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日蓮大聖人・池田大作

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「竜の口法難の日」記念のドクター部、転… 広布万代へ盤石の基盤を

1986.9.12 「広布と人生を語る」第10巻

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1  本日は、ドクター部が401人、「転輪会」が253人、「満月会」が46人、「秋桜会」が43人、そして女子学生が45人の合計788人が参集しての合同総会となった。お集まりの皆さまの労に対し、心から御礼と感謝を申し上げるものである。
 ご存じのとおり、本日九月十二日は、御本仏日蓮大聖人の「竜の口法難」の意義ある日である。総本山大石寺においては御法主上人の大導師のもと、御本仏への御報恩謝徳の御難会が営まれた。本日の総会も、その記念の意義をこめたものであり、私もただいま、御本尊に御報恩謝徳を申し上げ、広宣流布への新たな決意を申し上げさせていただいた。
2  竜の口法難に寄せて
 さて、「竜の口」 の名の由来については、『江島縁起』などによると、むかし深沢の湖に頭の五つある悪竜が住んでいたが、その竜が、江の島明神の霊験によって降伏し、山となった。現在、竜口寺の背後の山がそれである、と伝えられている。私見ではあるが、これを現代的に解釈すれば、この一帯は海に面しており、嵐で川や池が氾濫したことを竜の働きになぞらえたのかもしれない。
 大聖人が法難にあわれたのは、ちょうどその山となった竜の”口”のあたりに位置するわけである。「竜の口」と呼ばれるようになったのも、大聖人御在世の文永年間ごろからともいわれる。また、文献的には、大聖人の書状が、「竜の口」の名の出てくる最初のものとする説もあることを紹介しておきたい。
3  ともあれ竜のロ法難は、文永八年(三七一年)の九月十二日、日蓮大聖人が、鎌倉の竜の口で斬首の刑に処せられんとした法難であった。大聖人の聖寿五十歳の時であられた。太陽暦では十月二十四日とされる。今から七百十五年前のことであった。
 竜の口法難は、大聖人御一代においても、最大に重要なる意義をもっている。それは、ご存じのとおり、大聖人がこの法難において、凡身より久遠元初自受用報身如来、すなわち三世諸仏の根源たる久遠名字の御本仏として、その本地を顕されたからである。これを「発迹顕本」という。この法難は、建長五年の立宗より十八年目の出来事であった。
 私どもも、この法難の深き意義を拝し、次元は異なるが自身の信心のうえ、広宣流布の実践のうえで、自身の使命に立ち、本地を顕してゆける一人ひとりでありたいと、念願するものである。
4  次に「鎌倉」という地名の由来について一言しておきたい。
 「鎌倉」の「鎌」は洞穴、「倉」という字は倉庫のことではなく、岩を意味する。すなわち、峡谷、絶壁を示す「クラ」という古語や方言の当て字が「倉」であったといわれている。つまりこの地が、ご存じのように、山山にかこまれ、「ヤト」「ヤツ」と呼ばれた谷が多くあるところから「鎌倉」といわれるようになったとの説がある。
 また「鎌倉」の周辺に馬蹄形にそびえる20メートルから苗140メートルほどの高い丘陵があり、中央の低地をあわせた地形が「かまど」の形に似ているところから「カマクラ」と呼ばれたとの説もある。
5  この鎌倉の地で、大聖人は竜の口法難にあわれた。その法難については、大聖人御自身が「種種御振舞御書」に詳細にお示しになっておられる。この御書に、私どもが何度となく拝し、心肝に染めようと研輩に励み、決意を新たにしてきた御文がある。
 それは「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴めみょう・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども和党共二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし、わづかの小島のぬしら主等をど威嚇さんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ」の御文である。
