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日蓮大聖人・池田大作

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日本、アメリカ、フランス、イタリアの合… 人生の試練越え前進を

1986.8.2 「広布と人生を語る」第9巻

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1  本日の研修会には、「伸峰会」304人、「SGI会」105人、「ほたる会」117人、「白糸会」49人、NSA55人、フランス50人、イタリア50人、「香宝会」8人、受賞者43人、「未来会」50人の、合計831人が参加されている。心からご苦労さまと申し上げたい。
2  学会には七、八月になると夏季講習会を行う伝統がある。戸田先生を囲み、総本山の理境坊を中心に、有意義で思い出深い歴史を刻んできた。戸田先生のもと、多くの男女青年部員が質問をしたり、指導をいただいたり、たいへんに盛況な行事であった。
 それ以前の昭和二十二年、西神田の旧学会本部で法華経講義を行っていたころ、ある女子部の幹部が、終戦直後の英語ブームという背景もあってか、「英語を勉強し立派な通訳になりたい」と話した。
 そのとき、先生は「それは結構だ。しかし、ブームにのっても、英語が中途半端、信心が中途半端、人生も中途半端であったなら、何にもならないよ」と諭された。残念ながら、そのときの彼女は現在、どこにいるかわからない。結局、戸田先生の心配されたとおり、英語も信心も人生も中途半端で、かわいそうな人生を歩んだのでは、と悔やまれてならない。
 また「信心していなくてもたくさん立派な人がいるが」とのある女性の質問に対し、先生は「たしかにそのとおりである。しかし、あなたは平凡な女性かもしれないが”大法”を持っていることはたいへんなことである。妙法を持ち、人々に教えながら、広宣流布に生きゆく人生を送っていることは最高の女性の生き方である」と激励されていた。
 そのさい、先生は「世の中で立派な活動をなし遂げ、尊い歴史を残したナイチンゲールのようには、あなたはなれないかもしれない。またなる必要もない。しかし、信心の一念、精神だけはナイチンゲールに負けてはいけない」といわれた。私は、この言葉が強く印象に残ったことを思い出す。その彼女は今も元気に頑張っている。
3  ナイチンゲールの生き方を通して
 そこで、きょうは、フローレンス・ナイチンゲールについて、戸田先生がひとことふれられたご指導を現在に開いて話しておきたい。
 「伸峰会」の方々は学会の中枢中の中枢であるし、人材の方々でもある。皆さまがそのままナイチンゲールと同じ生き方をすべきだというのではないが、私どもの行動と確信、社会貢献の人生、そして広宣流布の活動がどれほど大きな意義をもつかについて、知ってもらえればと思い、お話するしだいである。
4  ナイチンゲールは一八二〇年から一九一〇年まで生きたイギリスの有名な看護婦である。わが国でいえば文政三年から明治四十三年にあたり、九十年あまりの、尊くも波乱に富んだ一生を送っている。その生涯は、苦労をしたから早死にするとか、楽をしたから長寿であり、健康になるとはいえないということを証明していると思う。
 彼女は、近代看護を創始し、世界看護婦界の原点ともいわれ、また模範とも仰がれている。
 しかも、看護婦といっても小さい次元にとどまらず、病院の改良やインドの衛生問題など国家的レベルでも活躍している。また、生命と健康についての偉大な思想家であったし、実践者、教育者でもあった。「十九世紀は女性の世紀」とされるなかで、彼女自身がその象徴的存在ともなったといえよう。
 なにごとにおいでも原点、模範が大事である。信心の世界でいえば、末法万年にわたる土台を創っている私たちは、まさしくその存在であることを自負していただきたい。
 ひとつの原点をもち、行動をした人の真価は、教育者にも、実践家にも通ずるし、また多次元の社会の行動にも通じていくものである。医者が医学のことしか知らないとか、政治家が政治のことしか知らないというのでは、偏頗な人生である。妙法は一切法に通じていくと説くが、現実社会のすべてに通じていくことが正しい信仰者のあり方だと思う。
5  彼女はイギリスの裕福な上流家庭に生まれたお嬢さんである。当時のイギリスはビクトリア王朝時代にあたり、世界経済の覇者となっていた。いうなればイギリスの ”黄金時代”であった。
