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日蓮大聖人・池田大作

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社会部、女子部の合同研修会 民衆の力が時代、社会を変革

1986.10.19 「広布と人生を語る」第10巻

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1  本日の、社会部「慈光会」、女子部の「白樺」・「華冠」・「デザイン」・「二葉」の各グループの総会ならびに合同研修会には、北は北海道、南は沖縄、九州、また四国からも代表が参加されているとうかがっている。心からご苦労さまと申し上げたい。
 きょうほ、私がつれづれに思い、考えていることを語り、指導にかえさせていただきたい。
 以前、ある地方の会合で、一人の幹部が、遅れてきた青年に向かって厳しく叱責した、という話を聞いた。そのとき、私は「それは、たいへんな誤りである」と戒めたことを覚えている。やっと仕事を終えて最後に駆けつけてきた人ほど、指導者は、抱きかかえるように「よく来られましたね」といって、慈愛をもって接していかなければならない。
 それを、遅く来たから叱るなどという権限は、だれにもない。叱る権限があると思っているのは、すでに増上慢にとらわれているのである。仏法の世界はあくまで平等大慧と慈悲を貰いていかねばならない。
 その意味から、きょうは、全国からおいでくださった皆さまを最大にたたえ、話をさせていただきたい。
2  指導主義は学会の誇りある伝統
 さて、人を育成していくうえで、「指導」と「教授」の二方法があるが、この二つは次元が異なっているようである。
 「教授」は、自分の知っている知識を、後輩、あるいは人々に教えることといえる。一方、「指導」は、より高いものを指さし、幸福の道へと人々を導いていくことであるといえよう。
 したがって、「教授」の場合は、それなりの知識が必要であり、そうでなければ教授していくことはできない。それに対し「指導」は、人々を御本尊へ導き、正しき信心を教えていくことである。また確信ある人生の方向へ、より高き進歩の方向へと導くことである。この指導主義こそ、学会の伝統精神にはかならない。
 学会のなかをみると、一主婦が大学教授を立派に指導していることもある。また、一青年が、恩師である教員を指導している場合も多々ある。たいへんにすばらしい、学会ならではの、正汝と正義と幸福への励ましの指導の姿である。
3  ともかく、指導にさいし肝要なことは、指導を受けた人が、心から納得し、勇気をもって、新たな、またより高き人生の出発ができるか否かである。次の大きな活躍のための活力をもたらし、その道を開いてあげられるかどうかである。その力が指導力といえる。
 いくら長い話をし、博学ぶりを披歴しても、相手が納得しない、元気にならない、希望も感じられない、というようであれば、指導した意味はない。そこに信心指導の困難さもあるし、それを成し遂げてきたところに、学会の誇り高き伝統もある。
 きょう集まった皆さま方は、広布の開拓者であり、信心の指導者、幸福への指導者である。また、人生、生活の指導者でもある。
 皆さまの活躍のいかんで、この現実の社会を、いかようにも変えていくことができる。社会的に立派な肩書をもった人や、著名な政治家の手によらなければ、世の中の変革ができないということはない。庶民の行動が、時代の変革と社会の変革を成し遂げてきたのが、歴史の常だからである。正法をたもった民衆が、自身の境涯を大きく開きつつ、その力を地域に浸透させていくことじたい、すでに時代、社会を確実に変えているのであり、広宣流布の原動力となっていることを自覚されたい。
 よりよき社会を建設しゆくのが、われわれの目的である。仏法では、この社会の変革について「一念三千」「依正不二」の法理から根源的に説いている。それは、一人ひとりの生命、すなわち一念の変革から出発し、人間と社会の変革、さらに国土の変革をも包含した法理なのである。
4  「信」「行」深めゆく「学」を
