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千代田七百五十人会、千葉青年部、教育部… 確信の人こそ人生の勝利者

1986.9.23 「広布と人生を語る」第10巻

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1  本日は彼岸の中日である。ただいま御本尊様に、参加の皆さまをはじめ全世界に活躍するすべての同志のご先祖の追善をねんごろにさせていただいた。
 「千代田七百五十人会」の集いが、これまで三十回の歴史を重ねてこられたことに対し、まず心から祝福申し上げたい。また本日、参加された千葉青年部の代表、女子部の「青春会」「白鳥会」等の皆さまにも、ご参集の労に対し感謝申し上げるものである。
 さて、千代田区は、皇居をはじめ国会議事堂、各省庁を擁する、いわば日本の心臓部である。栗林千代田長、川島区婦人部長はじめ、千代田の同志の方々は、どこか容姿にかつての華族のような気品を感じさせるのも、その土地柄からかもしれない。(笑い)
 しかし、そうした千代田も夜間の人口は少なく、住民の流動も激しい。そのなかで、広布に活躍してこられた皆さまのご努力に敬意を表したい。どうか、小さな区であり、居住する人口が減少傾向にあるなかで ”妙法の同志はこのように増加した”という歴史の証拠を、これからもつくっていかれるよう期待している。
2  武田信玄の人物の見方から
 先日の山梨県支部長会でも武田信玄について少々語ったが、本日は、正しい人物の見方、とらえ方について、信玄が残したとされる言葉(『甲陽軍鑑』による)をとおして考えてみたい。
 信玄は「大身小身共に人を見そこのふ邪道七ツの事」として、人物の本質を見誤りがちな七つのケースに言及している。ここでは、そのうち三つの場合について紹介しておきたい。
 その第一に「手おそ成る人を、よくおもき人に見そこのふ也」と。これは、ぐずな人を、よく沈着な人と見そこなうものだ、との意味であるが、まことに鋭い指摘だと思う。
 たとえば、あの人は地震があっても動揺しない。(笑い)なんと沈着冷静な人か、と思った人が、じつは、その本質は”愚鈍”にすぎず、対応が遅れただけだったという場合もあろう。
 沈着と愚鈍では、たいへんな違いである。この点の見極めを誤らないよう心していきたい。
3  また信玄は「十方なく物ゆふ人は、ロたたきとて、一日物をいへとも友ほうばい朋輩、あるひはよりをや寄親の功になる、能事よきこと一言も申さす、にくけれは能武士をもそしり、我に物をくれきげんを取る人をうれしがり、中よけれはあしき者をもほめ候。十方なしを、よくさくきものに見そこなふなり」と言っている。
 何の思慮もなく物を言う人のことを、信玄は”口たたき”と呼び、無思慮な”口たたき”を、さばけた人と見誤ってはいけない、と戒めているのである。
 一日中しゃべっていても、同僚や上司の役に立つことは何も言わない。そういう”口たたき”に限って、憎いと思えば立派な武士の悪口をも言いふらし、自分に物をくれて機嫌をとる人を喜ぶ、悪い人間でも自分と仲がよければほめあげるものだ、と信玄は指摘している。
 私も、こうした人を、見かけることがある。また、この種の人間を、その饒舌さに惑わされて、知識に優れ、社会をよく知る者として信用しがちなこともあるかもしれない。こうした人間ほど口先が上手で文章もうまい。が、節操に欠け、利害にはさとく、しかも自己中心的である。
 いかに利発で、雄弁な人であっても、こうした”口たたき”のごとき人間は、けっして信用してほならないというのである。
4  さらに信玄は、人を見誤りがちなケースとして「踏所ふまえどころなき人は、我しらぬ事をば作り事申、殊外ことのほかぜうこわき者なり。是をよき武士の雅のつよくして、人にまくるをいやがる剛強武勇の人に、かならず見そこのふ者なり」との場合をあげている。
 これは、信念のない人間にかぎって、よく知りもせぬことに固執し、意外と強情なものである。こういう者を、立派な武士が信念をもち、人に負けるのをきらっている剛強武勇の現れであると、よく見そこなうものである、というのである。