 彼女は、結婚してからずっとヨーロッパを旅行していた両親が、イタリアのフローレンス(フィレンツェ)に滞在していたとき、次女として誕生した。かつてルネサンスの中心の天地であったその地にちなんで、フローレンスと命名されたのである。
 なお、本日は、イタリアの同志もはるばる参加されているが、そのフィレンツェの地にもこのほど立派な会館が誕生した。ルネサンス当時の建築様式がそのまま保存された由緒ある建物である。まことに慶賀にたえない。
 両親はナイチンゲールをびじょうにかわいがり、彼女に当時として最高の教養を身につけさせようと懸命に育てた。文法、作文からフランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語と多くの語学を学んだ。さらに、数学、哲学、歴史、音楽、絵画、手芸にいたるまで、研鑽を積んでいる。このときの勉学と努力が基礎になって、後年、彼女は多くの著作を残した。こうした例からみても、若い時代の苦労、勉強は絶対に必要なのである。
 ともかく、彼女の人生には未来の幸福が約束されていたといってよい。当時の常識では、華やかな社交界での生活、人々もうらやむような”淑女”としての前途しか考えられなかった。しかし、彼女はそうした道を選ばなかった。華やかさの裏にはいつもわびしさとむなしさがまっている。それを彼女は知っていたにちがいない。
 人々の病を治療し、苦悩を癒し、人々のために仕事をしていく看護婦としての人生を自ら選び、みごとにまっとうした彼女の生き方は、いうなれば菩薩の所作の一分ともいえよう。
 地道ではあるが他の人々の幸せを願って行動していく生き方の重要性は、時を重ねるにしたがい、身に感じてわかってくるものである。
6  強き覚悟で使命に献身
 彼女の日記には、こう書かれている。
 「なんでもいい、人のためになる仕事が、全力をあげて、ぶつかっていく仕事が、なにかわたしには必要なのだ。それでなければ、気もちがおちつかない」と。
 こうして彼女は、悩める人々のために看護婦になろうと決心する。二十五歳のときに、その思いを家族に打ち明けると猛反対をうける。それも無理はない。当時、病院といえば、悲惨と不潔に満ちた象徴のように考えられ、「看護婦は堕落した女性でなければつとまらない」とさえいわれていた。また「看護婦は、みんな大酒飲みである」と悪口する人もいた。
 そうした時代に”私は看護婦になる”と決意したのである。ここに私は、ナイチンゲールの人間としての信念の強さ、偉さを感じる。
 人間の常として、多くの人々は世間体を考えるものだ。さらにひとたび決意をしても、時がたつにつれてそれを忘れていきがちである。状況しだいで心も移り、一生という観点からみると、さまざまな紆余曲折をたどるものだ。
 しかし、彼女はひるまなかった。このころ「あきらめ! このことばだけは、わたしにまったく理解できないことばだ」と記している。
 ナイチンゲールは、自己の決心を変えなかった。「あきらめ」という言葉は私にはない、と厳然として信念を貫くのである。
 これこそ信仰の精神であり、学会精神に通じる生き方といえる。どんな迫害にあっても”私は信仰を今っする”との決意こそが、広布の使命に生きる者の要諦であることを知っていただきたい。
7  そして、ナイチンゲールはドイツの看護学校に行き、看護婦としての第一歩を踏み出すのである。そのとき、すでに三十歳ごろであった。
 三十代になって自己の課題に挑戦していったとしても、けっして遅くはないといってよい好例であろう。
 世の中には二十代で華やかな結婚式をあげ、あたかも幸せを満喫しているかのように新たな人生のスタートを切りながら、やがて家庭に入り、子供を産み二二十代に入るころには現実の苦労に疲れ果て、希望も向上心も失ってしまう人も少なくない。
 また、信心をしている人のなかにも、結婚後、生活に追われ、青春時代の誓いを忘れて、信心から離れ、さらには夫をも信仰の世界から遠ざけてしまう人もいる。
 一生という長い目でみたとき、その人の人生は空虚にならざるをえないことを思うと、かわいそうでならないし、また残念でならない。
8  ナイチンゲールは当時、ある手紙に「人生は戦いです」と書いている。いよいよ彼女の本格的な戦いが開始されたわけである。
 その戦いを通して、彼女はやがて、病院を改良し、看護婦を「堕落した女性」から「天使」へと昇華させていく。それは、たった一人の女性であっても、その力がいかに大きいかを端的に示すものであったといえる。