 さて、秋といえば、学会にあっては、教学研鑽の時としてきた。以前はひんぱんに教学試験も実施され、教学の研頭を確認しあったものである。
 しかし最近は、人数も多くなり、会場のつごうなどもあって、実施回数が少なくなった。そうなると、人間の常として、ともすれば教学への真剣な研磨を怠ってしまいがちになるものだが、私はそうした傾向に陥ることをつねづね心配している。
 信心の世界は、あくまでも「信」「行」「学」の三つがきちんとそなわっていくのが根本である。したがって「学」といっても、「信」「行」を欠いた、教学のための教学というのはありえない。
 いかに教学を学び、その文々句々をオウムのようにくり返しても、「信」「行」がなければ、なんら成仏のための力とはなりえない。それのみか、教学を、自身を飾り、自己の権威のために利用するようであるならば、法盗人といわざるをえない。弘教も勤行もせず、少しばかりの教学を身につけ「われ教学の大家なり」と思いあがり、結局退転していった者もいる。大聖人の仏法の大道を踏みはずした者であり、まことに哀れな姿といってよい。
 教学は、信心より起こり、信心に帰着していくものである。さらに、自分自身の「信」「行」を高めるものであり、広宣流布の前進のためのものである。一個人の名誉とか権威のためにあるのでは絶対にない。信心ある人こそ尊敬すべきであって、少しばかりの教学があるからといって、その人を特別視する必要などまったくない。
 どうか皆さん方は自身の信心と成長のために、日々、御書を拝し研鑽していただきたい。また現在、「大白蓮華」に連載させていただいている御法主上人の「『観心本尊抄』御説法」を心して拝していきたいものである。
5  ノーマン・カズソズの奇跡の生還に共鳴
 かつて、”インドの良心”といわれたJ・P・ナラヤン氏(故人)と会見した。さすが立派な人強者であり、まことに清神の指導者というにふさわしい方であった。
 一方、”アメリカの良心”といえば、かつてジャーナリストとして活躍し、現在はカリフォルニア大学医学部教授で、学生のための人文教育にたずさわっているノーマン・カズンズ氏である。来年、訪米した折にはぜひお会いして会談したいと思っている。
 ノーマン・カズンズ氏は、本年で七十一歳になる。主な著作として『人間の選択』が有名であり、また最近邦訳された『私は自力で心臓病を治した』がある。また、自身の膠原病を克服した体験をつづった『五〇〇分の一の奇蹟』もよく知られている。
 いずれの著作も、そこに説かれている内容は、かつて戸田先生が「医学や科学が進めば進むほど、仏法の正しさが証明されるようになる」といわれたように、仏法の正しさを証明するものとなっている。
 カズンズ氏は以前、広島の被爆乙女をアメリカに連れていって手術を受けさせ、日本でも大きく報道されたことがある。
 彼は四十九歳のとき、膠原病に見舞われ、また六十五歳のときに心臓病で倒れた。しかし、いずれも乗り越え、死の淵から生還したという経験をもっている。こうした経験をくぐりぬけているだけに、その生き方には共鳴するところが少なくないし、そこからの発言には、傾聴すべき点が多々あると私は思っている。
6  きょうとくに紹介したいのは、彼の『五〇〇分の一の奇蹟』(松田銑訳)という著作である。そこには、仏法に通ずる論調が多く見られる。そればかりか、私どもが信心のうえから指導し、主張してきた論調の正しさを証明する内容が含まれているからである。その意味から、少々むずかしくなるが、お話ししておきたい。
 先ほど申し上げたように、カズンズ氏は、四十九歳のときに突然、膠原病に見舞われた。主治医からは、専門家の一人が全快のチャンスは五百に一つだと言ったことを打ち明けられる。そのときに彼は「その五百人中の一人になるつもりなら、当然のこと、単に受身の傍観者に甘んじていてはだめだ」と思ったという。そして、主治医の理解ある協力のもと、現代医学の常識からすると破天荒な積極的治療を試みて、みごとに死の淵から生還した。
 主治医の理解ある協力もあったが、自分の生きようとする強い意志によって、奇跡が起きたわけである。これも意味があると思う。私どもが、”信心の力を根本にすれば、かならず病気を克服できる”と指導しているのも同様である。