 大聖人は、釈尊が入滅後二千二百二十余年の間に、迦葉をはじめ妙楽、伝教等にいたる弘法者でさえも、いまだかつて弘められなかった法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字を、末法の始めに一閻浮提に弘まらせていくべき瑞相として、今、さきがけしたのである、と仰せである。
 ここで「一閻浮提」すなわち全世界とお述べになっているように、大聖人の仏法が世界の民衆を救済するための大法であることは明確である。
 さらに、わが一党の者、すなわち日蓮大聖人の御一門の者は、二陣三陣と大聖人に続き、大法を弘通して迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にも超えていきなさい。わずかばかりの小島の主等が威すのを恐れては、閻魔王の責めにあったときに、いったいどうするというのか、とお述べになっている。
 日蓮大聖人に続きなさい、との御教示を、私どもは心して拝していきたい。戸田先生はその意味から、”信心は大聖人の時代にかえれ”といわれた。まことに肝要な、また私が深く心に刻んできた指導である。
 そして、大聖人は、仏の使いと名乗りながら、いまさら臆するのは下劣な人々である、と御指南されている。
 つまり、私どもの立場でいえば、幹部となり人々を指導してきたとしても、名聞名利や臆病の心に負けて退転していくならば、いかに言葉たくみに自己を正当化したとしても、「無下の人人」となる、との厳しい御指南なのである。よくよくこの御文を銘記していただきたい。
6  忍難護法の人たれ
 また、大聖人は、兄弟抄のなかで、次のように仰せである。
 「がうじやう強盛はがみ切歯をしてたゆむ心なかれ、例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい振舞・いゐしがごとく・すこしも・をづる心なかれ
 すなわち、あなた方は信心強盛に歯をくいしばって難に耐えるべきである。たゆむ心があってはならない。たとえば日蓮大聖人が、平左衛門尉のところで堂々と振る舞い、言いきったように、少しも恐れるような心があってはならない、との御教示である。
 これが大聖人の御精神であり、広宣流布に邁進する私どもの学会精神でなくてはならない。
 今日の大いなる広布の伸展があったのは、なにものをも恐れぬ、この大精神を体して前進してきたからである。また、戸田先生をはじめ多くの諸先輩が、妙法の偉大なる力を、そして仏法の正義を、叫びぬいてきたからである。
 私もこの精神に徹してきたつもりである。広宣流布、令法久住のために活躍する同志は、一人として倒れてはならない。私は、妙法の同志が一人も残らず信心の根を深く張り、枝を茂らせていくために、皆さんの屋根ともなり防波堤ともなってきたつもりである。
7  さて、日蓮大聖人は、文永八年の竜の口法難に引き続き、佐渡へ御流罪となる。竜の口法難のあと、執権時宗は大聖人を無罪であるとして釈放する考えであった。ところが、わずかな間に、鎌倉で放火や殺人事件が頻発した。それらは念仏者たちの仕業にほかならなかったが、すべて大聖人門下の仕業として、念仏者たちは幕府に讒言したのである。
 それを受けた幕府は、大聖人門下の大弾圧に乗り出した。一気に門下を殲滅しょうと企てたのである。そして、大聖人門下のうち、じつに二百六十余人が要注意人物として名簿に記載され、ある者は追放され、またある者は罰金刑に処せられた。さらに日朗ら五人の門下は土牢に幽閉されたのである。
8  ともかく、迫害にあったときに、その人の信心が明確になる。
 学会にあっても、戦時中、軍部政府の弾圧によって、牧口先生、戸田先生をはじめ、二十一人が投獄された。そのとき、彼らは相次ぎ退転し、そればかりか牧口先生、戸田先生を憎み、学会を恨んでいった。まことに人の心はわからぬものであり、残念でならない。
 もし、正法が広まり、広宣流布が進まなかったら、こうした悪辣きわまりない構図の世界が大なり小なり、これからも続くであろう。ゆえに私どもは、広布の歩みを断じてとどめてはならない。
9  ひとたび弾圧にあうと、人の心はいともたやすく変わってしまうものである。
 大聖人は、新尼御前御返事のなかで「かまくら鎌倉にも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」と仰せになっている。また、弁殿尼御前御書には「弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」とも仰せになっている。
