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創価班、長城会第一回合同研修総会 現代に生きる「三国志」の精神

1986.11.2 「広布と人生を語る」第10巻

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1  本日は遠いところ、またお休みのところ、このように総会に集ってこられた諸君に、心からおめでとう、ご苦労さまと申し上げたい。きょうは、これまで何回もお話ししてきたが、『三国志』を通して指導させていただきたい。
 というのは、『三国志』は、戸田先生が仏法を根底としながら広宣流布のための人材育成、とくに青年の育成に使われた小説であり、そこには広布の戦いのためにも重要な教訓が読みとれるからである。
 『三国志』には人材論もある、また指導者論もある。世間の伝統、風俗、宗教、民族性についてもふれている。ともかく、さまざまな要素をはらんだ大河小説である。さらに、ここに措かれた人物像には、地獄界、修羅界、天界、菩薩界と十界の次元からみても、さまざまな縮図が描き出されている。
 したがって、この書は、古いようではあるが、現代に息づいている。その証拠に、多くの人々が今『三国志』を読み、現代に通じる多くのものを学びとっているが、戸田先生は三十年も前に、この『三国志』を読み、展開して使われたのである。この一つの事実からしても、いかに戸田先生に先見の明があったかがうかがえる。
2  『三国志』 の時代をみる
 三国時代とは、三世紀の中国で「魏」の国(曹操)、「呉」の国(孫権)、「蜀」の国(劉備)の三国が鼎立していた時代をいう。『三国志』には、この約百年間にわたった三国の治乱興亡の模様が描かれている。なお、現在の中国の地名でいえば、「魏」は華北、「蜀」は四川、「呉」は江南の地にそれぞれ対応している。
 三国時代というのは、一言でいうならば、流動の時代である。古い権威は崩壊したが、新しい権威はまだ形成されておらず、社会規範も価値観も混沌とした状態のなかにあった。これは、ある次元からいえば、現代も同じであると考えられる。
 能力に恵まれ、やる気のある人間にとっては、またとない時代であった。運がよければ、一介の身分から皇帝の座に就くことさえ夢ではないというのが、三国時代の様相であった。
 また当時、西洋では、ローマ帝国の末期である。「五賢帝時代」が終わりを告げ、「軍人皇帝時代」であった。すでにローマ帝国の統一と治安はほとんど失われていた。帝国の広大な領土を独力で統治することの困難を察したディオクレティアヌス帝は、四分統治制をしき、帝国を分割統治した。これは孔明の「天下三分の計」と通じるところがある。ほぼ同時代に、洋の東西で同じような治政のあり方が志向されていた事実に、歴史の妙を感じてならない。
3  ここで、ローマ帝国の「五賢帝時代」について少々述べてみたい。現在も、またこれからの時代も、諸君は賢明なる指導者であっていただきたいし、そのためにもいろいろなことを学び、また知っていただきたいとの期待をこめ、申し上げておきたいのである。
 「五賢帝」とは、西暦一世紀末以後の約八十年間(西暦96〜180)というローマ帝国全盛時代の、五人の皇帝のことである。それぞれ賢帝として、政治に優れた才能を示している。その五人とは、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスである。恐怖政治が続いたあと皇帝に推挙されたネルウァ以後、”皇帝は最善の人が統治者であるべきである”とするストア哲学の考えにもとづき、世襲制でなく、もっとも有能な人が、次々と後継者となっていったのである。この点はたいへんに重要であると思う。
 現在も、さまざまな分野で、世襲制は存在している。しかし、学会の世界では世襲制はまったくないし、これからも、断じて排していくべきであるといっておきたい。