 しかし、カズンズ氏の場合も、その治療法が現代医学の常識から外れていたとはいえ、けっして医学というものを無視したわけではない。
 私どもの場合にあっても、信心を根本に、自身の生命力を湧現させながら、医学の力を最大限に活用していく。いわば、諸天善神の働きとして生かしきっていく――そこに信仰の意義があるといってよい。それをわきまえずに、医学をまるで否定するかのように、信心のみを強調して、人の誤解をまねくような言動や指導はつつしんでいかなくてはいけない。
7  カズンズ氏は「この病気の経験全体からわたしが引き出した結論は何かと言えば、第一に、生への意欲というものはたんに理論的抽象ではなくて、治療的な特徴を持つ生理学的実在だということである。第二に、わたしの主治医が、医師の最大の任務とは患者の生への意欲を最大限まではげまし力づけ、病気に対する心身両面の自然の抵抗力を総動員させることであるという認識を持つ人であったのは、本当に信じられないほどの幸運であった」と述べている。
 私も、彼の指摘するような認識をもった医師こそ、ほんとうの医師であると思う。
 また、「わたしはこれまでに、病気が悪化の一途を辿っており、治療の手はないと専門家に宣告された時、どう思ったかとよく尋ねられた。その答えは簡単である。わたしはその宣告に服さなかったから、いわゆる不治の病気につき物の恐怖と落胆と狼狽のサイクルにはおちいらなかった」と示している。
 カズンズ氏の、この”宣告に服さない”という信念は、力強く生きようとする”生への選択”であり、ひとつの信仰にも通じょう。
 ましてや、妙法を受持した私たちは、より大きな信念をもっていきたいものだ。私たちには御本尊がある。御書がある。そして同志がいる。じつに、すばらしい環境に身を置いているのである。しかも妙法を受持して大病を奇跡的に克服した数多くの体験もある。
 この事実を、また正法を、正しく見ようともせず、偏見の眼で見るいわゆる知識人もまだまだ多い。大聖人が「一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろ生広げて今の世の日本国の一切衆生となれるなり」と示されているとおりの姿である。
 それに対し、世界の一流の人といわれる人は、カズンズ氏のように、たいへん仏法に近い哲理を堅持しているといえまいか。
8  またさらに、「しかし、だからと言って、わたしが事の重大さをまったく気にしなかったとか、始めから終りまで朗らかだったとかいう訳では決してない。身体を動かせないという事実だけで、自分の病状は専門家たちが本当に憂慮しているケースなのだという証拠には十分だった。しかし心の底では、わたしはまだまだ回復の見込はあると知っていて、一挙逆転勝ち上いう考えを楽しんでいた」とも語っている。
 こうした考え方は、その人なりの信念の力ともいえよう。私たちもそうした決心でいきたい。
 カズンズ氏の指摘する一つに、患者の九〇パーセントまでは、自分の身体の自然の治癒力でその病気が治るのに、自分のカでは治らないときめこんでいるという。患者の病状が生への可能性を残しているかどうかを、医学的に、また生理学的にさまざまな角度から見分けるのが、医師の第一歩であろう。
 これを患者の立場からみると、ちょっとした病気でも大げさに考えたり、大病といわれれば、死ばかり考える。いかに生きるかが大事であることを忘れて、よけいに病気を進行させている場合も多々あるようだ。その意味においても、正しき信仰、信念のカがどれほど重大であるかを、彼の言葉は示唆しているといってよい。
9  「生命力」発揮しゆく根本は信心
 戸田先生はよく「生命力」という言葉を使われた。また「病気と死とは別問題である」とも話された。
 カズンズ氏は「わたしはもう一つのことも学んだ。それは、たとえ前途がまったく絶望的と思われる時でも、人間の身心の再生能力を決して過小評価してはならぬということである。生命力というものは地球上でもっとも理解されていない力かも知れない」とも指摘している。
