日蓮大聖人の仏法が、いかに合理的、現代的であるかがわかる。まことにありがたい教えなのである。
 総本山第五十九世日亨上人は、この点について「煩瑣の型式を略したるなり」と仰せである。そして「今現に他門の日蓮各宗に頓写千部一部などの広修の修行を為すは・内容空虚にして宗教の生命なきに拘はらず・儀相を荘厳して信徒の虚栄心を釣らんとするに過ぎず」とも仰せになっている。
 つまり、他の宗派が、頓写といって大勢の人が集まって経文を書写する修行などを行っているのは、内容が空虚で、肝心かなめの宗教の生命がないにもかかわらず、儀式のかたちをいたずらに荘厳に見せかけ、信徒の虚栄心をつろうとしている所作にすぎない、との鋭い御指摘である。
 さらに、日蓮正宗において方便品、寿量品を読誦することについて、「此の助行は適度のものにして・彼の千部一部の広行の如くに正行を妨ぐるものにあらず、助行の御経を読むことは十時間・正行の御題目を唱ふることは僅か十分間と云ふ如き不権衡の嫌ひなく・却って適度に正行を助長するの利あるものなり」とお述べになっている。
 どこまでも題目が根本であるにもかかわらず、見せかけの権威のために助行である経を読謂することに時間の大半を費やすとすれば、それは、本末転倒といわざるをえない。
14  歴史的にみても、日蓮大聖人の教えに背き、第二祖日興上人に敵対した五老僧は、現実から遊離した形式的な修行に堕落していった。
 五老僧は、如法経、一日経という修行法を重んじた。これはともに書写の行である。法華経や法華三部経などの経を書写供養するというもので、大聖人の仏法の本道からはほど遠い修行であった。
 日興上人は「富士一跡門徒存知の事」や「五人所破抄」において、これらの修行が「摂受」を先とした正法、像法時代の修行であり、「折伏」を表とした末法の修行ではない、と明確に破折されている。
 末法における修行は、唱題行である。そして三類の強敵に対して、大聖人の教えのままに折伏行を貫くことである。
 にもかかわらず、五老僧は、三類の強敵を恐れ、時にかなった正しい修行ができなかった。
 これに対して日蓮大聖人の正統が日蓮正宗であり、その教えのまま、勤行・唱題を実践し、折伏を貫いている団体が創価学会なのである。
 皆さま方は、日夜、正しき仏道修行の要諦である五座三座の勤行を自ら実践するとともに、折伏を実践し、人にも手をとり、足をとるようにして教え、指導されている。これは、たいへんな仏道修行である。かならずや御本仏も称讃してくださり、諸天の加護のあることもまちがいない。
15  方便品、寿量品読誦の意義
 さて、それでは法肇経二十八品のなかで、なぜ方便品と寿量品を読誦するのか。
 月水御書には「ことに二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にてはべり、余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ」とある。
 法華経二十八品中、根幹をなすのが方便品と寿量品であり、あとは枝葉である。したがって、日常にあっては方便品と寿量品の長行を読誦せよ、との仰せである。
 また、太田左衛門尉御返事には「方便品と申すは迹門の肝心なり」、「寿量品と申すは本門の肝心なり」と。
16  また、日寛上人は、この方便品、寿量品を読む精神について、次のように示されている。
 まず方便品読誦については、一には「所破」のため、二には「借文」のためである。
 すなわち、「所破」とは破折の意味であり、迩門の所説の義を破しつつ読誦するのである。「借文」とは、文を借りるとの意味であり、方便品の文を借り、一往は法華経本門、再往は文底の義を顕さんがために読誦するのである、と。
 次に寿量品を読誦する意義は、一には「所破」のため、二には「所用」のためである。これについて日寛上人は、「文上」と「文底」の二種の顕本、また「体内」と「体外」の甚深の法門をふまえながら御教示されている。