 こうして、五賢帝の時代は、ローマ帝国がもっとも繁栄した時期となった。いわゆる「ローマの平和」を謳歌した時代であった。歴史家のギボンは、この時代を”人類史上もっとも幸福な時代”と評価しているくらいである。しかし、この繁栄の陰にも、しだいに政治、経済、社会の諸問題がしのび寄っていた。
 中国においては古代の三皇五帝の時代が、理想的な善政の行われた時であるといわれる。御書には「代は羲農の世となりて……」と、その理想的な社会のすがたを示されている。西洋社会における五賢帝の時代も、それに通じるものがあったといえよう。これは私たちのめざす広宣流布の社会のひとつの指標といってよいかもしれない。
4  吉川英治氏の『三国志』は、昭和十三年九月から太平洋戦争のさなかの十八年九月にかけて執筆された小説である。かつて従軍作家として、中国の大地を踏みしめた作者自身の見聞、体験が、この『三国志』の創作にたいへんに影響したという。
 と同じように、諸君が広宣流布のために活躍するなかでのさまざまな体験は、まことに貴重である。体験は力である。労苦をともなう自分自身の体験が、これからの人生の絢爛たる創造にすべて役立っていくことを自覚していただきたい。
 冒頭の劉備玄徳の感慨――「悠久と水は行く――幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた」というのは、そのまま吉川氏の中国の天地に対する感慨であったにちがいない。
5  戸田先生は、「水滸会」で、『水滸伝』をはじめとする、さまざまな書を通して指導をしてくださった。昭和三十年春、水滸会の幹事たちで次の教材の相談にうかがうと、「いよいよ『三国志』を始めるか」と言われ、それ以後半年間、『三国志』を教材として、指導者論や人間観などを教わったわけである。
6  「覇道」排し「王道」 の人たれ
 本年(昭和六十一年)の四月十三日であったと記憶するが、私は、中日友好協会名誉会長の王震おうしん氏と種々、懇談した。その折、私が「信条、座右の銘は」とうかがったところ、王震氏は「鞠窮尽瘁きっきゅうじんすい」――心身を労して国事に尽力する――という諸葛孔明の言葉をあげ、「国家と人民のために、自分のすべての力を一生懸命に尽くして奉仕していくことが、私の信念です。このとおりに私はやってきました」と静かに語っておられたことが忘れられない。
 また王震氏は、「青年に勧めたい中国の書物は何ですか」との私の問いに対し、そくざに「『三国志』です」と答えられた。
 さらに『三国志』の登場人物についての人物観も語り、「孔明」は、当時の中国社会の分裂状態に強い不満をいだき、統一への大志を貫いた人物で、尊敬すると述べられた。また「劉備玄徳」については、不仁、不義を憎み、仁義を重んじた道徳的にも優れた指導者であったと思う、と評しておられた。
7  玄徳、孔明は「王道」を、曹操たちは「覇道」を歩んだといってよい。「王道」とは、いわゆる道徳政治のことであり、王が天により民の君・師・親たるべく選ばれたことを自覚し、民生・経済を保障し、孝・悌等、人間の歩むべき道に基づく社会秩序を樹立しょうとするものである、と定義される。そして「王道」の根本は、王者自身の「徳」の厳格な修得にある、といわれてきた。
 これに対し、「覇道」とは、覇者が武力をもって天下を支配する権力政治のことであり、信義よりも功利を重んじるものである。
 今日も、さまざまな利害や功名、策略が渦巻いている。それだけに、こうした「徳」 の厳格な修得こそ何より肝要である。
 曹漁に、家臣の程豊がこう進言する。「王道の政治すたれてもはや久しく、天下はみだれ民心は飽いています。覇道独裁の強権がしかれることを世間は待望していると思います」と。
 これは、国を統治する力のない皇帝を廃し、武力をもつ指導者が国を治めるべきではないかと、暗に曹操の決断を促したものであった。