 信心の世界でも、自らの考えに固執するあまり、正しい信心の指導に対し、強情に「我」を張り頑なになる場合があるが、厳に戒めていきたい。
 政治や経済や学問等の世間の次元と、信心の次元とはまったく違う。ゆえにいかに社会的な立場が高く、見識が豊かであったとしでも、自らの限られた考えに固執し、信心の指導から遠ざかれば、信心のうえでの成長はありえない。御本尊に唱題し、正しき信心の指導を受けながら進みゆく以外に、成仏への道はないからである。
5  信心の世界は、その一念につねに”謙虚”な姿勢がある人は、大いに伸びていく。”謙虚さ”を失い”慢心”となった人は、信心のみずみずしい精神がなくなり、かならず行き詰まっている。
 組織にあって、役職があがるにつれ、傲慢さを増し、いばるようになる人が出てくることがある。往々に、そういう人に限って、多くの人々の前で声高に「広宣流布」と叫び、「師弟」と訴え、さも得意気に信心の指導をするものだ。しかし、広宣流布はかけ声で進むものではない。むしろ、傲慢、慢心の人は、真実の苦難に向かう仏道修行を避けている場合が多い。そうした人々は、長く見ていると、多くが退転している。それほど、信心は厳しいものだ。
 真摯に広布への活動に取り組んでいる人は、悩める友のこと、組織の正しきあり方や、広布の未来のことで、つねに心をくだき、新たな創造と成長へ進んでいる。
6  信玄の言葉や考えの一端を紹介してきたが、その言々句々は、人間の心理を鋭くとらえた本質論といえる。信玄の、この着眼と指摘の鋭さは、何に由来するものか。
 それは、将の将としての真剣さではなかったかと思う。彼は、数多くの将兵、また領民をかかえている。ひとたび人材の登用を誤り、用兵をまちがえれば、それは自軍の全滅、また領民の限りない苦しみにもつながる。絶対に過ちは許されない――この真剣さと責任感から、生まれてきたものと、私には思えてならない。
 戸田先生もまた、同じ心境ではなかったか。「広布」と「信心」に対して、先生は、余人とは比較できぬ真剣さで臨んでおられた。広宣流布に、絶対に失敗は許されない。失敗すれば、大法はもはや弘まらなくなってしまうからだ。この強い一念が、先生の胸中に渦まいていた。
 ゆえに、戸田先生は、信心の一点については、まことに峻厳であったし、私どもを厳愛で薫育されたのである。
7  座談会の伝統は「一対一の対話」
 次に、話はかわるが、座談会のあり方について一言、申し上げておきたい。牧口初代会長は、座談会を、この上なく重要視されていた。また戸田第二代会長も、その伝統を継承されて、小単位の座談会に全力をそそがれた。
 あるとき、戸田先生は、牧口先生の座談会に臨まれる姿勢について、こう言われた。「牧口先生は座談会となると、自分が真っ先に行って、一人が来ると、その一人の人とじっくり話し合う。二人目の人が来ると二人と、三人来ると三人と話し合って、実に懇切丁寧に教えてくださった」と。
 また、つねづね戸田先生は「ただ一人でもいい。その一人の人に全力で法を説き、体験を語り、広布のこと、人生のことを心から話しあっていけばよいのだ。二人でもいい、御本尊の話をして、感激しあって帰る座談会にしてほしい。三人も来れば、”大勢”というべきである」と指導してくださった。大勢集まらなければ元気が出ないということは、信心の世界にはないからだ。
 こうした牧口先生、戸田先生の座談会に臨む姿のなかに、私どもが永遠に忘れてはならない基本がある。すなわち、現在では、ややもすると、形式に流され、大勢集まればそれでよしとする風潮がある。しかし、人数のみにとらわれ、少数の集いを軽んじ、カをぬいていくとしたら、それは大いなる誤りであり、仏法の精神ではない。
8  法華経に「若し是の経典を受持せん者を見ては、当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(普賢菩薩勧発品)とある。
 たった一人の人であっても、まじめに法を求める人、また悩める人を、仏様をお迎えするような心で、最大に尊敬し、大切にしていかなければならない。