 ”一人”のカというものを軽んじては断じてならない。すべては”一人”から始まるのである。ゆえに私は、つねに一人、一人をじっと見ている。そして、一人、一人に全幅の信頼を寄せ、育てることに全力をそそいでいる。
 大勢を対象としているのみでは何もわからない。また、人数が多ければいいというものでもない。広布の推進も、結局は”一人”の成長にかかっているのである。
9  一八五三年、ロシアとトルコとの間に戦争が起きた。そのきっかけは宗教的な対立を理由にしていたようだ。当時のロシアの南下政策を阻もうとするイギリス、フランスはトルコを支援し参戦した。この戦争は黒海につきでたクリミア半島が主戦場となったことから、「クリミア戦争」と呼ばれている。戦争勃発の翌一八五四年、ナイチンゲールは時の陸軍長官の依頼をうけ、三十八人の看護婦団を組織し、戦場へと向かった。ときに彼女は三十四歳、以後二年間にわたり奮迅の活躍を展開するのである。これが「クリミアの天使」としてその名を世界の歴史にとどめることになる彼女の第一歩であった。
 当時、イギリス軍の野戦病院は目をおおうばかりの惨状であった。負傷兵が続出するうえ、コレラ患者も急増するにもかかわらず、医療品や食糧、物資はまったく不備という状態であった。しかも野戦病院の建物も不衛生きわまりなく、兵士たちは負傷や病気のためよりも、病院の不衛生からくるベストが原因で死ぬほうが多かったともいわれる。
 そのうえ、権威をふりかざす医師団らはナイチンゲールたちを無視し、病室に入れようとさえしなかった。露骨なまでの差別である。
 すぐれた看護婦は、患者を観察する眼がこまやかで、ときには医者よりも的確な判断をすることすらある。ゆえに、看護婦という存在は尊敬こそすれ、軽視すべきではけっしてない。
 そうしたなかで彼女は、掃除、洗濯、料理からすべての物資の供給にいたるまで何もかも引き受け、兼用に追われたという。それでも”私たちには私たちの使命がある”といって意に介さなかった。
 ふつうであれば、あまりの不遇、過酷な状況にいきどおって、当初の志を失い、いわゆる退転をしてしまうであろう。しかし、ナイチンゲールは初心を貫き、使命の道を歩みぬいた。
 私どもの信心の世界でも、厳しい環境に耐えきれず、当初の決意を失い、退転してしまっては、仏道修行を全うすることはけっしてできないのである。
10  ナイチンゲールの看護がどれほど献身的であったか。兵士の看護のために二十四時間ぶっつづけで立ち通したこともある。逆に、床にひざをつけたまま八時間もの間、傷に包帯を巻き続けたこともあるという。
 今だったら労働基準法の違反になるところだ。(笑い)これこそ使命感に生きぬいた姿である。使命ゆえに、人一倍努力を重ね、苦労をしたのである。覚悟なくして、壮大なる仕事は成しえないことを銘記していただきたい。
 苛烈な戦闘で兵士が相次ぎ亡くなる姿を目にしたナイチンゲールは、だれにもみとられずに死んでいく多くの兵士たちの孤愁に、深い同情の念を禁じえなかった。そこで彼女は”失意のうちにたった一人で死んでいく兵士がないように”と強く願い、瀕死の枕辺を力のかぎり回り、励ました。ここかしこにあまりに繁く姿を見せる彼女の奔走ぶりに、兵士たちは”彼女は一時に、あちらにも、こちらにもいる”と信じていたほどであったという。
 こうしたナイチンゲールの、悩める同胞に対する深き慈愛の心を思うとき、私はわが学会における指導部の存在に思いを馳せざるをえない。私が指導部の皆さまを「広布の赤十字」「妙法の赤十字」と、尊敬をこめて呼ばせていただくのも、ナイチンゲールとの連想が淵源となっているわけである。
 人生に迷い、悩みに苦しむ人々に、あたたかく、また強き慈愛の心で救いの手をさしのべようと、日々奔走される指導部メンバーの姿はど尊く、また美しいものはない。地涌の菩薩の眷属である同志のために、自身の休息や報酬を思うこともなく活躍されている指導部の友に、私は満腔の感謝をささげたい。そして、若きリーダーの諸君には、こうした大先輩への深き尊敬と感謝の念を絶対に忘れるな、と強く申し上げておきたい。
11  ナイチンゲールは、ある書簡のなかで「病人を看護するという仕事は、私がしなければならない多くの仕事のうちでも、一番小さなものです」と述べている。病院を管理し、運営するいっさいの仕事が、当時から彼女に課せられていたわけである。
 彼女は、十分な看護を行うためには、医者や看護婦のみならず、あらゆる人々の協力を得る必要を感じていたに相違ない。福祉・衛生という目的のために多くの人々が連帯し、組織化されていかなければならないとの認識に達していたといえよう。ここから彼女は、より大きな使命の人生へと歩み始めたといってよい。