 こうした心身の両面をとらえた「生命力」との見方は、戸田先生の指導に通ずるものがあり、仏法に近づいた考え方であると私は思っている。つまり、彼の論理は、妙法を唱えることにより、境涯を拡大し、生命力を最大限に発揮していける私どもの信仰の一分に通じるものだからである。
10  カズンズ氏は、さらに続けて述べている。「ウイリアム・ジェイムズは、人類はともすれば、自分で設けた枠の中に閉じこもって生き過ぎると言った」と。
 ジェイムズ(一八四二−一九一〇年)は、アメリカの思想界をリードした哲学者・心理学者の一人で、実用主義(プラグマティズム)の先駆者である。
 たしかに、人はともすると、自身の狭小な枠に陥りやすい。その枠を動かない常識と考え、定まった既成事実ととらえるのが人の常であるかもしれない。そうした既成概念の枠を自分自身の生命力で打破しながら、無限大に境涯を開いていこうとするのが仏法であり、その具体的な実践が妙法の信心なのである。
 また「人間の精神と肉体の双方に、生まれながらに完全性と再生を求めてつき進む力が備わっている。われわれがその自然のカにもっと十分の敬意を払うようになったら、その枠がうんと拡がっていく可能性がある」と論じている。
 つまり、この生命にそなわった本然の力を守り育てることこそ、人間の治癒力をもっと発揮させていくことになるのである。これもまた、仏法の法理にかなった論調である。つねづね私どもが主張し実践してきた哲学のひとつであるといってよい。
11  カズンズ氏は、次のようにも記している。「わたしは入院中に、病院が驚異的な科学技術の形で提供し得る一切のものよりも、同情の雰囲気のほうがずっと患者の助けになるという確信を抱いた」と。
 ここでいう同情とはいわゆる”安同情”ではなく、あたたかな生への励ましであり、また、生きゆく勇気を与えていく激励であるにちがいない。真にその人を思ってくれる慈愛のほうが、科学技術の粋を集めたその治療よりも、はるかに患者の助けとなるというのである。
 これは、医療の最前線にたずさわってこられた「白樺グループ」の方々の伝統精神である。また、学会の組織のなかでの数えきれないほどの体験が証明しているところでもある。
 カズンズ氏はまた「病院について――いやその点ではむしろ医師についてと言った方がよかろう――一番問題にされるべき点は、患者にここは自分のいるべき場所だという確信を抱かせ得るかどうか」であると指摘している。
 かんたんにいぇば、患者に、ここにいればかならずよくなると期待をもたせうるかどうかが根本である、ということである。たしかに、患者にそうした期待をもたせられるならば、どれほどか心強い励ましと、治癒への力となるか計り知れないであろう。
12  戸田先生はつねに、人間の生命の中には、すべての薬をつくる製薬工場がある、と指導された。カズンズ氏もこれと同じことを述べている。すなわち「丸薬に魔力があるからではなくで、人体そのものこそ最良の薬屋であり、もっとも効験のある処方箋は人体の書く処方箋だからである」と。
 カズンズ氏は「薬屋」、戸田先生は「製薬工場」と(笑い)、表現は異なるが同一のことを指している。
 カズンズ氏は次いで「精神と肉体とが本当は別々のものではないという証拠である。病気は常に両者の間の相互作用であって、精神から始まって、肉体に影響することもあれば、肉体から始まって、精神に影響することもあり、その両方の場合とも同じ血流の作用を受けている」と述べている。
 これは、仏法で説く色心不二論に通ずる見識であり、さらに仏法を志向した考え方であるといえよう。
13  「エグモント」とオランダ独立運動
 話は変わるが、先日、たまたまテレビのスイッチを入れたところ、NHKの「名曲アルバム」でベートーベンの「エグモント」序曲を放映していた。
 ベートーベンの序曲は全部で十二曲あるが、そのなかでも一八一〇年に完成したエグモント序曲は、もっとも人気のある名曲とされている。
 ベートーベンは、十六世紀のオランダ独立運動を題材としたゲーテの戯曲『エグモント』に感動して、この序曲を創ったといわれている。のちにベートーベンは友人に送った手紙のなかで、ゲーテへの敬愛の念をこめて、次のように述べている。
