Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

長野の各部合同研修会 遠大を志に生きる不過の人に

1986.8.18 「広布と人生を語る」第10巻

前後
1  先日、陰で懸命に広布のために尽力している同志の方々と、この研修道場で懇談する機会があった。そのさい、保健休養地として百年を迎えた軽井沢のことが話題となった。
 私は、かつての軽井沢には、現在ほどの豊かな樹木はなかったのではないか、と出席者に質問してみた。その点については、若き日に書物で読んだ記憶もあったし、また浅間山の噴火活動や、宿場町としての荒廃といった歴史的条件からしても、今日の緑豊かな環境がつくられたのは此較的最近のことではなかったかとの思いが、以前からあったからである。
 すると、地元出身の一人が”この地には、昔は樹木はほとんどなかった”とたしかに読んだことがあるという。そこで資料等を調べてみると、やはり軽井沢の緑豊かな自然の背景には、興味深い歴史があった。
2  一青年による軽井沢開拓の事跡
 軽井沢は通例、一八八六年(明治十九年)、英国人宣教師が別荘地として見いだし、そこから開けたとされている。しかし、じつはその三年前の明治十六年ごろ、雨宮敬次郎という、当時三十代の青年が、軽井沢の開墾を決心して、不毛の原野に足を踏み入れているのである。
 山梨県出身の彼は若くして事業家を志し、アメリカへ、ついでイタリアへと渡ったが、どこにいっても計画は失敗し、帰国する。しかし彼は、海外への渡航によって多くのことを学んだ。
 その一つが開墾の事業である。彼はアメリカ大陸で開拓の実情を見た。開墾によって不毛の地に立派な村落をつくり、町を建設している、その姿を見て、日本における開拓事業を決心し、軽井沢の地に入ったのである。
 はじめはブドウ栽培や馬・豚などの畜産を試みたが、ことごとく失敗。また開拓者のなかには少し利益を得ると帰ってしまったり、借金をして逃げ出したりする者もいた。しかし彼は、黒麦に挑戦して、失敗を重ねたあげく、小さな成功を得、やがて植林事業で大きな業績を残すことになる。
 軽井沢という高冷地にふさわしい樹木を求めて、多くの学者や経験者に意見を聞いてまわった彼は、最終的にカラマツに決定。一年に三十万から四十万本ずつ植えていって、ついに七百万本もの植林を成し遂げたのである。大正年間には北原白秋の「落葉松」の詩にうたわれるなど、軽井沢の象徴のようになったカラマツの林も、もとは一介の青年の情熱から始まったのである。
3  また、彼の努力の陰に、夫人のなみなみならぬ内助の功があった。なにごとにおいても夫人の一念が大切である。夫人の心が弱ければ、主人の前進もむずかしくなる。雨宮夫人は夫とともに、夫の理想を自身のものとして、目的に向かってけなげに頑張りぬいた。また、もしも自分たちの代で実現しなかったならば、次の人に託してでも成し遂げたいとの決意であったようだ。このことは、私どもの広布と信心の歩みにも通じる大切な精神であると思う。
 荒廃した大地に植林をし、開墾をして、豊かな大地としていくことは、たしかに難事業である。それ以上にむずかしく、重要なのが、人材をつくり、成長させていくことである。学会は、この人材育成に全力をあげてきた。人材育成があってこそ、今日の学会の大発展があったといってよい。
 開墾事業にあたって、雨宮敬次郎は「遠大の志望、永久の心掛けより起ったのでなくては駄目だ」との言葉を残している。
 私どもの広宣流布の運動もまた同様である。戸田先生は「二百年単位で考えよ」とよくいわれていた。そうした遠大なる志と先見なくして、目先の小事に紛動されていては、偉大なる作業はできないものだ。
 また、雨宮の事に処する精神は「一度決すれば頑として動かず、其の処信に従って勇猛邁進する」であった。
 一度、自分がこうと決めたならば、だれがなんと言おうと信念を貫き通す。この”不退転の決心””勇猛邁進の精神”が大事なのである。この青年の決心が、日本のみならず世界的にも有名となり、緑したたる詩情豊かな軽井沢をつくりあげる淵源となったわけである。
 どうか、広布の若きリーダーであり、後継の人材である皆さまは、こうした彼の生き方を通して、何かを感じとっていただければと思う。

1
1