 そのうえ、彼女は、これとは違った仕事の一つとして、膨大な数の手紙を書かなければならなかった。毎日、多くの兵士が死んでいく。連絡が途絶えて、故国の家族は心配でたまらない。軍に手紙を書いても、当時のことゆえ、権威と役人根性の軍人たちに親切な反応を期待することはできない。しぜん、家族たちはナイチンゲールにあてて手紙を書くような場合もあった。彼女は、激務のなか、それらにぜんぶ目を通し、心のこもった返書をしたためている。
 一例として、ある兵士の妻にあてたナイチンゲールの手紙が現在も残っているが、兵士の死を告げたその手紙は、深い同情とこまやかな思いやりに満ちた文面で、家族ならずとも涙なくしては読めないものである。そのうえ、彼女は未亡人手当ての申請書を同封し、手続きの方法までこまごまと教え、あれこれとアドバイスしているのである。
 こうした、深い慈愛と、相手の身になってのこまやかな配慮、激励は、学会の指導部の方々にも通じる尊い姿であると思う。
 こうして彼女が生涯にしたためた手紙は、一万五千通から二万通にも及ぶとされている。何の報酬があるわけでもなければ、名声のためでもない。ただ自分の決めた使命をひたむきに果たしていこうとする尊貴なる姿である。
 まして私どもの信心の世界にあって、要領や利欲や人気とりの心をまじえることは、あまりにも情けないことである。また、仏法の因果律に照らして怖いことである。それらは結局、自分自身の生命を傷つけることに他ならないからだ。
12  彼女はこれだけの純粋なる献身と努力を重ねたにもかかわらず、無数の反対や妨害にあっている。もちろん彼女の優しい看護に直接ふれた多くの兵士たちからは、心からの感謝と信頼が寄せられていた。しかし、それを除いては、愚劣な嫉妬や裏切り、反抗、故意の中傷等々の集中砲火であった。裏切り者から非難されたりもした。この点からすれば、百年前も今も、人の心は進歩していない。
 私もつねに、ためにする批判等の集中砲火を浴びてきた。しかし、私はいささかの痛痒も感じていない。自分のことは自分が一番よく知っている。創価学会のことはすべて私どもがもっともよく知っているからである。私は私の信念で、ひたすらなすべき使命を達成していくだけである。
 しかし、もし、そうしたものにふりまわされて、あれこれ論じたり、ほんとうはどうなのだろうかなどと動揺したり、悩んだりする人がいれば、その心があわれである。魔というものは、人が苦しむのを見て喜ぶものなのである。そうした無責任な言葉にふれて、紛動されていては魔が喜ぶばかりである。そもそも妬みで書いてあるのだから、ほめてあるはずがないし(笑い)、良いことが書いてあるはずがない。(爆笑)
 私どもは御本仏日蓮大聖人の門下であり、人生の師匠・戸田先生の弟子である。ゆえに、ただ御書を拝し、御聖訓のままに、信念に生ききっていけばいいのである。
13  ナイチンゲールはこう言う。「ここでの本当にイヤなこと、本当につらいことは、自分の着任をのがれることだけしか考えていない人たちとつきあっていかねばならないということです」と。
 私にはよくわかるし、いい言葉であると思う。彼女の人生観の一つの真髄といえるかもしれない。
 また「キリストは、ユダというひとりの人によって裏切られました。けれども、わたしの主張はあらゆる人によって裏切られてきました――つぶされ、たたかれ、すてられてきました」とも言っている。
 しかし彼女は前に進んだ。人気などは歯牙にもかけなかった。毀誉褒貶にもとらわれなかった。このことは広布の精神、また学会精神に通ずるともいえよう。
 お嬢さん育ちで、もともとほっそりと弱々しい彼女自身、病気で死にかかったこともあった。しかしぜんぶそれを乗り越えて、こうも書簡に記している。
 「わたしはもう、この土地から得られるものはすべてもらってしまった。クリミア熟も、赤痢も、リューマチも。これですっかりこの土地になじんだ。これでもう、どんな人とでも最後までたたかいとおせる」と。
 これもたいへんに実感のある言葉だと思う。日本から海外へ行って広布に活躍している人たちについて、私は、その土地の文化を受容して進みゆく労苦を思い、深く感動している。
14  クリミアでの傷病兵士に対するナイチンゲールの献身的な看護活動が、かえって彼女に対するねたみや反感をまねき、反発の嵐に巻き込まれたのも事実であった。それにもかかわらずイギリス本国にあっては、先に帰国した兵士たちの話によって、ナイチンゲールは民衆から英雄として仰がれたのである。
