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日蓮大聖人・池田大作

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「壮年部の日」記念合同勤行会 人間の実相見つめる仏法

1986.8.21 「広布と人生を語る」第10巻

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1  きょうのように暑い日は、ゆっくりと休みたいと思っている人もあろう。しかし、恩師戸田城聖先生は「広宣流布と信心には夏休みはないのだ」と、よくおっしゃっておられた。
 また大聖人は報恩抄に「極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず」と仰せである。
 戸田先生はまた「人の一生は短い。若いときに、健康であるうちに、懸命に自身を鍛えて、悔いなき信心と人生でなければならない」とつねにいわれていた。
 私は、その戸田先生の弟子として、瞬時を惜しんで広宣流布の道を開いてきたし、またこれからもそうしたい。御聖訓のままに、末法の五濁悪世というこの現実のなかで、仏道修行を貫き通していきたい。
2  きょうは、大切な東南アジアの若きリーダーの皆さんにお会いでき、たいへんにうれしい。またここには、スペインからも、またアメリカからの同志も参加されている。さらに、この8・24「壮年部の日」記念の勤行会にお集まりの方々は、今はもう青年のようなういういしさはないけれども(笑い)、青年の気概で、ともに研輩のひとときを過ごしていただきたい。
 日蓮大聖人の御書のなかには、婦人に与えられてはいるが、壮年、婦人の両者に通じる御指南、激励の御書も多々ある。そこで本日は、「妙法比丘尼御返事」を拝しながら、人間の実相を見つめた仏法について、少々懇談的にお話ししたい。
 このお手紙は、妙法比丘尼が、嫂から託された太布唯たふかたびらを供養するとともに、妻は正法を信仰していたが自らは念仏を信じていた尾張の次郎兵衛尉の死を報告したのに対し、身延山から妙法比丘尼と娘に与えられた御書である。
 妙法比丘尼、すなわち妙法尼といわれた方は、大聖人の門下に四人いたといわれている。いずれも、その信心をたたえられ、「妙法」という御名をそのまま与えられていることから、信心強盛なご婦人方であったと推察される。
 この御書をいただいた妙法尼は、駿河国(静岡県)岡宮に住んでいた婦人で、夫に先立たれたが、その後や純真な信心を貫いた方で、大聖人も深く信頼されておられたようである。
 もう一人は四条金吾のお母さんである。また、佐渡の中興に住む中興入道のお母さんにも、妙法尼の名を与えられている。この方は大聖人が佐渡御流罪中に帰依し、身延に入山されてからもしばしば音信を寄せている。
 さらにもう一人が、日目上人の父である新田五郎重綱の母、つまり日目上人の父方の祖母である。
 本抄をいただいた妙法尼は、周囲から信心に反対されながらも、そのなかで純粋に信仰を貫き、子供を育ててきた未亡人である。いわば、四人の妙法尼のなかでも、もっとも大変ななかで信心を貫いた人といえる。
 日蓮大聖人は、恵まれた環境の人以上に、社会的にも苦しい環境のなかで信心に励んでいる人々を、最大限に守り、大慈大悲でつつまれていることが、この御書を拝してもうかがえるのである。
3  「さては又尾張の次郎兵衛尉殿の御事・見参に入りて候いし人なり、日蓮は此の法門を申し候へば他人にはず多くの人に見て候へども・いとをしと申す人は千人に一人もありがたし」と仰せである。
 この御文は、大聖人が尾張の次郎兵衛尉とかつてお会いしたことがあると仰せになっておられるところである。そして、大聖人は法を弘めるために多くの人に会ったが、「いとをし」――いい人だなと思う人は、千人に一人もいない、と。
 多くの人と会うといえば、皆さま方も広宣流布の指導者として、世間の人とはくらべものにならないほど多くの人と会っている。
 世間一般の人の場合は、多くの人と会うことがあっても、自分自身の手段のためであったり、自身の栄誉栄達のためである場合も少なくない。それに対して、私どもの場合は「法」のため、人々のための行動であり、その方々がいかにして成仏の道を歩んでいけるかという根本問題をわが課題として、日夜、指導の任に取り組んでいるわけである。