8  私は、かつて『若き日の日記』に、こう記している。
 「帰路、友と三国志等を語りつつ――。
 曹操の勇を思う。関羽の人格。張飛のカ。孔明の智。孫権の若さ。
 是非論、善悪論、多々論じあった。
 王道の人たれ、覇道の人になる勿れ。
 民衆の王たれ、権力の将になること勿れ。
 大衆の友たれ、財力の奴隷になる勿れ。
 善の智者たれ、悪の智慧者になること勿れ」(昭和三十年、二十七歳)
9  登場人物に対する戸田先生の人物観
 戸田先生は、「劉備玄徳は、優柔不断であるから、曹操に敗れるような憂き目にあうのもやむをえなかった」と厳しく見ておられた面もあった。
 さらに「諸葛孔明も、また玄徳も理想主義者であった」と。
 理想主義も大事だが、それだけでは現実の勝負には勝てない。勝負は現実のなかにあることを忘れてはならない。だからといって理想を失った現実は、ただ醜いだけのものになってしまうであろう。ゆえに現実主義と理想主義、この両方のいき方をふまえた中道主義でなければ、現実の諸問題を乗り越え、理想を実現していくことはできまい。
 しかし「『三国志』においては、曹操のごとき現実論者が、彼ら理想論者に打ち勝ってしまったという悲しみがある」と先生は話された。
 理想主義だけでは、政治力、経済力等にものをいわせる現実主義に敗れてしまうことが、あまりにも多い。この方程式は今も昔も変わることはない。また未来も同じであろう。
 また、「張飛」と「関羽」については、次のように述べておられた。
 「張飛は、粗雑で軽薄すぎるから、身を亡ぼすようなことになってしまった。ただし、彼は生命力には自信があった」と。張飛の失敗が酒にあったことは、ご存じのとおりである。
 また「関羽は、重厚な人柄だ。ときに損をするような、真面目な性格であるが、彼の偉さは義を立てぬいて、しかも自分を少しも偉いと思っていないところにあると思う」と。また「関羽は、信義の人であった。節操を尚び、義を重んじて生きた」と、関羽に対しては高い評価をされた。
 皆さまもどうか、この関羽のごとき”信義の人”の生き方をお願いしたい。
10  玄徳、関羽、張飛の三人の間に結ばれた有名な「桃園の義」について、戸田先生は「より大事なことは、三人が共によくたがいの短所を知って、補いあっていけたから、団結できたのだ」と話されていた。
 われわれもたがいに同志である。兄弟以上に深いつながりであるかもしれない。その意味から、相手の短所を追及するという行き方でなく、たがいに補いあう麗しい人間関係であっていただきたい。
 また「したがって、まず三人の性格上の違いをよく見ていかなければならない」ともいわれ、人物の見方というものを教えてくださった。
 『三国志』をただ物語としておもしろく読むだけでなく、人生と人物観に通ずる原理を読みとっていくことが大切である。人の性格というのは終生、変わらないものである。その相手の性格を知り、どう守り、生かしていくか。それが、多くの人をリードする指導者の根本要件である。
 さらに「どれが短所か、また長所は何か、を知っていくことが、たがいに相手の人物を理解する基本となるものだ。結局、三人が結束したのは、義を結んだときに、おたがい好きになったからだろう」といわれた。
 広布という大目的のためには、たがいに好きになるという強い結束が大事である。そうした同志としてのつながりほど、尊く強いものはない。
11  徐州の没落以来、数年ぶりに、玄徳、関羽、張飛を中心として、君臣一同が一城に住みうる日を迎えた。その日を迎えて、『三国志』には次のように述べられている。
 「顧みれば――それはすべて忍苦の賜だった。また、分散してもふたたび結ばんとする結束のカだった。その結束と忍苦の二つをよく成さしめたものは、玄徳を中心とする信義、それであった」と。