 一八六四年にはスイスのデュナンによって国際赤十字が発足しているが、その原点はクリミアでの彼女の看護にあるとされている。
 戦争は勝利に終わり、彼女は母国イギリスに帰国した。そこには国民の熱狂的な歓迎が待っていた。しかし彼女の、称讃に対する無関心は異常なほどであったといわれる。国民の讃嘆など、彼女の眼中になかった。
 彼女の脳裏からは、あのクリミアの野戦病院で苦しみながら死んでいった傷病兵士の姿が消えることがなかった。悲劇の責任は、軍の衛生組織の不備にあるのに、それらは依然として放置されたままである。それを思えば、彼女にとってはこれからが戦いの始まりであり、限りなき改革と進歩の始まりであった。彼女の胸中には、こうした不動の信念が脈打っていたのである。
 世間にもさまざまな分野で名を挙げ功を遂げ称讃される人たちは数多くいる。だが、名聞名利にも流されず、八風にも侵されない存在は少ない。
 それらのすべてを超越し、びたすら次への改革と進歩をめざしていく――私はここに、ナイチンゲールの透徹した人格と人間的偉さを痛感するのである。
15  このころのナイチンゲールの心情をうつす日記の一節に「わたくしは、祭壇の前に立って、殺された人々に代わって訴えようと思う。いのちのある限り、彼らのために戦おうと思う」とある。
 疲れ果てた心身にムチ打って、彼女は再び敢然と新たな戦いを始めたのである。この強い挑戦の姿勢、これこそ御書に説かれている仏法の精神に通ずるものであり、人生の骨髄もここにある。
 彼女は、事実と統計の基づけに基づいて、陸軍の衛生状態の改革、近代看護法の確立、病院の建築や管理の改良等の大事業にたずさわっていった。こうした事業の推進のかげには、ビクトリア女王の理解をはじめ、彼女のすぐれた献身的な精神に共鳴した男性たちの応援があったといわれている。いつしか彼女は、実地の行動のなかで境涯を深め、人々が彼女に助力をせずにはおれないとの風格さえ身につけていたのである。
16  ナイチンゲールが残したかずかずの論文――「インドにおける生と死」(五十三歳)、「貧しい病人のための看護」(五十六歳)、「町や村での健康教育」(七十四歳)等――こうした論文からもうかがえるように、生命を慈しむ彼女の視点は、一個の人間から家庭、地域へ、さらに国家、世界までの広がりをもっていた。
 生命、そして社会へと広がっていった彼女の思想と活動は、われわれがめざしてきた、個人の人間革命から家庭革命、地域革命へ、そして国家、世界の広布と変革へと発展する活動と同じ流れになっている。
 さらに、彼女は書簡のなかで「私たち看護するものにとって、看護とは、私たちが年ごと月ごと週ごとに『進歩』し続けていない限りは、まさに『退歩』しているといえる、そういうものなのです」と述べている。
 彼女は、まさにこの言葉どおりの、進歩、前進の人生を全うした女性であった。この文でいう「看護」は、われわれにとっては、「信心」、「広布の活動」とおきかえることができよう。”進まざるを退転”というように、つねに広布と信心に進みゆく日々であり、人生でありたい。そこに悔いなき、充実と満足の生涯が開かれていくのである。
17  一八六〇年に、彼女は「ナイチンゲール看護婦訓練学校」を創設した。彼女自身は病身のため、一度も教壇に立つことはなかったが、教師陣とは密接な連絡を取りあい、時に応じて学生を自宅に招いて真剣に指導している。これも個人教育、個人指導の有名な象徴である。
 その卒業生は全世界に広がった。行き詰まり悩んだとき、傷心の卒業生たちは、彼女のもとにやってきた。ナイチンゲールは病弱をおし忙しい仕事の合間をぬって彼女たちと会い、一生懸命に激励をした。そして再び元気になった卒業生たちは、勇気をもって彼女のもとからまた世界へと出発していったのである。
 当時、彼女は多忙で病弱だったため、徹底した面会制限をしいていた。たとえ総理大臣であっても約束なしで訪れると断られたほどであった。そのなかで彼女のもとにやってくる後輩の看護婦たちだけとは喜んで会ったという。
 私には彼女の気持ちがよくわかる。有名人だから、幹部だから偉いのではない。けなげでまじめな人を私は尊敬するし、大事にしたいと思う。
18  ナイチンゲールは、この訓練学校の学生と、卒業した看護婦たちにあてて、五十二歳のときから年一回の書簡を書きはじめた。そしてそれは、八十歳になるまで続けられたのである。それらの書簡はいわば公式の文書、教書であった。そこには「看護と科学と宗教(信仰)」というテーマが貫かれている。これはひじょうに鋭い視点である。また、永遠に崩してはならない”看護の精神”が脈打っている。