 さらに、佐渡御書には、次のように仰せである。「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人びゃくにん等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし」と。
 日蓮大聖人が大難にあわれたのを見て、多くの人が疑いを起こし退転した。それどころか大聖人を教訓して、かえって自分の方が賢いと思っている者がいるが、その人々は信心していない人よりももっと長い間、無間地獄に堕ちてしまうのである。そのことを思えば、あまりにもかわいそうである、との仰せである。
 御本尊のお力は絶対である。初めは事なきように見えても、仏法の厳しい因果からはだれも逃れることはできない。かならず厳しい結果となって現れてくる、との大聖人の御断言である。
 「竜の口法難」の意義ある日に集いあうことができた私どもは、日蓮大聖人の忍難弘通の御振る舞いをおしのび申し上げたい。そして、地涌の菩薩の眷属としての自覚も強く、ともどもに広布を深く誓いあい、また生涯不退転を誓いあって、異体同心の歩みを進めていきたいものである。
10  生死の根本的解決は妙法に
 ここで、ドクター部の方々に申し上げたい。皆さまは、病気を治療し、病人を健康にするという、まことに大切な尊い立場にある方々である。それは、菩薩の働きの一分といってもよい。これに対し、正法の信心は、心の病、生命の病を治癒させていく源泉である。したがって、身体的次元での病気を治す医学と、心の病を治し生命力を最大限に発揮させゆく信心とがあいまって、助けあっていくならば、人類、生命、健康に大いに貢献していくことができる。この両者の連関性がいかに重要であるかを強調しておきたい。
11  医師にとって多くの人々を治癒させゆくことが重要であることは論をまたない。しかし、人の病気を治していく医師自身も、いつかは「死」を迎える。また健康な人であっても「生」は永遠ではない。いかに医学が発達したとしても、だれ人も「死」を免れることはできない。「生死」の問題は、人類にとって永遠の課題なのである。そして、その「生死」の問題に根本的な解決をもたらしゆく法であり、人生と社会の蘇生の原動力が「妙法」なのである。
 すなわち、根本的な安心立命と成仏をもたらしゆく法が妙法であり、そのための実践が信心なのである。したがって、仏法を持つ私ども学会員の使命と行動は重大であり、その活動に、最高の誉れと自覚、自信をもって生きぬいていただきたい。また、この意味からも、ドクター部の皆さまのますますのご健闘を祈りたい。
12  婦人部の「満月会」の皆さんにも、びとこと申し上げておきたい。きたる九月十八日は「十五夜」で、「中秋の名月」にもあたる。私もこの日にちなんで、皆さまとともに思い出のひとときを過ごせればと願っていた。
 御書に「のはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはのちからなり」と仰せのように、”夫は矢、妻は弓のごとし”である。弓が壊れていては、矢は飛ぶことはできない。これは道理であり、婦人の信心の大切さを示された御文として有名である。
 かつて夫婦のあり方について、戸田先生もよくお話しになっておられた。それは「男性が六十くらいの力をもっていても、女性が賢明であれば、男性は百のカを発揮できる。しかし、男性がいかに優秀であっても、女性が愚かであると、男性はもてる力を十分に発揮することはできない」という内容であった。
13  先日、辻副会長が、「仏法の師」「人生の師」をまちがってはならない。ましてや自分の主人を「信心の師」と錯覚するような愚かなことがあってはならない、と指導していた。私も大事な話であると思う。
 大切なのは妻の信心である。ゆえに皆さんは、いかなることがあろうとも、毅然とした信心を貫き、夫を励ます良き妻であっていただきたい。自身の信心を成長させてくれる「仏法の師」「人生の師」を見失ってしまい、広宣流布の大目的に進む学会から離れてはならない、と申し上げておきたい。
14  また、戸田先生は「信用できない人間像」について、よくご注意くださった。
 社会にあっても、自分で立てた計画のもとで、比較的自由な仕事の時間帯をとれる人は別として、社会や、また会社勤めの人には、それなりに決められたルールがある。その基本を無視したり、おろそかにしていては、人々から信用を得ることはできないし、また「信心即生活」の姿とはいえないのである。