 なにごとをなすにも、それなりの「忍苦」はとうぜんあろう。また立場や場所は異なっても、いざというときはともに集い、ともに進んでいこうとの、強き同志愛による「結束」が必要である。ましてや広宣流布という大目的に進む諸君は、このことをけっして忘れてはならない。
12  生涯、信念と信義の道を
 先日、東京富士美術館で開催されていた「三国志人形展」を鑑賞した。制作者は川本喜八郎氏で、かずかずの賞を授賞きれている。
 川本氏と、種々、語りあいながら拝見させていただいたが、人形の一体一体がそれぞれの人物の魂と個性をみごとに表現しており、深い感銘をおぼえた。それは、川本氏が”これらの人物たちは、かく生きたにちがいない”という深い共感と、鋭い洞察の裏づけをもって、制作されたからだと思う。
13  川本氏は、著作のなかで、各登場人物への”人物評”を寄せているが、まことに的確な評となっている。
 たとえば、玄徳、関羽、張飛の三人の義盟について、こう評価している。「裏切りが日常化していた乱世に、桃園に義を結んだ三人が、生涯志を共にした、という事実は、今日でも充分感動的で、この三人の美しい結びつきがあったからこそ『三国志』は時代を超えることが出来たのであろう」と。
 やはり、時代、社会を超えて生き続けるもののひとつは、心の”美しさ”である。私たちもまた、心の美しい社会を作り上げていかねばならない。それを可能にするのが仏法である。
 現実は足の引っ張りあい、いがみあい、ねたみ、反目の渦巻く醜い社会である。まさに三悪道、四悪趣、六道輪廻の世界である。そのなかにあって、ほんとうに美しく、壊れない人間社会の建設は、仏法による以外にないのである。
14  川本氏が『三国志』のなかで、とりわけ高く評価している人物は、関羽や張飛ほどには目立たないが、五虎大将軍の一人である「趙雲」である。五虎大将軍とは、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲の五将である。
 川本氏はいう。
 「趙雲の忠誠は、玄徳が死んだ後、彼趙雲の死に至るまで延々と続くのである。
 趙雲の行動を見ていると、その人柄のよさ、判断の正しさ、強さ、戦いの正確さ、ということでは、『三国志』中随一ではないか、という気がする。彼には一寸した気のゆるみで作戦が失敗する、といったようなことは絶対に無いのである。
 諸葛亮孔明が立てた作戦を、最も確実に遂行出来たのは趙雲子龍で、孔明は誰よりも彼を信頼していたフシがある」と。
 私も、これまで数多くの人を見てきた。その経験からしても、この見解はうなずけるし、そのとおりだと思う。
 やはり「人柄」と「人格」のすぐれた人が、だれからも信頼され、頼られる存在となるものだ。また、「判断の正しさ」「強さ」「戦いの正確さ」というものは、リーダーに必要な資質である。
 私も若き青年部時代から、つねにこうした点を心がけて指揮をとってきた。未来を担いゆく青年部の諸君には、このことを強く申し上げておきたい。
 それほど目立たない人であっても、立派な人はいるものだ。地位や立場、外見などで、人物を評価することはできない。むしろ、黙々と苦労している人に、人材は多くいるということを、若きリーダーの皆さんは忘れてはならない。
15  ところで、趙雲の晩年の心意気を物語るエピソードがある。
 主君・玄徳の死後、孔明は有名な「出師の表」を上奏し、北伐に出征する。そのさい、孔明は、老いて鬢髪も白くなっていた趙雲を、あえて部隊の編制から除いて留守に残そうとした。
 そのときの、趙雲の心意気を、吉川英治氏は次のように描いている。
 「ところが、趙雲は、その情けをかえってよろこばないのみか、編制の発表を見るや否や、『どうしてそれがしの名がこの中にないのか。怪しからん』と丞相府へやってきて、孔明に膝詰めで談じつけたのである。
 『自らいうのは口はばったいが、先帝(劉備玄徳)のときより、陣に臨んで退いたことなく、敵におうては先に馳けずということなき趙子龍である。老いたりといえ、近頃の若者などには負けぬつもりだ。大丈夫と生れて、戦場に死ぬはこの上もない身の倖せ。――丞相はかくいう趙雲の晩節をあえて枯木のごとく、朽ちさせんおつもりであるか』