 「私はもうただ詩人に対する愛からのみで、エグモントを作曲しました」と。
 このエグモントの独立運動は、広宣流布に進みゆく私どもの生き方、運動にとって、数多くの示唆を与えてくれるがゆえに、歴史的事実をふまえながら、少々話をしておきたい。
14  エグモント(1522〜68年)は、南部ネーデルラントの大貴族であった。ネーデルラントは今のオランダ、ベルギー地方をさすが、当時はスペインの属領であり、十六世紀にスペインからの独立運動の舞台となった。
 オランダ独立運動の中心的指導者であったエグモントは、独立運動のなかで、民衆のため、信念のために、その身を捧げるのである。
 戯曲『エグモント』は1787年9月に完成する。ゲーテ、38歳のときである。ゲーテは、1775年、故郷のフランクフルトを離れ、後半生を過ごすことになるワイマールに赴く。ここでワイマール公の要請で、かずかずの要職に就いて政務に尽くす。『エグモント』は、すでにフランクフルト時代に構想し、その大半を執筆していたが、ワイマールでの多忙な公職のためもあり、創作活動は思うように進まなかった。そして、ゲーテは、1786年から待望のイタリア旅行に出かけ、ローマで『エグモント』を書きあげる。
15  戯曲『エグモント』でゲーテは、史実を題材に主人公を自由と正義を愛する革命的宗教運動の盟主として描いている。新教徒弾圧のためにスペインからアルバ総督が、ネーデルラントに派遣される。エグモントは、アルバ総督の策略にかかって捕らわれ、死刑を宣告される。しかし彼は信念をまげない。
 彼の恋人であったクレールへンは、必死で彼を救おうとするが叶わず、絶望のあまり毒をのんで命を絶つ。死刑を前にしたエグモントの獄屋に、クレールへンの幻影が現れ、彼の正義の死を祝福する。エグモントは”愛国の志士たちの流した血は無駄ではない。今、私は自由のために死んでいくのだ”と語り、力強い足どりで胸を張って刑場に向かうのである。
16  エグモントらネーデルラントの民衆が独立へ果敢な運動をくり広げた十六世紀は、日本では、戦国時代の混乱をへて、織田信長や豊臣秀吉らによる全国統一が進んだ時代にあたる。
 この世紀、ヨーロッパでは、全土を震撼させる重大な事件が起きている。それは「宗教改革」の勃発と、それに伴う旧教と新教の血なまぐさい対決である。ネーデルラントの独立も、この深刻な対立が背景にあった。
 1517年、ルターによって口火を切られた宗教改革の嵐は、燦原の火のごとく各地に広まり、ネーデルラントにも、いち早く浸透を始める。それに対し、領主のスペイン王フェリぺ二世は、強権的統治を強め、新教徒を徹底的に弾圧した。この動きに、新教徒の勢力の強いネーデルラントの貴族・市民が反発し、独立運動への機運が高まってくるのである。
 こうした時流のなか、l566年に、ネーデルテントの民はブリュッセルで「ゴイセン(乞食党)」を結成し蜂起する。急進派は、教会や修道院を襲い、偶像破壊を進めた。
 これに対し、スペインは翌年、アルバ総督を急派。アルバ総督は騒擾評議会(血の評議会)を設けて恐怖政治を展開し、ユダモントをはじめ八千人に及ぶ貴族・市民を処刑した。こうした弾圧の嵐に、約十万人の民が国外へ亡命、避難している。
 アルバ総督ら旧教勢力の攻勢に対し、新教勢力も反撃を開始し、1568年からは、本格的な独立戦争の様相を帯びる。「乞食党」らの活躍により、新教徒が勢力を増し、76年には、ネーデルラントの全17州が同盟を結び、独立への統一勢力を築くにいたる。
 しかし、その後、独立運動を主導してきた新教徒の強い北部と、旧教の根強い南部の対立が激化し、分裂。北部の諸州は結束してスペインと戦うことを決め、81年には北部7州が独立を宣言。その後も戦争は続くが、オランダとして一応、独立したことになる。
17  背景にプロテスタントの宗教改革
 こうした十六世紀の独立運動の背景にあった「新教」すなわちプロテスタント運動についてふれておきたい。