 信用できない人間像というのは、ひとつは「会社にしばしば遅刻する人」である。また「無断欠勤をする人」「退社時間があいまいで、退社時前からどこかへ消えてしまう人」「金銭的にルーズな人」「生活態度が不真面目な人」「なんとなく人々から嫌悪される人」「口がうまい人」「へんなお世辞をつかう人」「言葉が真実性をおびていない人」……こういった人間は信用されず重く用いられない。
 私が接してきた多くの人々を見ても、退転していった人間には、このような生活の崩れや人間性に欠落した部分があったことが共通している。
15  皆さま方は、賢明な家庭婦人として、ご主人を助け、成長を祈っていただきたい。ご主人が会社にあって「さすがに信心している人は違う。立派である」とまわりの人々からも信用され、さらに、家庭にあってもご主人が信頼の柱の存在となって、和楽の幸せを満喫できるようであっていただきたい。
 人生のほんとうの勝利や、真実の幸福というのは、身近な生活のなかに表れる。生活というもっとも身近な世界のなかで、信仰を輝かせる人こそ、平凡であっても偉大な人というべきであろう。真実の人格者は、護法に生きゆく信心強盛な人である、ということを銘記していただきたい。
 「転輪会」の皆さまにはいつもお世話になっている。皆さまは、朝な夕な、広宣流布のために、わが身をいとわず奔走してくださっている。私は、皆さまの陰のご苦労に対して衷心から感謝申し上げたい。広布の輸送に黙々と励む皆さまに対して、乗せてもらった人たちは「ほんとうにありがとう」と心から感謝すべきである。乗せてもらうことをとうぜんのように思ったり、感謝の気持ちももてないような人であってはけっしてならない。
16  『三国志』 にみる人と人生
 有名な吉川英治作『三国志』の冒頭の”桃園の巻”で、劉備玄徳が張飛、翼徳、関羽雲長と義兄弟の契りを結ぶ。そして「三人一体、協力して国家に報じ、下万民の塗炭の苦を救うをもって、大丈夫の生涯とせん」と誓いあって、兵を起こす。
 そのころ黄巾の賊の跳梁によって世は乱れ、人民は苦しんでいた。戦場に駆けつけた玄徳は、まもなく、総敗北し、逃げ崩れてくる官軍に出会う。敗走してきた官軍の大将は董卓という将軍である。玄徳は、賊の迫撃を山路で中断し、追撃。見事な功を立てる場面がある。
 劉備玄徳が危急の時を救った将軍・董卓は、その人格が野卑で、尊大、無礼であり、要するに傲慢な男として描かれている。皆さんはこの董卓のようにはなってほしくない。どこまでも謙虚な幹部であっていただきたいのである。
 董卓は、劉備玄徳の軍に助けられた。とすれば玄徳らへの感謝こそあるべきである。しかし、董卓は、玄徳、関羽、張飛に会ったとき、椅子を与える前に三人の官職をたずねた。玄徳は無官の身を誇るかのように、天下万民のために大志をいだいて起った一地方の義軍である、と答える。
 すると董卓は「私兵か。つまり雑軍というわけだな」「じゃぁ我が軍について、大いに働くがよいさ。給料や手当は、いずれ沙汰させるからな」というなり、さっさと惟幕の内に入ってしまった。
 玄徳も、関羽と張飛も、あまりの無礼に、あぜんとして彼の後ろ姿を見送る。気の短い張飛は、士を遇する道を知らぬ非礼に怒り、董卓に切りつけようとする。それをとどめて関羽は言う。「腹が立つのは、貴様ばかりではない。だが、小人の小人ぶりに、いちいち腹を立てていたひとには、とても大事はなせぬぞ。天下、小人に満ちいる時だ」と。
17  現在の社会にも小人は多い。われわれの広布の活動に対して、いわれなき、悪意の言をなす人もいる。しかし、走れば風はとうぜん起こるのであり、われらは悪意の言など心にかけず、広宣流布の大業に進んでいけばよい。成仏と幸福への妙法広宣の大道を、どこまでも開きゆけばよいのである。
 とともに、仏法の世界は平等大慧であり、幹部は、陰で活躍している同志をけっして見下したり、侮辱したりしてはいけない。それは、信心をしていない人に対しても同じである。仏法ではすべての人が平等であり、どんな立場の人にも使命と役目があるものだ。これが私の人生観であるし、この精神に立って、一人ひとりをあたたかく包容し、励ましてきたつもりである。
 戸田先生は、あるとき次のように語っておられた。「田舎から上京したとき、ある家をたずねた。そのときの私の身なりがあまりにもみすぼらしかったためか、バカにされた。そのときの悲しい思いは忘れることができず、以来、私はどのような人がわが家にたずねてきても、かならずあたたかく迎えることにしている」と。