 これには孔明も辟易した」と。
 こうして趙雲は、自らの願いどおり、五千の精兵とともに大先鋒軍として先駆を切ったのである。
 ここには、趙雲の気概が浮き彫りにされている。いかに年をとっても、自らの信条、信念を、青年時代から変わらず貫いていく。そこに私は、趙雲の偉さを感ずるし、広布と信心における私どもの生き方も、かくありたいと願うものである。
16  民衆厳護の賢明な指導者に
 曹操の軍に大敗を喫した玄徳が、千里の道を敗走するさい、彼を慕う数万の民衆をともなった。仁徳の人である玄徳は、愛する民を見捨てていくことができなかったのである。
 しかし、いくさに不慣れな庶民をともなう行軍は困難をきわめ、曹操軍の追手にあって多くの民衆が戦いの犠牲となった。それを見た玄徳は深刻な悲嘆に沈み、「あわれや、無辜の民ぐさ達、我あらはこそ、このような禍いをかける! 我さえなければ」といって、川に身を投げようとする。
 玄徳は、こうしたセンチメンタルな側面をもった指導者であった。
 その玄徳に対し、周囲の臣下たちは「死は易く、生は難し。もともと、生きつらぬく道は艱苦の闘いです。多くの民を見すてて、あなた様のみ先へ遁れようと遊ばしますか」と嘆き、諌める。そこで玄徳も死を思いとどまり、再起を期していくわけであるが、その敗走は、結果として甚大な犠牲をはらってしまう。
 敗走に民衆をともなった玄徳の判断が正しかったか否か――これは、議論の分かれるむずかしい問題であるといえよう。事実、この玄徳の判断を”あきれてものがいえない”と、厳しく非難する人もいる。だが、民を思う玄徳の心情はまことに尊い。
17  この故事は、指導者が、民衆を深く愛していても、民を守りぬくことがいかに至難であるかを示していると思う。これまた、私のつねに実感するところである。
 時代はますます”エゴの時代”になってきている。民衆を心から大切にする指導者は皆無に等しいのではなかろうか。仏法者は、いかなる苦難、いかなる困難があっても、絶対に民衆を守らねばならない。仏法は民衆のためにあるからだ。
 ところで、この敗走の殿を務めたのは、関羽である。彼は、逃げまどう老人や幼子を守り、逃げ遅れた民衆を助けるため懸命に奮闘している。
 ある人はその姿に「会員のために身を挺する創価班を連想する」と話していた。適切な指摘をふくんだその言葉はたいへんに印象深く、忘れることができない。
18  一個の「人格」のもつカについて申し上げたい。
 曹操はあるとき、敵将であった関羽の志操正しき人格をたたえて、次のように言った。「敵たると味方たるとをとわず、武人の薫しい心操に接するほど、予は、楽しいことはない。その一瞬は、天地も人間も、すべてこの世が美しいものに満ちているような心地がするのだ。――そういう一箇の人格が他を薫化することは、後世千年、二千年にも及ぶであろう」と。
 このように一人の人物の高潔な人希というものは、敵味方を超え、時をも超えて人々を感動させ、向上せしめるものである。本物の人格者、立派な力ある人材、指導者の存在というものは、つねにそういう力をもっている。
 私も内外を問わず、心に感動を覚えるような人材を見つけることがあるが、この言葉はまことに至言であると思う。
19  逆境のなかに成長と勝利の力
 人生の逆境や不遇のとき、身の処し方はいかにあるべきか。将来ある皆さまのために、この点にふれておきたい。
 それはまだ蜀の国を起こす以前の玄徳のことである。周囲は玄徳の不遇をしきりに憤慨しているが、彼自身は淡々としている。このとき、玄徳の胸のうちは次のようなものであった。すなわち「身を屈して、分を守り、天の時を待つ。――蛟龍の淵にひそむは昇らんがためである」と。蛟龍とは水中にひそみ、雲雨を待って、時至らば天に昇り、龍となるという動物である。