 彼女が七十三歳のときに書いたある論文のなかで「”われわれ”がみんな死んでしまったとき、自ら厳しい実践の中で、看護の改革を組織的に行なう苦しみと喜びを知り、われわれが行なったものをはるかにこえて導いていく指導者が現われることを希望する!」と、後世の弟子に対し、万感の思いを語っている。それは私にとっても同じ気持ちである。
 こうしてフローレンス・ナイチンゲールは、輝く功績を残し、九十歳で眠ったまま没している。
19  ナイチンゲールの著作から
 次に、ナイチンゲールの多くの著作のなかから、私が深く感銘した個所をいくつかご紹介しておきたい。
 まず、彼女の信仰観についてふれてみたい。彼女は、病人を看護する者の関心は、科学的なものの見方にとどまってはならないと考え、こう述べている。
 「ここに私たちの『人間性』、つまり人間仲間に対する私たちの情熱があらわれてくるのです。そして最後に、しかも最後にして最初に、『信仰』が出てくるのです」
 彼女は、看護をとおし、信仰というものが必要不可欠であることを痛感していたのである。では、信仰をどのようにとらえていたのか。
 彼女はまず、人々にとって信仰がどのようなものであるかについて考察している。
 「信仰とは何でしょうか。ある人にとっては自分自身が信仰であり、ある人にとっては褒められること――他人が自分について思っていること――が信仰であり、またある人にとっては恐れ――他人が自分について言っていること――が信仰なのです。さらに出世することが信仰である人など、他にもいろいろありますが、ともかくもその人の行動の動機となる力、それが信仰なのです」と。
 そして「真の信仰」とは何かについて論究し、こう結論する。
 「しかし、真の信仰とは、その最高の形においては”生活”に表れてくるものなのです。真の信仰とは、今自分がしているすべてのことに全力をつくして打ち込むことなのです」
 これらは、六十五歳の「書簡」の一文だが、的確にして鋭い洞察であるといえる。信仰は生活に、また生き方に表れるものであり、そこに真の信仰のカがある。
20  また、彼女は、日々の生活のなかでの自己変革が肝要であることを強調している。
 五十三歳の「書簡」を見ると「私たち女性の中には、自分の心や性格を”日々の生活”の中で改善していこうと真剣に考えるような人はごくわずかしかいません」とある。しかし「白分の看護のあり方を改善していくには、これが絶対必要になってくるのです」と述べている。
 いつの時代にあっても、人のうわさ話など無意味な語らいに時間を費やしたり、虚栄を追い求める人は多いが、真摯に自己を見つめようという人は少ない。
 しかし、すべては、自己自身の変革から始まるのである。生活も、事業も、教育も、政治も、また経済も、科学も、いっさいの原点は人間であり、自己自身の生命の変革こそがすべての起点となる。まさに日蓮大聖人の教えに通じ、私どもの主張する人間革命にも通じている。
 私は、百年前の一女性が、自らそれを達観したことに対し、大きな驚きと感嘆とを覚える。
21  彼女の論文や書簡等からその宗教観を推察すると、彼女は、硬直したドグマや信条を排し、人間精神に関する普遍的な実理を探求しょうと努力していたようだ。私には、そうした心がよく理解できるし”なるほど”と首肯せざるをえないものを感じる。
 戸田先生はよく私どもに、アインシュタインのような超一流の科学者、あるいは思想家がもし大聖人の仏法にめぐりあったならば、狂喜して学んだにちがいない、と語っておられた。と同じように、ナイチンゲールが大聖人の仏法を知っていたならば、やはり心から喜んだことと私は確信する。
 また彼女は「看護覚え書」のなかで次のように記している。
 「何かに対して”使命”を感じるとはどういうことであろうか? それは何が”正しく”何が”最善”であるかという、あなた自身がもっている高い理念を達成させるために自分の仕事をすることであり、もしその仕事をしないでいたら『指摘される』からするというのではない、ということではなかろうか」と。
 まさに”いわれたからやる”というのでは、使命感のうえの行動ではない。”いわれなくてもやる”――これが私どもの精神である。広布の実践においても”いわれたからやる”というのでは、使命感ではなく義務感である。そこには功徳も少ないといわねばならない。