 そして、「所破」とは、五百塵点劫成道すなわち久遠実成の釈尊のことが説かれている文上の立場を、あくまでも破折しながら読誦するのであり、「所用」とは文底の立場から、すべて日蓮大聖人の妙法を讃嘆する文として用い読むのである、と結論されている。
17  この所破・借文の原理は、敷延して考えれば、あらゆる先哲の言葉に対してもあてはめることができよう。たとえ仏法の根本義は知らないとしても、仏法に通じる先人の言葉はあるものだ。その言を、より深き仏法の次元から、その文を借り、わかりやすく法を説くために用いていくことが、それにあたる。
18  次に方便品の長行について論じたい。
 まず長行とは、経文のうちの散文(字数に制限を設けない)で書かれた文章のことで、韻文(偈頌)に対する言葉である。行数も長いのでこの名がある。
 方便品の長行の読誦について、日寛上人は、当流行事抄に、次のように示されている。「問う今当門流、或は但十如を誦し、或は広開長行を誦す。其の謂れ、如何。答う、十如の文既に是れ一念三千の出処なり、故に但之を誦すれば、其の義則ち足りぬ。然りと雖も、略開は正開顕に非ず、故に一念三千猶未だ明了ならず、故に広開に至るなり」と。
 つまり、大石寺門流では、ただ十如実相の文までを読み、あるいは広開三顧一(広く三乗を開いて一仏乗を顕す)を説いた長行までを読誦することもある。そのいわれはどうか、との問いに対して、法葦経方便品の十如実相の文は、これがすでに一念三千の出処なのである。ゆえに、この十如実相の文を読誦すればその義は十分足りるのである。しかしながら、略開三顕一は正開顕の広開三顕一でない。ゆえに一念三千の法理がいまだ十分に明瞭でない。ゆえにこの一念三千を明かすために、広開まで読誦することもある、と述べられているのである。
19  日蓮正宗では、戦前は丑寅勤行のさい、方便品も長行まで読誦していたし、戦後も多少続いたような記憶もある。
 現在では私たちは、勤行のさい、方便品の読誦は十如実相の文までで、長行は読誦していない。しかし、日寛上人の仰せのごとく、長行の意義はすべて現在の勤行のなかにふくまれているのである。
 このように、教法それじたいである「化法」は変わりないが、仏道修行の形態である「化儀」 については、時代とともに変遷してきた歴史がある。
 大聖人も「化儀」については、枝葉の細かいところまで定められず、方便・寿量の読誦という根本中の根本、要中の要のみを示してくださった。
 このことじたい、末法万年尽未来際まで見通された御本仏の大慈大悲であると私は拝したい。
20  大聖人も御自ら、助行として迹門の肝心である方便品、本門の肝心である寿量品を読誦され、勤行されておられた。また第二祖日興上人も同じく両品を助行とされておられる。
 これについて日寛上人は、当流行事抄に「朝暮の勤行、但両品に限るなり」と記されている。
 日蓮正宗においては、朝夕の勤行には、ただ方便・寿量の二品のみを読誦している。すなわち、正行としては題目を唱え、助行として方便品、寿量品を読誦するのが、正宗の勤行の変わらざるあり方なのである。
 しかし、五座三座という勤行の形式それ自体は、御書の記述には残っていない。また、日興上人の記述も残っていない。日寛上人の「当流行事抄」にさえ記されていない。正宗の長い伝統のなかに、しぜんに今のようなかたちにととのっていったようだ。
 この点について、第六十六世日達上人は、ある会合で次のように述べられている。多少難解な内容になっているが、ここに紹介させていただく。
 「丑寅勤行に五回(五座)に分けてお経をあげるということは、本山のあちこちに堂が建ちまして、たとえば御堂とか本堂とか、あるいは天経(天壇)というふうに、あるいは客殿、あるいは六壷と昔から順々に建ちまして、これらの堂について丑寅勤行を行なった。そのため、最初はあちこちでお経をあげたのですが、それを後世には一括して、客殿の一ヶ所でお経をあげるようになったので、五回(五座)に分けるのでございます。その時間は、昔から朝の勤行といえば、当然丑寅勤行のことなのであります」