 要は、人数ではない。”l人の人”が心から納得し、信心を深めることが根本の目的なのである。また、それがもっとも確実な広布の推進力となる。どうか座談会に集ってきた人すべてが”来てほんとうに良かった”と満足して帰られるような座談会をお願いしたい。そうすれば、かりに少人数であってもそれが起爆の核となり、大きな発展がもたらされるのである。
9  また大切なことは、いかなる人も一人の人間として平等に接し、尊敬していくことである。仏法の世界では、相手の職業とか社会的地位にとらわれて、いささかも特別視するようなことがあってほならないし、その必要もない。いかに地位があり、学問があろうと、みな同じく人間であるからだ。高名な学者や政治家であっても、家庭に帰れば、奥さまにかなわない人もいるかもしれない。(笑い)その人間としての修行の場が座談会なのである。
 さらに、幹部といっても結局、最後は、一個の”人間”として偉大であるかどうか、また一人の”信仰者”として立派であるかどうかである。役職はいつかは変わっていくものである。しかし、信心そのものは、つねに向上していかなくてはならない。また人間としても同じである。その意味において、いかなる境遇にあっても、信心の大道を忘れてはならない。また、同志との其の心の絆とつながりをもっていくことが、これまた自身の成長の源泉になることを知らねばならない。
10  幹部は、権威をカサにきて他人を叱るようなことがあってはならない。とくに若くして中心者となった方は、厳しく自身を戒めていただきたい。
 もちろん、相手の成長を祈る真心のうえから、注意すべきことはとうぜんしなくてほならない。また確信ある信心の指導が根本となることはいうまでもない。しかし、何があっても、感情的になったり、威圧的な態度であってはならない。「柔和忍辱の衣」を着して、自身を磨きゆく修行をお願いしたい。
 大事なことは、日蓮大聖人の仏法への絶対の確信に立ち、仏の使いとしての自覚と誇りに生ききっていくことである。
 この確信と誇りに立つとき、その人の胸中には無限の勇気がわいてくる。いかなる社会的権威も権力も、”何するものぞ”という強き信念の境涯が開かれてくる。さらに、あらゆる障魔にも臆さない勇猛精進と慈悲の生命が五体をかけめぐってくるのである。
 この何ものも恐れぬ信心の不抜の確信に生きる人こそ、どんな虚飾の有名人よりも、観念の知識人よりも、人間として偉い人である。ここに忘れてはならない仏法の人間観の真髄があると申し上げておきたい。
11  己れと戦い、己れに勝て
 私はかつて、今は亡くなられたが、文芸評論家の小林秀雄氏と総本山大石寺でお会いしたことがある。小林氏は天台の仏法に深い関心をもち、摩詞止観も読んでおられたようだ。
 その小林秀雄氏の「モオツァルト」という評論のなかに、次のような一節がある。
 「不平家とは、自分自身と決して折合わぬ人種を言うのである。不平家は、折合わぬのは、いつも他人であり環境であると信じ込んでいるが、環境と戦い環境に打勝つという言葉も殆ど理解されてはいない。べエトオヴェンは己れと戦い己れに打勝ったのである。言葉を代えて言えば、強い精神にとっては、悪い環境も、やはり在るがままの環境であって、そこに何一つ欠けている処も、不足しているものもありはしない。不足な相手と戦えるわけがない。好もしい敵と戦って勝たぬ理由はない。命のカには、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。この思想は宗教的である。だが、空想的ではない」と。
 これは、仏法にも通ずる考え方であり、鋭い洞察であると感嘆している。私の好きな言葉でもある。
 なぜ本日、皆さまにこの一文を好介したかというと、信心における不平、不満は、功徳を消してしまうものであるがゆえに、厳に戒めていかねばならないからである。
 それとは反対に、御本尊を讃嘆し、妙法流布に生きる同志をたたえていく、また、広宣流布に向かいゆく心を大切にし、信心に励んでいくならば、雲のわくごとく無量の功徳につつまれていくのである。
12  福運につつまれた仏界の生命は、元来、自分自身の生命に内在している。けっして別のところにあるのではない。しかし、凡夫であるわれわれには、それがわからない。それは自分自身がもともともっている福運も、罪業等によりおおわれているからだ。