 彼女は続けて「これが『熱中するということ』であり、自分の『使命』を全うするためには……誰もがもっていなければならないものなのである。……看護婦が自分自身の理念の満足を求めて病人の世話をするのでない限り、他からのどんな”指示”をもってしても、彼女が熱意をもって看護できるようにすることは不可能であろう」と述べている。
 このように、彼女は、自らの使命を全うするためには、人から言われるまでもなく仕事に取り組まなければならない。それが「熱中するということ」であると強調しているのである。
 今は、「熱中する」という姿勢が少なくなっているようにも思える。そうであっては断じてならない。それでは要領のみで終わってしまうからだ。”熱中”の姿勢をつねに堅持しているのが、指導部の方々である。若き世代の青年部のメンバーも、かくあるように期待したい。
 また彼女は五十八歳の折の書簡で「人間は、男でも女でも、なんと”偉大”でもありうれば、”卑小”でもありうるのでしょう」との言葉を残している。まことに人間の真実というものを鋭く見すえた言葉として印象に残っている。
 私どもが、どのような生き方、信念を貫くかによって、偉大か卑小かが決まってしまうことを忘れてはならない。
22  四十歳のときに書いた書物には「多くの人びとは、自分の留守中や食事中、あるいは自分が病気で寝ている間は、世界はそのまま静止しているものだと信じ込んでいるように思われる。その間に病人に万一のことがあったとすれば、それは病人のせいであって、自分のせいではない、とでもいうのであろうか?(中略)大事小事を問わず、何かに対して『責任をもっている』ということの意味を理解しているひとは――責任をどのように遂行するかを知っているひと、という意味なのであるが――男性でも、女性でさえも、なんと少ないことであろう。上は最大の規模の災害から、下はほんの些細な事故に至るまで、その原因をたどってみれば(あるいは、たどるまでもなく)『責任をもつ』誰かが不在であったか、あるいはその人間が『責任』のとり方を知らなかったためであることが多い」(看護覚え書)と述べている。
 責任についての彼女のこうした洞察は、あらゆる角度から考えぬいたすえに得た結論であったと強く感ずる。
 現在は、俗に”無責任時代”などといわれるが、こうした風潮を、私は深く心配している。人間、とくに指導者たちは、いかなることにも自分で責任をとっていくことがとうぜんであると思うからだ。無責任の風潮の彼方には、取り返しのつかない大きな破壊が待っていると思えてならない。
 また私どもの日々の活動にあっても、広布のリーダーの皆さまは、大きなことにも、また、ささいなことにも、全責任を負いながら、誠実なる実践を貫いてほしい。
 現代は、あらゆる意味で多様化し、複雑化した社会といってよい。ゆえに、私どもにとっても、一つ一つの事象や命題をあらゆる角度から考え、深く洞察しぬいていくことが、きわめて重要なのである。
 ものごとに対する単純で一面的なとらえ方では、現代の多くの人々を納得させ、包含していくことはできない。それでは、万年にわたる広宣流布への確実な軌道を築いていくことは不可能なのである。
 これまでも学会は、仏法の原則を堅持しっつも、あらゆることに柔軟に対応しながら、多面的な力強い活動を推進してきた。しなやかな判断力と強靭なる実践力――これが、学会の飛翔を支えた両翼ともなり、原動力ともなってきたことを知っていただきたい。
23  ナイチンゲールは「真実の英雄」について、「もし英雄というものが、他者のために崇高なことを行う人をさすのであれば」「それに対して高慢にならず、謙虚そのものであるような人です。自分で自分を英雄だなどと思う人は、とるに足らない人間です」と述べている。
 英雄といえば、ともすれば、華々しく倣岸で誇らしげな姿を想像するかもしれない。しかし、彼女は「高慢にならず、謙虚そのものであるような人」こそ英雄であると言っている。自分ほど力があり、偉いものはないと思ったりする人は、真実の英雄ではない。けっして傲慢にならず、謙虚な人間であることこそ、英雄の条件なのである。学会の幹部も心して、この言葉をかみしめるべきであると思う。
 自分を英雄だなどと思う人は「とるに足らない人間」であると彼女は言っているが、まったくそのとおりである。自分をたいした人物だとうぬぼれていても、戸田先生からみれば子供のようなものである。まして大聖人からみれば、赤子のごとき存在でしかない。そうした力のない人物に限って、傲慢になるものである。
 また「もし、日常の生活の小さなこまごましたことにおいても、大きな出来事に対処する大仕事におけると同様に、あるいはそれ以上に、女性は誰も英雄となりうるものであるならば、毎日を他者のために働いている看護婦は、まさしく皆英雄となりうるのです」(五十七歳のときの書簡)とも語っている。