 同じく、民衆とともに広布に生きゆく私どもは、どこまでも一人ひとりを大切にしていかねばならない。
18  かの軍師・諸葛孔明が、魏軍に大敗を喫した。捲土重来を期す孔明は、いう。
 「智謀ばかりでは戦に勝てない。また、先頃の大戦では、蜀は魏よりも兵力は多かったが、負けてしまった。量るに、智でもなく数でもない」「大兵を要しない。むしろ将兵の数を簡にして練磨を尊ぼう。また軍紀が第一だ。諸子はまた、もし予に過ちあったときは遠慮なく善言してくれい。それが忠誠である。……以上のことを鉄心一体に持てば、いつか今日の辱をぬぐえるであろう」と。
 これを伝え聞いた漢中の軍民は、孔明とともに自分自身を責めたという。当時の蜀の国情と士気は、まさに「民みな敗を忘れて励む」の状況であった。「真の敗れは、その国の内より敗れたときである。たとい一敗を外にうけても、敗れを忘れて、より強く結束した蜀国家には、なお赫々たる生命があった」と述べられている。
19  広布の法戦にあっても大事なのは、人材である。力ある人材を、どれだけ多く、深く育成するかにあるといってよい。そのための鍛錬、錬磨の場が、こうした学会の会合であり、研修である。
 また、私は、新しい時代感覚を重んじ、若い人たちの意見をどんどん聞くようにと幹部に言っているが、発展と前進への意見をぞんぶんに言いあい、そうした意見を、次への大いなる前進の糧としていくことを忘れてはいけない。
 また「鉄心一体」とあるように、目的達成への強い異体同心の団結が大切である。社会にあっても、さまざまな運動や活動が崩され、カを失っていくのは、外部からの力によるより、内からの異心によることが多い。この点については、よくよく銘記していきたい。
 そして何よりも、信心の赫々たる生命の息吹があるかどうかが肝要である。広宣流布へと進みゆく信心の赫々たる息吹こそ、学会の発展と勝利の原動力なのである。
20  これから長き人生行路を進みゆく皆さまに対し、とくに申し上げておきたいことは、たとえ絶体絶命と見える窮地に陥ったとしても、けっして絶望してはならないということである。必死の一念で立ち上がる人に、かならずや希望の突破口は開かれていくからである。
 のちに蜀の五虎大将軍の一人とうたわれた馬超の若き日のことである。西涼の軍を率いて曹操の軍と戦っていた馬超は、敵軍にただ一騎囲まれ、力の限り応戦していた。しかし、やがて精力が尽きてくる。もう駄目だ、と、絶望の心がわいた。しかし、「それをふと、自分の心に出した時が、人生の難関は、いつもそこが最後となる」。そう彼は気づいて、「くそっ、まだ、息はある」と、自分の弱音を叱咤した。そして奮戦すること、しばし。やがて駆けつけた味方の軍に救出されるのである。
 生涯の間には、じつにさまざまな困難があるものだ。しかし、絶望と決めてしまうのは自分の心である。逆に難関を断固、乗り越えようと奮闘するのもわが一心である。何があろうとも、けっして絶望してはならない。苦難のどん底にあっても、つねに大勇猛心で立ち上がっていく勇者であっていただきたいのである。
21  信心の兵法は最極の知恵
 戸田先生は青年部の「水滸会」で、『三国志』を通して種々、指導してくださった。そのなかで、魏の王・曹操の人物について、こう述べられたことがある。
 「曹操は将軍として、たしかに偉い。力があった。史上、彼に似ていたのはナポレオン、また織田信長だろう。しかし曹操は英雄とはいえ、奸雄ともいうべき人物だった。自分に尽くしてきた部下も、容赦なく殺してしまうような残虐で非道な面があった」と。
 また、曹操が赤壁の会戦に敗れ、逃げ落ちたときのことである。もう一息というところで、関羽将軍に見つかってしまう。しかし曹操は、言葉たくみに信義の士である関羽の情に訴え、関羽は敗残の曹操主従を討つに忍びず、ついに見逃してしまった。関羽の人情厚き人柄につけ入った曹操の奸智であったといえよう。
 好人物と才の人とのこの構図は、人の世の常である。戸田先生はこのときの曹操のことを「彼はしょせん、まだ悪運があった。運勢がつきていなかったのだろう」と話されていた。
22  ともあれ曹操は、孔明と並んで『三国志』を彩る二大英傑といってよい。この二人は終始、壮絶な頭脳戦をくり広げる。しかし、曹操は、人並みすぐれた才に走るあまり、自らの才知に溺れるきらいがあった。