 嘗さまも、自分を認めてくれない環境を嘆くようなことがあるかもしれない。しかし、青年時代は修行の時代である。今後、四十代、五十代になってからの社会と広宣流布の本舞台を胸に秘め、淡々として時を待つ、ふところの深い境涯も必要であると思う。屈するは伸びんがためであり、現在の本分に全力を尽くしつつ、天の時を待つという生き方もあることを知ってほしい。
 次元は異なるが、大聖人も、広宣流布は「時を待つ可きのみ」と仰せになっておられる。
20  この不遇ということに関して、日蓮大聖人の仰せを拝したい。
 鎌倉の鶴岡八幡宮が火災のため焼失したときのことである。池上兄弟は幕府の作事奉行であり、とうぜんその再建に当たるはずであった。しかし讒言にあい、その任をはずされてしまった。兄弟は、そのことを残念がり、大聖人にご報告する。大聖人は、それに対して、次のように指導されるのである。
 すなわち「返す返す穏便にして・あだみうらむる気色なくて身をやつし下人をも・ぐせず・よき馬にものらず、のこぎりかなづち手にもちこしにつけて・つねにめるすがたてにておわすべし」と。
 つまり、かえすがえすも今は穏やかな態度をして、造営の工事をはずされたことをあだみ、うらむようなようすもなく、また身なりも目だたないようにし、召使いなども連れず、良い馬にも乗らないで、(大工らしく)のこぎり、かなづちを手に持ち、腰につけて、つねににこやかな姿をしていなさい、と仰せになっているのである。皆さまも、この御指導を、聡明にわが身にあてて銘記していただきたい。
21  長い人生の途上には、仕事のうえでも、組織等のうえでも、自分の実力を発揮できる場を与えられていないと悩むことがあるにちがいない。しかし、ほんとうに立派な信心と人椿の人物であれば、やがて諸天が、その人にぞんぶんの活躍の場を与えないはずがない。”天の時”が来れば、不遇を味わった分の何倍もの重要な立場で、かならず大活躍していけるのである。
 ゆえに、一時のことで、くさったりしてはならない。まして信心を後退させるようなことは断じてあってはならない。
 また、人生には、ときに敗北もある。そのときにどう身を処し、振る舞うか。
 玄徳があるとき、敗戦の憂き目にあった。このとき、盟友・関羽が玄徳をさとしていう。「勝敗は兵家のつね。人の成敗みな時ありです。……時来れば自ら開き、時を得なければいかにもがいてもだめです。長い人生に処するには、得意な時にも得意に驕らず、絶望の淵にのぞんでも滅失に墜ちいらず、――そこに動ぜず溺れず、出所進退、悠々たることが、難しいのではございますまいか」と。
 人生の一つの敗北にあたって、くよくよと悲嘆するばかりでは、人生そのものの敗北にさえ陥ってしまう。むしろ敗戦は、次の勝利へのバネであると一念を定め、自らの力をたくわえていくべきである。
 関羽はさらに「人間にも幾たびか泥魚(泥の中の魚)の隠忍にならうべき時期があると思うのでございまする」と玄徳を励ましている。
 ”泥魚と人生”――これもまた味わうべき言葉であると思う。若き諸君にここから何かをくみとっていただければ幸いである。
22  子を大成させる母の厳愛
 劉備玄徳について見のがしてならないのは、母親の存在である。母親と子供の関係は、どれほど重要な意義があるかということを知らねばならない。これは多くの人に通ずることであるし、信心の世界もまったく同じである。母親と子供の関係を多くみてきた私は、母親の正しき一念の所作、一念のカが、どれほど子供に通じているかを知っているつもりである。
 劉備は、たいへんに親孝行な青年であった。父はすでにいない。母一人である。しかし、こうした恵まれない家庭からすぐれた人物が出るというのも、今も昔も変わりがないようだ。
 玄徳は、母を心から大切にした。しかし、その母はまことに気丈な母であった。偉大な母は、いつの時代であれ、そういうものだ。