 ゆえに、自分自身の生命を磨いて、そのおおいをとり除いていかねばならない。その磨く作業が信心なのである。つまり、信心は結局は自分自身のためである。妙法に随順すれば、福運と喜びがわいてくる。違背すればさらに暗雲が重なって、福運はかくれてしまうのである。
 また戸田先生は、御書の講義をされながら、「皆さんの功徳はまだまだ指一本ほどの小さい境涯の功徳だ。私の功徳は、この公会堂いっぱいの功徳である」と、よく話されていた。日蓮大聖人の教えのままに広布にいっさいを捧げられた先生の実感であったにちがいない。
 私もいま、その戸田先生の年齢に達してみて、「正法はまったく確かである。戸田先生の指導も一分の狂いもない」との思念をいっそう深くしているしだいである。
13  唱題こそ歓喜と幸福の源泉
 私どもは、日々、御本尊を拝している。御本尊は、宇宙の根本法であり、一切衆生の成仏のための根源であられる。
 御本尊については、軽々に申し上げることはできないが、御本尊の中央には「南無妙法蓮華経 日蓮」とお認めである。そして脇士の釈尊、多宝如来をはじめ仏界から地獄界まで、十界のすべての仏・衆生が認められている。
 すなわち御本尊は、十界三千の根本の御当体であられるが、宇宙もまた十界三千の当体であり、小宇宙である私どもの生命も十界三千の当体である。したがって御本尊を拝し、題目を唱えていくとき、宇宙の十界三千の働きも、わが生命の十界三千の働きも、すべて南無妙法蓮華経の光明に照らされて、その本来の尊い働きとなるのである。
14  たとえば、御本尊には声聞界の生命として舎利弗が認められている。舎利弗は、釈尊の十大弟子の一人で、智慧第一といわれた。この舎利弗の生命の働きは、宇宙にも内在しており、わが胸中の生命にもある。
 ゆえに御本尊に題目を唱えていくとき、御本尊との感応によって、宇宙に存在する舎利弗の生命と連動する。とともに自分自身の生命に内在する舎利弗の生命の働きである智慧が湧現してくるのである。
 病気においても同じ原理である。御本尊への唱題によって、御本尊にそなわった薬王菩薩の生命が働く。それは全宇宙とわが生命の薬王菩薩の働きへと通じる。そして、医者も、病気をもっともよく治癒してくれる諸天善神の働きとなり、薬もその効能を最高に発揮するように働くことになる。さらに、自身の生命の薬王菩薩も、その本来の働きを顕し、生命力の向上、治癒力の増大をもたらして、病気の回復へと向かっていくわけである。このほか、天界の梵天、帝釈、餓鬼界の鬼子母神などの働きも、まったく同じ方程式である。
 つまり、さまざまな悩みの打開や宿命転換を願って、御本尊に題目を唱えていけば、それは宇宙に遍滞する十界三千の生命の働きに通じ、自身の胸中に内在する十界三千の生命も、南無妙法蓮華経の威光に照らされ、力を得て、かならずや所願満足の人生へとしだいしだいに開いていけるのである。
15  現実の社会は、けっしてバラ色ではない。今は幸せでも、いつ苦悩へと変わっていくかわからない。まじめに誠実に生きようとすればするほど、苦しみや悲しみが多くなるのが、現代の社会である。また、老いや死は、だれ人もさけられない問題であるし、人生の苦悩も尽きることはない。
 しかし「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」である。そうした人生の苦悩と労苦のなかで、御本尊へ題目を唱えに唱えぬいていくとき、歓喜と幸福の境涯の土台が深く築かれていくことを確信していただきたい。ドロドロした五濁の世界にあって、確実に幸福の因を積むには、それしかないのである。
16  正法受持の人々への、いわれなき中傷の嵐は、いつの時代にあっても、吹くものだ。しかし、私どもは、”仏の使い”としての尊き使命をけっして忘れてはならない。いかなることがあっても、正法の「慈悲」の風を、時代と社会と人々に送っていけばよいのである。
 どうか、この地涌の勇者としての深い境涯と誉れある使命に生きぬいていただきたいと申し上げ、本日の話としたい。

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