 また、「大永三年(三二三年)に『堂参御経次第』という書き物が残っております。これを見ると、今の五座の勤行の本の原形というものがわかります。
  大永三年■未五月一日 夜
   本堂へ    十如是寿量品一巻 題目百返
   天御経へ   十如是寿量品一巻 題目百返
   御影堂へ   十如是寿量品一巻 題目百返
   又其後    寿量品三巻    題目三百返
  二日 朝
   御影堂にて  十如是寿量品三巻 題目三百返
   天御経へ参りて十如是寿量品一巻 題目百返  祈念申候
   大堂へ参りて 十如是寿量品一巻 題目百返  奉祈願候
   御影堂へ参りて十如是寿量品一巻 題目百返  祈念申候
  以上 十二巻 千二百過
     日鎮   (花押)
 大堂とは本堂です。また二日は朝ですから『祈願し奉り候』とあります。こうしてみると、まずはじめの五月一日の夜の方をみても、本堂で本尊供養、次いで天御経は天拝(夜ですが天拝を行ってます)、そして御影堂で二回お経をあげたのは、三師・歴代の供養と、『其後寿量品』の方は広宣流布の御祈念のお経であると考えてよいと思います。
 また二日の朝も、同じく御堂においてお経をあげるのは三師の供養、天御経は天拝、それから大堂(本堂)でお経をあげたのは本尊供養、最後に再びお堂に参って広宣流布のお経である。
 そうすると、一般の回向は大坊に帰ってから六壷においてしたと考えられますから、五座のお経というのはこの時代にすでにあったのだということが明らかにわかります。各堂について、それぞれお経をあげて回ったのであります」(日達上人全集)と。
21  ともあれ私どもの勤行は、日蓮正宗の化法化儀に従って行っているのであり、この五座三座の勤行が、根本中の根本の修行である。
 しかし現実の生活のなかでは、仕事の時間帯等のさまざまな事情から朝の五座の勤行、また夜の三座の勤行ができない場合があるかもしれない。そうした場合に、まったく勤行しないよりも、たとえば「方便品」「自我偈」の読誦と「唱題」だけでも実行することがよいと私は思う。または「方便品」「寿量品の長行」の読誦と「唱題」、まれには「唱題」だけでもやむをえない場合もあるかと思う。
 だからといって、いつもそれでよいというわけではない。(笑い)それぞれの生活の状況や事情があり、そのなかで、後退するよりも、少しでも勤行・唱題していこうという、成長の坂を上っていくことのほうが賢明であるからである。
22  信心の持続こそ肝要
 弘安元年七月、大聖人が妙法尼御前に与えられた御手紙がある。これは、夫にかわって質問をした妙法尼に対する大聖人の御返事とされている。すなわち、重病であった妙法尼の夫が、「南無妙法蓮華経と唱えるだけで即身成仏できるのかどうか」と大聖人にうかがってほしいと、妻の妙法尼に顧んだと考えられる。
 質問に対して大聖人は「一切の事につけて所詮しょせん・肝要と申す事あり、法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候、朝夕御唱え候はば正く法華経一部を真読にあそばすにて候、二返唱うるは二部乃至百返は百部・千返は千部・加様に不退に御唱え候はば不退に法華経を読む人にて候べく候」と仰せである。
 南無妙法蓮華経の題目こそ、法華経二十八品の肝心であり、即身成仏の根本法である。御本尊に「南無妙法蓮華経」と朝夕、唱えていくとき、一切の衆生は成仏できる、との仰せである。
 ところでこの夫の質問には、仏法の法理を学んだり、長い経典を読誦しなくてもよいのですか、との意味がふくまれていたと考えられる。実際、妙法尼の夫は、病も重く、そうした修行ができない。しかし、そのような場合でも、根本の信心があり、「南無妙法蓮華経」と不過に唱えていけば、成仏できると御教示くださっているわけである。
23  さらに、大聖人は「かかる持ちやすく行じやすき法にて候を末代悪世の一切衆生のために説きをかせ給いて候」と仰せである。