 玄徳が故郷を出て、二、三年。――未だ志なかばでありながら故郷を思い、母のもとに帰ったとき、老母は優しく子供を迎えるどころか、厳しくこういった。
 「なんです。嬰児のように。……それで、おまえは憂国の偉丈夫ですか。帰ってきたものはぜひもないが、長居はなりませんぞ。こよい一晩休んだら、すぐ出てゆくがよい」と。そして「千億の民の幸を思いなさい。老い先のないこの母ひとりなどが何であろう。そなたの心が――せっかく奮い起した大志が――この母ひとりのために鈍るものならば、母は、億民のために生命を締めても、そなたを励ましたいと思うほどですよ」と峻厳な愛情で激励したのである。
 こうした偉大な母があればこそ、玄徳は志を屈せずに、さらに決意を強め深めて、前へと進んでいったのである。
23  広布大願こそわれらの使命
 孔明が、最後の戦線である中原へ進出する大事を前に、つねに緻密であったことを見のがしてはならない。
 現実の事にあたって大ざっぱな考えでは、けっして勝てるものではない。緻密でなくては、現実に打ち勝つことは絶対にできない。それを前提にしたうえで、また広々とした未来を志向していかねばならない。
 孔明は、つねに用意周到に事を進め、その作戦は緻密を極めていた。
 玄徳亡き後、五回の外征をおさめ、三年は内政の拡充に力を注ごうとしたのも、その現れであろう。
 つまり「三年いくさを出さず、軍士を養い、兵器糧草を蓄積して、捲土重来、もって先帝の知遇にこたえんと考えたのである。いかなる難事が重なろうと、中原進出の大策は、夢寐の間も忘れることなき孔明の一念だった。その事なくしては孔明もない。彼の望み、彼の生活、彼の日々、すべては凝ってそれへの懸命に生きていた」のである。
24  孔明は内政の拡充を進めるにあたって「三年の間、彼は百姓をあわれいらわった。百姓は天地か父母のように視た」という。
 この姿勢は、会員を大事にするという草創以来の学会精神に相通ずるものがあるといってよい。
 さらに「彼はまた、教学と文化の振興に努めた。児童も道を知り礼をわきまえた。教学の根本を彼は師弟の結びにありとなし、師たるものを重んじ、その徳を涵養させた」とある。
 学問と文化の振興、そして徳の涵養を主眼とした子供たちの教育――まことに将来を見すえた布石といえる。私どもが未来部の育成に全力を注いでいるのも同じ方程式といってよい。また、師弟の絆を根幹としているのも、学会の生き方に一脈通じるものがある。
25  ”すべては人にあり”を銘記
 次に”人材を兄いだす眼”という観点から申し上げたい。
 新しく呉の国の主となった孫権に向かって、参謀の役をつとめた周瑜しゅうゆは「いつの時代になろうが、かならず人の中には人がいるものです。ただ、それを見出す人のほうがいません」と語る。
 また孔明が、つねづね劉備に向かって言う言葉に”すべては人にあり”がある。”望蜀の巻”には「人です。すべては人にあります。領地を拡大されるごとに、さらにそれを要としましょう」と。
 同じように、広布の活動と前進にあっても、人材が何より大切である。自分より立派な人材をどれだけ育てあげるかが肝要である。そこに指導者としての正しい姿勢があり、成長と前進もあることを銘記していただきたい。
26  関羽、張飛が亡くなり、ひとり心労を尽くす諸葛孔明の心中を”五丈原の巻”では次のように記している。
 「口には出さないが、孔明の胸裡にある一点の寂寥というのは実にそれであった。彼には、科学的な創造力も尽きざる作戦構想もあった。それを以て必勝の信ともしていたのである。けれど唯、蜀陣営の人材の欠乏だけは、いかんともこれを補うことができなかった」――。
 戸田先生は、孔明に対する人物観として「人間おのおの長所があれば、短所もあるものだ。さすがの孔明としてもいかんともしがたいところがあろう。蜀の国に人材が集まらなかったのは、あまりにも孔明が才が長け、几帳面すぎたからだ」と評しておられた。