 ところで、大聖人は多くの人に会ったけれども、真にいとおしい人は千人に一人もいなかったと述懐されている。つまり、”ほんとうに立派である”と尊敬、信頼できる人はまれであったと仰せである。
 私ども凡夫は近視眼的にしかものごとをとらえられないが、三世に通暁なさっておられる御本仏は、人間の生命の実相、そして傾向性の奥の奥まで見ぬかれておられたにちがいない。ゆえに、この「千人に一人もありがたし」とのお言葉は、人間というものの実相を知るうえで、まことに重大な意味がある、と私は拝するのである。
4  また、先の御文に続いて大聖人は、「の人はよも心よせには思はれたらじなれども、自体人がらにくげ憎気なるふりなく・よろづの人に・なさけあらんと思いし人なれば、心の中は・うけずこそ・をぼしつらめども、見参の時はいつはりをろかにて有りし人なり」と仰せである。
 これは、大聖人が尾張次郎兵衛尉とお会いになったときの印象を述べられた個所である。
 私どもも、未入信のご主人とお会いすることがある。純真な信心を貫いているご婦人のまじめさと真剣さによって、ご主人が会合に出てこられるというケースも少なくない。皆さまのなかにも、そういう経験をもっている方もおられると思う。尾張次郎の場合もそのようにして大聖人に会われたのかもしれない。
 大聖人は、そのときの印象について――信心はしていなかったので、よもや日蓮に心を寄せてはいなかったであろうけども、その人柄はいばるところがなく、だれにでも情が深い人であったから、心の中はどうであったかわからないが、会ったときは穏やかな人であった、とその人柄をほめておられるのである。
5  さらに「又女房の信じたるよしありしかば実とは思い候はざりしかども、又いたう法華経に背く事はよもをはせじなればたのもしきへんも候」と仰せである。
 すなわち、また奥さんが妙法を信じているということから、法華経を真実とは思わないまでも、またひどく法華経に背くことは、よもやないであろうと、頼もしく安心できるところもありました、というのである。
 無知による不信と積極的な誹謗とでは、罪の深さが大きく異なる。奥さんの信心ゆえに、大聖人とその門下に対して、主人が真っ向から誹謗するようなことはないであろうと思ったと、一往、夫人の働きをたたえ、喜ばれているのである。
 しかし大聖人は続けて「されども法華経を失ふ念仏並びに念仏者を信じ我が身も多分は念仏者にて・をはせしかば後生はいかがと・をぼつかなし」と心配されている。
 夫の尾張次郎兵衛尉は、法華経誹謗の念仏の教え、ならびに念仏者を信じており、自身もたぶんに念仏者であったから、後生はどうであろうか、良いはずはない、とまことに厳しい御指南である。
 仏法は人間の実相を見つめた峻厳なる”生命の法”である。
6  「秘とはきびしきなり三千羅列なり」と仰せのとおり、微妙なる一念の作用によって仏界の方向にいくか、地獄界の方向に向かうかが、厳しく決定されてしまう。だれ人が決めるのでもない、自分自身がつくりゆく自身の生命の軌道なのである。
 大聖人は、この少し後に、「いかに信ずるやうなれども法華経の御かたきにも知れ知らざれ、まじはりぬれば無間地獄は疑なし」と仰せになっている。
 たとえ信心しているようであっても、自分自身が知ると知らないとにかかわらず、法華経の敵とまじわったならば無間地獄は疑いない、との御断言である。短い一節ではあるが、私どもが銘記していかねばならない点を御教示された、まことに重要な御指南である。
 世間的にいかに良い人であっても、また正法に心を寄せていても、謗法の教えや人にまじわり、破折することがなければ、地獄への軌道を自身でつくってしまうことになる。これは長い間、信心してきた人であっても同様である。
 このことを大聖人は世間のたとえを引いて教えられている。すなわち「たとえば国主はみやづかへ宮仕のねんごろなるには恩のあるもあり又なきもあり、少しもをろかなる事候へば・とがになる事疑なし、法華経も又此くの如し」と。
 たとえば、国主が宮仕え、つまり仕事を熱心にする者に対し、恩賞を与えることがある。また、ときには与えない場合もある。多くの条件によって、それはさまざまである。しかし反対に、少しでもあやまちがあれば、かならず罰する。例外はない。これは、どこの世界であっても基本的には同じであると思う。