 大聖人の仏法の修行は、三大秘法の御本尊に対し奉り題目を唱えるといぅ、まことに簡潔明快なものである。このように”修行しやすい法”を一切衆生のために残してくださったことに、主師親三徳具備の御本仏の無量無辺の大慈大悲があられるのである。
 なお、妙法尼の夫は、大聖人から、この御手紙をいただいて間もなく、仰せのままに題目を唱えながら、成仏の相を示して亡くなっている。
 この妙法尼への大聖人の御教示を拝しても、かりに五座三座がきちんとできない場合には、方便品・自我偈と唱題、また唱題だけでもよいといえる。ともかく、不退に持続していくことが大事なのである。
24  題目の数について
 次に、「題目の数」について申し上げたい。
 題目は何遍ぐらい、唱えればよいのか。これも御書には、何の規定も記されていない。総本山五十九世の日亨上人も、「(題目を)唱える数には定まりがない、多くとも少なくとも其の人の都合である」と御指南されている。
 卑近な例でいえば、生活費に関しても、人によって必要な額は一定ではない。月に十万円で足りる人もあれば、百万円あっても生活できない場合もあろう。どれだけ自分で満足し、充実できるように生活をしていくかという努力は、自分自身で決めるものである。ともかく多ければ多いほどよいにきまっているが。(笑い)
 題目の数も、いちがいに何遍あげなければならないという、きまりがあるわけではない。大切なことは純一にして深き祈りの一念である。そして真剣に心ゆくまで唱題し、すがすがしき生命の歓喜を得ていくことである。
 この点について日亨上人は「身体中が歓喜で踊躍するようにありたい。御本尊と吾等と一体不二に成るまで励まねばならぬ」と強調されている。
25  要は、深く強き信心の一念があるか、ないかである。
 日寛上人は法華経題目抄の文段に、こう述べられている。
 「信はこれ行の始め、行はこれ信の終り、故に須臾も離るべからず。離るべきは題目に非ざるなり」と。
 すなわち、「信心」には、かならず「行」がなければならない。「行」のない「信心」など、ありえない。反対に「行」の根本には、かならず「信心」がなければならない。いずれにせよ「信」と「行」は少しも離れてはならない。「信」と「行」が離れてしまったならば、真実の題目ではない、との仰せである。
 さらに「若し信ぜずして妙法を唱うることは、題目を唱うとは名づけず。例せば『論語読みの論語読まず』というが如し。応に『題目唱えの題目唱えず』と名づくべきなり」と。
 御本尊への絶対なる確信を通しての唱題であり、祈りであり、行動への源泉となる題目でなければならない。
26  さらに末法における題目とは「自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と仰せのごとく、広宣流布への「化他」の実践が不可欠である。信心を根本に、自らも成長しつつ、折伏・弘教に励み、友を指導・激励していくという「化他の行」があってこそ、大聖人の仏法における正しき唱題行となるのである。
 私どもが自行と化他の実践をしながら、唱題修行していくことは、もっとも正しい信心の精髄なのである。信行の浅い人はそれなりの功徳であり、信心の深い人、すなわち自行化他にわたる信心の実践をしている人の功徳は、それなりにすばらしいことは当然の理なのである。
 ただし、日寛上人は「然りと雄も一向に唱えざる人には勝らんか」と述べられている。かりに、こうした御本尊への絶対の確信はなくとも、まったく唱題しない人よりは、その功徳においてまさっているということである。
27  勤行の時間について
 さらに「勤行の時間」についても、何時でなければならないという制約はない。
 宗門の解説書である『続日蓮正宗の行事』によれば、「勤行の時間は、基本的には朝夕の二回ですが、特に何時という決まりはありません。職業などによって事情が異なりますから、自分の生活に合わせて、無理のないように行います」とある。