 才があるからといって、すべてを一人で行ってしまっては、人を育てることはできない。皆の意見をよく聞き、そのうえで結論を出していくことが大切である。また適材適所で人を生かしながら、それぞれに責任をもたせ、一人ひとりに自信をもたせていかなければ、人は育たない。
 さらに戸田先生は孔明について「しかも、彼には、人材を一生懸命になって探す余裕もなかった。そこに後継者が育たなかった原因があると思う。しかし、ともあれ孔明死後、蜀は三十年間も保ちえたのをみれば、まったく人材がいなかったわけでもない」と語っておられた言葉を忘れることができない。
 今、学会には人材が陸続と育っており、これほどうれしいことはない。
27  劉備玄徳が亡くなり、その子の劉禅りゅうぜんが蜀の皇帝の位にのぼるが、彼には父帝玄徳のような大才はなかった。何よりも、艱難を知らないで育ってしまったからである。
 問題はここにある。劉禅は劉備が四十代後半の時に生まれた子であり、劉備死去のときは弱冠十七歳であった。大事にされすぎた点があったのかもしれない。
 先の川本氏も「諸葛売はじめ、よりすぐった人たちの集団のなかで、掌中の珠の様に育てられた御曹子が、バカの代名詞のような大人になってしまうとは……世の中は、思うようにならないものである」と述べられている。
 戸田先生も「両親が働き盛りの時に生まれた子供は優秀に育つ場合が多い」といった意味のことをおっしゃっていた。
 諸君もさまざまな苦労が多いことと思うが、「艱難に勝る教育はない」との心意気で、これからの人生に取り組んでいっていただきたい。それがすべて自身を磨き、自身の徳になり、また子供への守りとなるからである。
28  生涯、青春の理想に生きよ
 どんな英傑でも、年齢や境遇の推移とともに、人間がもつ平凡な弱点に陥りやすい。晩年期にさしかかった曹操の姿を通して、こうした教訓を読みとることができる。
 「むかし青年時代、まだ宮門の一警手にすぎなかった頃の曹操は、胸いっぱいの志は燃えていても、地位は低く、身は貧しく、たまたま、同輩の者が、上官に媚びたり甘言につとめて、立身を計るのを見ると、(何たるさもしい男だろう)と、その心事をあわれみ、また部下の甘言をうけて、人の媚びを喜ぶ上官にはなおさら、侮蔑を感じ、その愚をわらい、その弊に唾棄したものであった。実に、かつての曹操は、そういう颯爽たる気概をもった青年だった」とある。
 諸君もまた、そうした理想に燃えている一人ひとりであろうと思う。
 しかし、悲しいことに五十代後半にさしかかった曹線は、かつての英傑の面影を失っていく。
 「ところが、近来の彼はどうだろう。赤壁の役の前、観月の船上でも、うたた自己の老齢をかぞえていたが、老来まったく青春時代の逆境に嘯いた姿はなく、ともすれば、耳に甘い側近のことばにうごく傾向がある。彼もいつか、むかしは侮蔑し、唾棄し、またその愚を笑った上官の地位になっていた」のである。
 われわれも、利己の心にとらわれ、広布の大理想への情熱の炎を消してしまえば、こうした姿に陥ってしまうであろう。こわいことである。
29  戸田先生は、晩年の曹操について、次のように言われた。
 「曹操は大成するにしたがって慢心を生じてきた。自分を諌めたり、反対意見を出す者を遠ざけたり、殺したりするようになってしまった」と。
 またこのことに関連して「若い時代に指導者の立場になったら、老人の意見を大事にしなければならぬ。逆に老人になってから指導者となるときは、必ず若い人の意見を聞いていかねばならない」と指導された。まったく私もそう思っている。
 本日は『三国志』を通して、何点かの所感を語らせていただいた。最後に諸君の活躍と成長を心より念願し、指導にかえさせていただきたい。
 『三国志』については、吉川英治著の小説『三国志』によった。

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