 「魂」と「蜀」との大野戦のときである。魏軍の大勝が続いた。蜀の兵は馬具も捨て、われ先に潰走しだした。魏軍は、この時とばかり追っていく。このまま追いきったならば、蜀軍は全滅したかもしれなかった。しかし、曹操は突然、軍をとどめたのである。魏の諸将はみな、なぜかといぶかった。曹操は孔明が率いる蜀軍の敗走は真実ではなく、偽装であるとみて、慎重を期したのであった。しかし、曹操が兵を収めたため、蜀軍はがぜん反撃に転じ、今度は魏が退却を余儀なくされたのである。
 「曹操は、自分の智恵と戦ってその智に敗れている」「智者はかえって智に溺れるとかいう」とある。曹操は本質的に策士であった。つねづね自分以上の知恵者はいないとうぬぼれていた。才あまりて徳足らず、自らの才にとらわれ、王道を行くことができず、覇道の人となり、自滅していったわけである。
 このことは、信心の世界においても大切な教訓である。どんなに才知にあふれていようとも、上には上がある。またしょせん、凡夫が仏様の智慧にかなうわけがない。ゆえに、小手先の策を弄し、まじめな信心の実践を蔑視し軽視していく人は、かならず最後は自らの才知に敗れて堕ちていくものである。
23  御義口伝には「法華経の行者の智は権宗の大智よりも百千万倍勝れたる所を智勝と心得可きなり」とある。
 ここで「法華経の行者」とは、別しては日蓮大聖人であるが、総じては御本尊に題目を唱える私どもも含まれる。その智慧は、権教をきわめた高僧、またいっさいの学者よりも、百千万倍も勝れているとの仰せである。
 私は、高学歴をもった者ではない。また、同じょうな人も多くいるかもしれない。万巻の書に親しんだわけでもないし、該博な知識の持ち主でもない。この私どもに対し、日蓮大聖人は、学者等より”百千万倍”も勝れた智慧をもち、さらには「迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし」と仰せになっている。ここに「以信代慧」の深義があるといってよい。
 透徹した信心こそ最極の知恵の源泉であり、深き信心に徹していくならば、いかなる局面にも、豊かな知恵をこんこんとわき立たせながら、悠々と苦難を乗り越え、勝利していくことができるのである。
24  大聖人は「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」と仰せである。この御金言を深く拝していくべきである。
 ”仏法は勝負”といわれるように、広布への多彩な活動は、それぞれの次元での魔との戦いである。その戦いに臨んでは、御本尊への唱題を根幹とした「信心の兵法」でなければならない。これこそ唯一最極の兵法であり、この純真な信心を根本としていくならば、真実の勝利を勝ちとっていくことができるのである。
25  人を得ることが中心者の責務
 『三国志』の舞台となった魏、呉、蜀の三国は、いずれも、やがて滅びていく。国の興亡は世の習いであり、まぬかれえない歴史の必然である。ただし、三国のなかでは、呉がもっとも長く続いている。国力の富んだ魂ではなく、なぜ呉の国がもっとも長命であったか。私はここに大切な問題がひそんでいることを感ずるのである。
 呉の初代皇帝・孫権が印綬を継ぎ、呉の主となったのは、弱冠十九歳であった。このとき玄徳はすでに四十歳であり、曹操は四十六歳であった。
 この若き指導者・孫権のもとには、周瑜、魯粛をはじめ有能な臣下がいた。周瑜は孫権に、こう忠言している ー 「何事も、その基は人です。人を得る国はさかんになり、人を失う国は亡びましょう。ですからあなたは、高徳才明な人をかたわらに持つことが第一です」と。
 若き孫権は、この言葉を忠実に実行し、王権の基盤を築いていった。
26  末法万年への広宣流布の盤石なる基盤を築くのもまた、同じ方程式である。この原理を幹部の皆さま方はけっして忘れてはならない。
 中心者のまわりには、信心強盛にして人格のすぐれた、有能な人々がいなくてほならないし、責任感の強い人がいなくてはならない。反対に、世辞と野心と名聞のずる賢い人はおいてほならないし、だまされてはならない。これからの指導的立場になられる方々は、このことをよくよく銘記していただきたい。
 本日はつれづれのままに所感を語らせていただいた。皆さまにとって何らかの示唆になれば幸いである。嘗さま方のますますのご活躍とご健闘を心から念願したい。
 『三国志』に関しては、主に吉川英治著の小説『三国志』によった。

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