 それと同じく、信心においても、どんなにこれまで真剣に努力し精進してきたとしても、ひとたび謗法をおかせば、厳しき因果の理法によってかならず裁かれるのである。
 反対に、法華経に強く縁し、強盛なる信心を貫いた場合には、三世永遠にわたる生命の旅立ち、崩れざる幸への門出となるのである。ここに諸法実相、一念三千という厳粛なる生命の法の”証”がある。
7  生涯”心は青年”の気概で
 先日、青年たちと、大聖人と日興上人、ならびに五老僧との関係について懇談する機会があった。大聖人は、広宣流布、令法久住のために種々、御心をくだかれた。その御配慮、御心情には、時代は異なってもつねに変わらざる人間生命への鋭き洞察、そして広布を万代へと継承させゆくための大切な示唆が込められている。その点について若きリーダーらと語りあったわけである。
 大聖人は六十一歳で御入滅なされた。そのとき、日興上人は三十七歳であられた。五老僧で日興上人の兄弟子である日昭は六十二歳。また、日朗は三十八歳、日持三十三歳、日頂三十一歳、日向三十歳であった。ちなみに、このとき、日目上人は弱冠二十三歳。南条時光も二十四歳の青年であった。
 大聖人は、入信がもっとも早く、六老僧で一番の年長であった日昭ではなく、三十七歳の若き日興上人にいっさいを付嘱され、後事を託されたのである。この日興上人のもとで、日目上人、また信徒の南条時光ら若き俊逸が、はつらつと広宣流布の松明を引き継ぎ、信心の炎を広げていったのである。
 次元は異なるが、学会にあって戸田先生は、この後継の方程式として、私ども青年部に後事のいっさいを託された。ここに今日の学会の大発展への要因があったといってよい。この点を、広布をめざしゆく私どもは深く銘記しなければならない。
8  私も五十代の終盤を迎え、明後年には六十歳となる。また、ここに参集された皆さま方も、信心と人生の年輪を重ねられ、残念ながら”紅顔の美青年”では、すでになくなっているようだ。(笑い)
 しかし、若き日の瑞々しさがなくなることは、やむをえないとしても、心の若さは失ってはならない。同じ壮年の世代には、時代の風潮に染まって”我欲”の生命にとらわれてしまう人もいるが、皆さまにおいては、けっして若々しい生命力を後退させてはならない。
 揺るぎない信念をもち、広布の使命に徹して生きゆく人は、何歳であろうとつねに若々しい心を失わないものだ。私どもには、未来への希望ともいうべき、数多くの後継の友がいる。そして、この若き後輩たちを広宣流布の大道へといざない、立派な広布の後継者へと育てゆくのは、先輩である私どもの責任である。ゆえに広布の舞台にあっては、どこまでも青年とともに歩み、青年を豊かに薫陶し育成しゆく”青年の心”をもった壮年・婦人であっていただきたい。
9  先日、長野研修道場に滞在していたとき、地元紙の「信濃毎日新聞」に掲載されている「山ろく清談」を読んだ。そこに棋界の大山十五世名人の次のような言葉があった。
 「勝負の際、闘志や集中力、根性などいろんなことが言われる。一番大事なことは、どんな情勢になっても思ったことを胸に秘め、耐え抜くことです。おしゃべりやよそ見で、ストレスを発散してはいけない」と。
 これは、人生の苦難や重大な時期に直面したとき、その重圧や苦悩に耐えて、未来へ道を開いていく強い生命力をもつことが大事だということである。ともすれば人間は、そうしたとき、他に逃げ道をさがそうとするものだ。それが愚痴の言葉となったり、自分のやっていることへの疑問の心となることもある。また、不満をはらすためや自分の弱さを正当化するおしゃべりに逃げ込んだりする。そうした逃避は、けっして問題の解決とはならず、逃げているだけである。ここに「おしゃべりやよそ見で、ストレスを発散してはいけない」との大山氏のいわんとする本意があると思う。
 われわれが持っている妙法は、人間としても、また社会人としても、立派に人生を飾っていくための法である。この意味からも皆さま方が、見事なるゴールインで生涯を飾るためにも、途中で愚痴や疑問の”おしゃべりの遊び”に座り込んで歩みを止めたり、横道にそれるようなことのないよう、お願いしたいのである。
 ともあれ、お一人お一人が、人生の最終章まで、人生の根幹である信心を深め、妙法の舞台を広げながら”広布の戦士”としてこの壮年時代をたくましく生きぬいていただきたい。

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