 その運動はルター派、カルバン派から始まり、のちに英国国教派、バブティスト派、メソジスト派、クェーカー派など多ぐの派に分かれていったが、絵称して「新教」と呼ばれているものである。宗教改革以前の十四、五世紀のカトリック教会の腐敗、堕落ぶりは、はなはだしいものがあり、新教は、そうした教会に対し抗議(プロテスト)する運動として起こってきたのである。
 当時のカトリック教会の権力は絶大なものであった。イタリア半島の三分の一這教皇領、ドイツの国富の三分のl、フランスでは国富の五分の一が教会のものであったといわれる。しかも、司教など教会の地位も、信仰や人格、学識より財産や政治的つながりで決まるといったありさまに、批判、非難の声があがっていた。そして何より人々の反感をかっていたの
 が、これら教会の聖職者たちの生活、行状の乱れであった。
 その仲間の実態を、ある修道士は、こう述べている。
 「貧しい人びとの父たるべき者たちが、――美食をむさぼり、朝寝を楽しむとは。――朝の祈りや、イサにお出ましになる者は皆無に近い。――彼らは、たら腹食って酔っぱらうことだけを考えている。――不潔なことは言うまでもなく、いまや修道士たちの集会は、色好みのやからが集まる売春宿か、役者どもの顔見せぐらいにしか思われない」と。
 さらに、免罪符の問題など、教会の権威に対し立ち上がったルターたちの宗教改革の運動は、乱れた時代のとうぜんの帰結であったといえよう。
18  一五一七年、ルターによる、免罪符などに対する教会批判に始まった新教と旧教の対立。その宗教改革の時代の流れのなかに、オランダ独立戦争の勝利があったわけである。それは、ネーデルラントの新教徒に、信教の自由をもたらすものでもあった。同時に、スペインからのオランダ独立は、スペインの全盛時代に終焉を告げ、オランダ、イギリスの黄金時代を迎える十七、八世紀の開幕ともなっている。
 こうした、物質、精神の両面にわたる時代の変遷の根底に、つねに宗教の変革があったことを鋭く見ていかねばならない。
19  ゲーテの親友であり、また歴史家でもあったドイッの劇作家・詩人のシラーは、その著『オランダ独立史』のなかで、こう述べている。
 「世界史において、十六世紀をもっともかがやかしい世紀となしたもっとも注目に値する国家的事件の一つは、ネーデルテントの自由の建設であると思う」と。
 そして彼は、こうも述べている。「それ故に私は、庶民の強さのこの美しい記念を世間へ開示し、私の読者の胸中に自身についての親愛なる感情を喚起し、そして人間が善事のためにいかなることを敢行しうるか、また結合によっていかなることを成就しうるだろうか、それの一つの新しい、廃棄しがたい実例を与えるのを、試みてみるに価せざるものだとほ、思わなかったのである」と。
 まさに、このシラーの言葉のごとく、真実を求める庶民の団結の力、その敢行によって成し遂げられた偉業は、すばらしき歴史の証明であった。市民、庶民のなかに、時代の根本的流れを見極める、このシラーの歴史への姿勢は、次元は異なれ、広布の使命へと向かう私たちの史観にも通ずるものがあるといえよう。
20  民衆のエネルギーが運動を推進
 こうした抵抗運動の中核となった「乞食党」についてふれておきたい。
 一五六六年、スペイン国王フェリぺ二世の圧政に憤慨するネーデルラントの中・下級貴族数百人が、ブリュッセル宮廷(政庁)に押しかけた。このころには、抵抗運動の主導権が、ようやくエグモントのような大貴族の手から、より広い階層に移っていたのである。彼らの請願は「宗教裁判の廃止」等であった。
 その折に宮廷側近の一人が彼らを侮辱して「たかが乞食の群れに過ぎません」と言った。通説では、これが「乞食党」の名前の由来とされている。
 彼らは自分たちの集団につける名前に困っていたこともあり、宮廷の側近の侮辱の言葉を聞き、「これはおもしろい」と、その蔑称を逆手にとって、自らの栄誉の呼称としたのである。このとき、彼らは「乞食党、万歳!」と乾杯を交わしたという。その後、この名称のもと圧政への抵抗のエネルギーを結集し、歴史に残る活躍をするわけである。