 職業や個人の事情によって生活の時間帯も違う。タクシーの運転手の方や、看護婦さん、そのほか三交代勤務とか、深夜に働く人々も多い現代である。また朝早くからの仕事の方もいる。遠距離通勤・通学の場合も早朝に家を出なければならない。一律に、いつ勤行をしなければならないとは決められない。
 大切なのは、つねに大御本尊に南無しゆく信心の一念の姿勢なのである。
 戸田先生はかつて、「仕事の関係で、朝の勤行がじゅうぶんできないのですが」という質問に対し、「完璧に実践していこう」という一念と努力は必要であると前提されたうえで、こう答えられた。「勤行は、たとえ十五分でも、真剣勝負の意気でやれば、功徳はあります」と。
 朝、勤行する時間がなかったからといって、無理に電車のなかで非常識にも勤行をするなどという必要はない。それでは法を下げてしまう。現在は、以前よりも寺院も増えている。時間をみつけ、さまざまな知恵を働かせて、できるときに真剣に勤行すればよい場合もある。
 また、子供については、勉強することが仕事である。場合によっては、勤行が完全にできなくても、むやみに叱ったり、負担に思わせてはならない。そのことが因で、子供がかえって信心から遠ざかってしまう場合もあるからだ。むしろ長い目でみてあげて、「できない分ほお母(父)さんがその分しっかりご祈念してあげるよ」というくらいの大らかな心でいくことも必要ではないかと思う。
 肝心なのは、つねに御本尊に向かっていこう、真剣に勤行・唱題していこうという信心の一念である。その一念があるかぎり、しだいに時間的にも、また環境的にも、思う存分、勤行・唱魔ができる境涯に、かならずなっていくことを確信していきたい。
28  そのうえで、夜の勤行は、できるだけ早い時刻に行うほうが、価値的な場合が多いと思う。あまりおそくなると、疲れきってすがすがしい勤行ができなくなりがちであるし、おっくうになってやめる場合もあるだろう。(笑い)また、夜おそくの勤行は、近所迷惑の原因ともなりかねない。
 その意味からも皆で工夫し、協力しあいながら、早い時刻での勤行を、おたがいに心がけていきたいものだ。
 また、極度の疲労や仕事のつごうなどで、勤行ができない場合もあろう。とくに壮年部の方々には、そうした経験があるにちがいない。そのさい、婦人部の奥さま方は、感情的にご主人を責めるようなことがないよう、くれぐれもお願いしたい。(笑い)
 信心は一生である。”水が流れるごとく”生涯、不退の信仰を貫くことが肝心なのである。その意味から、不用意な一言で、かえってご主人の心をきずつけ、信心から遠ざけてしまうようなことは、愚かである。
 むしろ、広々とした心で包容し、こまやかな配慮をめぐらし、ご主人を思いやる奥さま方のあたたかな愛情にふれてこそ、ご主人もしだいに信心を向上させていこうという気持ちになっていくと思う。押しつけではなく、少しずつでも、勤行の励行へとご主人の心が向かうよう、奥さま方は真剣に祈念し、賢明な行動をとられるようお願いしたい。
29  唱題の声の大きさについて
 次に、唱題の声の大きさについて申し上げたい。
 『富士宗学要集』には「音声雅正にして、静にして、長短高下なく健に読経すべし」との御指南がある。
 「雅正」とは、雅やかで正しい、という意味で、「雅やか」とは、上品で優美なさまをさすように思える。ともあれ、ここに「静にして」と明快にあるとおり、唱題はけっして大声である必要はない。むしろ、深き一念をこめた勤行が大切である。
 日蓮大聖人は「題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし」と仰せである。
 題目を唱える声は、小さな声であっても、「大音」であり、その昔は全世界、全宇宙に響いていくとの御指南である。
30  大声での勤行・唱題は、近隣の迷惑となる場合が多い。その点でも、必要以上に大きな声での唱題は、慎んでいきたい。
 御書には「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわ」と仰せである。