21  この例のごとく、何ごとも相手を”のんでいく”度量が大切であると思う。悪口や侮辱など何でもない、正義の人を侮辱することは天につばする行為であると、堂々と前進していける大きな器量と度量がなければならない。むしろ正法を侮辱する人の末路を考えれば、かわいそうである。
 学会もこれまで「病人と貧乏人の集まりである」などと、かずかずの悪口をいわれ、追害を受けてきた。しかし、つねに、その悪口と逆風をむしろ誇りとしていく大度量で進んできたがゆえに、後世に輝く広布の歴史を刻んでこれたのである。
22  l567年、先ほど申し上げたアルバ総督の恐怖政治と血の粛清が始まる。乞食党も大打撃を受け、処刑を免れた者も大量に海外に亡命する。亡命者たちは「海乞食」と称して運動を持続。また国内にひそんだ者は「森乞食」となって教会や修道院を攻撃するなど、急進的なゲリラ活動をくり広げた。
 1572年、海乞食の一団はブリーレを占領する。さらにホラント、ゼーラント両州の諸都市を次々に占拠する。これが実機となって、以後の抵抗運動は成功裏に進展していくのである。
 迫害にも屈せず、ついに独立への”中核”の存在となった乞食党の歴史に学ぶことは多い。
 私どもは迫害を受けたといっても、まだまだ彼らには及ばない。しかも彼らの何十倍、何千倍の力を発揮できる環境をもっている。ゆえに、日本と世界の平和のひとつの”中核”となって、これからも進んでいかねばならない。二百年もすれば、かならずやわが日蓮正宗創価学会の信念と栄光の歴史もまた、世界の人々によって大いに論じられていくにちがいないと思うからである。
23  さてエグモントの人物像であるが、彼はつねに一生懸命に生き、けっして向上心を失わず前進する情熱家であったとされている。ゲーテは、その戯曲において「天下こぞって、エグモント伯爵になついている」と、その人望のほどを表現している。
 また、戯曲のなかでエグモントは「いまの瞬間を楽しむことによって、つぎの瞬間を確信するべきではないか」と、いたずらな不安と臆病によって現在をムダにする姿勢を退けている。
 さらに「わたしは高いところに立っているが、もっと高く登ることができるし、登らざるをえない。わたしは希望と気力を感じる。まだ成長の頂点に達してはいないのだ」とも述べている。
 こうした言葉にも、ゲーテが「主人公の特徴をなすのは剛勇である。これが彼の人となりと、あらゆる活動の基礎であり母胎である」(『詩と真実』)と述べたエグモントの勇気ある人椿が表れていよう。
24  エグモントの処刑によって戯曲は幕をおろすが、そのとき、彼はこう叫ぶ。「汝らの大切なものを守ってあれ! その一番大切なものを救うためには、よろこんで命をすてるのだぞ。今、わしが範を示すように」と。
 こうしてエグモントは胸をはって処刑に臨み、正義のために戦う自身の烈々たる心情を言い通すのである。
 日蓮大聖人は「世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」と仰せである。
 エグモントは圧政に対する革命のために死んだが、私どもにとってもっとも大切なのは”大事の仏法”であり、広宣流布である。その仏法を守り、広布に命を捧げていきなさい、との御本仏の御聖訓を深く銘記していかなければならない。
25  広布開拓の強き自覚で
 昭和三十一年十月から翌年一月にかけて「山口開拓指導」が行われた。今年はそれからちょうど三十周年にあたっている。私はその開拓指導の派遣隊の責任者となって山口県に赴いた。全国から多くの同志の方々が、この山口法戦に応援に来てくださった。この席を借りて、その方々に深く感謝申し上げたい。
 ともあれ信心の世界で刻んだ思い出は、生涯にわたり福徳となってあらわれていくものである。私は延べ約三週間にわたる法戦の指揮をとった。
 その結果、約四千世帯の入信者をみることができた。私はこれも今世の大きな思い出であるとともに、誇りある大きな福運の歴史であったと実感する昨今である。
26  この明治維新の揺藍の地である山口県において、幕末に、吉田松陰の弟子である高杉晋作が活躍している。彼は、「奇兵隊」の創設者として知られている。奇兵隊は、文久三年(一八六三年)、下関で綜成されたが、その性格も、先に述べた「乞食党」の性格によく似ている。
 この年、長州藩は盛り上がる捷夷倒幕の声をうけて、馬関(下関)の海峡で撰夷戦を決行した。外国船を打ち払うという挙に出たのである。しかし長州藩は敗れ、決定的な打撃を受けた。これにより、武士階級の無力さが暴露されてしまったのである。
 高杉晋作はその直後に「奇兵隊」を創設。引き続き各地にも諸隊が作られた。
 奇兵隊の結成にあたって彼は、”今日の状況は、肉食の武士では打開することができない。門閥、格式にこだわらず、もっぱら強健の者を募り、新しい軍隊を作ろう”と考えた。そこでは、武士、足軽を問わず実力第一主義であった。さらに農民、町人の身分いかんにかかわらず、すすんで国事に身を投じょうとする人々はすべて入隊させている。いわば民衆のエネ
 ルギーを結集させたのである。
27  戸田先生は、この奇兵隊について「これは、それまで武士がいばっていて、バカにされていた百姓や町人を集めて組織したもので、みごとに幕府軍をやぶっている」と言われ、学会もまた同じ方程式をとっていくべきであると指導されていた。特権階級となって庶民を小バカにし、自分の体面や人気ばかりを気にしているような人たちは、事にあたっては弱いということを、戸田先生は鋭く見ぬかれていた。いつの時代にあっても、その本質は同じであるにちがいない。
 この深い洞察のうえにでき上がった庶民群が学会である。ゆえに学会は強いのである。また永久に滅びないし、壊れないのである。
 ともあれ、長州はこの奇兵隊を軸とする勢力によって、米・英・仏・蘭の四か国連合艦隊の襲来(元治元年、一八六四年)にも耐え、また幕府による第二次長州征伐(慶応二年、一八六六年)という大きな苦難をも乗りきることができたのであった。
 次元は異なるが、わが学会も、庶民による未聞の広布の大長征のなかで、競い起こる降魔をすべて乗り越えながら、朗らかに前進してきたのは、皆さま方がご存じのとおりである。
28  信念に生きる潔い生涯を
 御書に「法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり」と仰せである。
 霊鷺山とは釈尊が法華経を説いた地(インドの山)で、この意味から仏国土をいう。別しては御本仏日蓮大聖人すなわち御本尊のまします所こそ霊鷺山、つまり仏国土であるが、この御文は、御本尊を信受し、広布に進む人々の活躍の場は、いかなるところであっても霊常山であるとの、ありがたい仰せなのである。
 御本尊を持った皆さま方が活躍される地は、北海道であれ、四国であれ、九州であれ、また沖縄であれ、いかなる地であっても尊き霊鷺山であり、成仏の地であり、広布の場である。このことを自覚する人こそ、真の広布の開拓者なのである。
29  また「法華経を持ち奉るを以て一切の孝養の最頂とせり」との御金言がある。
 孝養については、上品、中品、下品の段階があるとされているが、御本尊を信受していくことこそ、上上品の最高の孝養であるとの仰せである。
 さらに「法華経を持ちまいらせぬれば八寒地獄の水にもぬれず八熱地獄の大火にも焼けず」と仰せである。
 御本尊を持って信心に励みゆく人は、絶対に地獄の人生となることはないとの御教示である。
30  ゆえに、けっして退転してはならない。これまでも残念ながら退転した幹部らがいたが、その共通する退転の原因は、基本的にはすべて、飲酒・金銭・男女間題の三つに集約されるといってよい。そうした低次元の問題で、人々から嫌われ、いられなくなって、自ら去っていったのである。そのうえ自分を正当化するために、マスコミ等を使って学会を批判してきただけのことである。
 ともあれ、格式にとらわれない、人間そのものの連帯に立った民衆運動、市民運動ほど強いものはない。いわんや学会においては、正法の信心が核となっている。これほどの強みはないのである。
 本日は、少々、長い話となったが、皆さま方の信心と広布の活動のために、何かをくみとっていただければと思う。皆さま方のますますのご健勝とご多幸、ご活躍を心から祈りたい。

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