 仏法には「毒鼓の縁」また「而強毒之」ということはある。ただし、だれ人にも生きる権利があるし、自由の権利も、またそれなりの信仰の自由も権利もある。それをまったくわきまえずに、独善的に、わがままに振る舞っていくことはまちがいである。世間の人々の迷惑となるような行いは、かえって法を下げることを知らねばならない。
 事実、これまでも、近隣への配慮や常識を欠いた行動から、仏法への誤解や偏見を生み、正しい理解を妨げてきたことが少なからずあった。その意味からも、近隣との友好と信頼関係が大切であり、こまやかな配慮と良識ある行動をお願いしたいと思う。
 また、戸田先生も、つねづね「生活に、学会人としての襟度をもて」と指導されていた。私どもは仏法の信仰者として、常識と雅量のある心の広さ、人を思いやるあたたかな心をもって行動していきたいものである。
31  豊かな人間性で良識ある行動
 さらに勤行のあり方に関する大聖人の御指南の一つとして「月水御書」がある。大学三郎の夫人からの質問に対しての御返事である。大学三郎は幕府の儒学者で重要な立場にあった人で、妻とともに純真な信心を貰いたといわれている。
 この御書は「方便寿量読誦事」ともいわれ、女性の「月水」(生理)の時の勤行・唱題は、どうあるべきかとの質問に対してお答えになっている。
 日本では長く女性の生理を不浄として忌み嫌う傾向があった。しかし大聖人は仏法上「月水」は少しも忌み嫌うべきものではない、自然の摂理ではないかと明示され、この女性蔑視の悪しき習いに対して、それは誤りであると述べられている。
 また、「随方毘尼」すなわち仏のいまだ制禁していない事例については、仏法の本義にたがわないかぎり、各地域の風俗や習慣、また時代の風習に従ってもよいという原理があることにふれ、不退の信心に立つことを前提として、「月水の御時は七日までも其の気の有らん程は御経をば・よませ給はずして暗に南無妙法蓮華経と唱えさせ給い候へ」と御教示されている。
 女性の立場を深く理解し、その人が無理なく安心して信心が続けられるようにとの、御本仏の深い御慈愛の御指導であると拝せられる。ここにも、指導のうえでの大切な原理を御教示されていると思う。
32  大聖人の仏法は一生成仏の大法である。「法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず」と仰せのように、火うち石で火をつけようとしても、途中でやめてしまえば火はつかない。ゆえに生涯にわたる地道な信心の持続こそ肝要なのである。無理をして、信心の炎をかえって消すようなことがあってはけっしてならない。
 この意味において幹部は、一人ひとりの状況をよく聞き、理解しながら、勤行のあり方、活動のすすめ方など、ケース・バイ・ケースできめ細かにアドバイスしていくことが大切である。
 戸田先生は、次のように指導されている。
 「信仰即生活であることを指導して幸福へと導くのであって、指導者は、一日も早く会員一同が幸福であらんことを願うべきである」と。
 人々をして幸福へと導いていくのが私どもの使命である。幸福への根本の修行は御本尊への勤行・唱題である。その実践が正しくすがすがしく持続できるよう、あたたかく励まし、指導していくのが、幹部の役目なのである。その目的を忘れて枝葉にとらわれ、会員に重荷に感じさせたり、圧迫感をいだかせろようなことがあってはならない。むしろ、気持ちよく納得して信心できるよう配慮し、指導してほしい。
 また、戸田先生は次のようにも述べられている。
 「人生は険難であり、その行路は多難である。なかなか普通の生命力では押し切ってはいけない。ゆえに、大指導者として、偉大なる御本尊の功徳を受けさせ、強き生命力を得させるように指導するのである」
 どうかこの指導のように、広々とした心で後輩、同志に対し、安心と納得と大確信を与えていける指導者になっていただきたい。本日の話から、何らかの示唆をくみとっていただければ幸いである。

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