 華麗な表舞台の大仕事のなかにのみ、英雄があるのではない。日々、”他者のために”心をくだき、黙々と献身している人のなかにこそ、ほんとうの英雄がいるのである。
 皆さま方は毎日、だれに讃嘆されるでもなく、名声を博すわけでもなく、ただ人々の幸福を願って、真剣に信心に励み、広布に進んでおられる。その孜々としてけなげな地道の歩みは、どんなに華々しい英雄よりも、真実の大英雄であり、広布の英雄、人間の英雄であると強く申し上げておきたい。
24  彼女の五十二歳のときの書簡には、次のようにもある。
 「自分のほうが他人よりも優れていると思っているような人は、自分こそ模範でありたいという考えの、虜になってしまっているにちがいありません。(中略)自分がよい仕事に携わっているにもかかわらず、地位や階級や職分などについて、嫉妬したりこだわったりすること……このようなことで嫉妬する女性は、他人よ。もむしろ自分を傷つけているのです」と。
 また、こうも書き綴っている。「シェイクスピア劇の主人公のひとりだったと思いますが、こう言っています。『私は一生懸命にがんばって浅ましい人間になった』。これはなんとも正直な言葉です。ある人々にとっては、その全生涯がまさにそのとおりなのです」と。この言葉は人生を考えるうえで、たいへんに示唆に富んでいるといえよう。
 たとえ、どれほど頑張ってきたとしても、名聞名利の虜になってしまっては何もならない。口先たくみにうまく泳ぎ渡っていこうとして、まじめな人々のなかにいられなくなり、結局は退転し反逆していくような浅ましい人間には、けっしてなってはならない。
 さらに、「近ごろは、人の噂話が多すぎます。みんながみんなの批判ばかりしあっています。また、人を除け者にしてみたり、あるいは自分の気にいった人や、喜ばせてくれる人、あるいは出世する人なら誰でも好き、といった風潮に流されやすいようです。
 こういったごたごたの中にすっかりまきこまれてしまって、自分自身に深く根ざした心の静けさを失ってしまった人は、どこの病院や療養所に移っても心落ち着くことはないでしょう」とある。
 まことに鋭い分析であるといってよい。私たちの信心の世界は、絶対にこのようなことであってはならない。
25  ナイチンゲールは五十七歳のときの書簡で”試練” について述べている。これは看護婦の同僚や後輩たちに呼びかけたものである。
 「愛する皆さん。私たちはいつも試練を受けています。……私たちは試されており、それに耐えられるか否かは、あなた方の肩にかかっているのです。私たちが価値ある仕事をしている限り、この試練を通して私たちの価値が証明されるだけのことでしょう。喜んで試練を受けましょう。そして、ふるい落とされることのないように気を配っていきましょう」と。
 試練のない人生は、弱く、頼りない人生である。人は試練を経て強くなり、成長していくものだ。私たちが仏法を持ち、この大法を流布するがゆえに競い起こる降魔、そして幾多の人生における試練も、私たちにそれらを乗り越えゆく強盛な信心があるか否かを試している存在にはかならない。
 なにごとにも先駆的な戦いは非難をあびるものだ。しかし、そのなかでこそ偉大なる価値が証明されていくのである。皆さま方は、広宣流布という未聞にして最高の正義と価値を日々に証明しておられる、この世でもっとも尊い方々である。それゆえに少々の苦難や試練に負け、愚痴をこぼしたり、批判して退転するような愚かな人になっては断じてならない。
 御聖訓にも「賢聖は罵詈して試みるなるべし」と仰せである。どうか皆さま方も、いかなる試練も喜んで受けきり、一人も残らずさっそうと前進しゆく賢者であっていただきたい。
26  その書簡のなかでナイチンゲールは「不平と高慢と我欲に固まった、度し難い人間、”そういう”人間だけには”なりたくない”ものです。そして演劇の合唱隊みたいに、二分おきに『進め、進め』と大声で歌いながら一歩も足を進めないような人間にだけはならないようにしようではありませんか」と呼びかけている。
 私どもは前へ前へと広宣流布を推進している。”進まざるは退転”との戒めを胸に、だれもがそれぞれの立場で活動に励んでいる。大学教授であれ、会社の重役であれ、名もない庶民であれ、仏法の世界における実践はすべての人々において平等である。
 しかし、「前進、前進」と訴えているだけの活動は、とうぜんカラ回りになる。広宣流布の活動においては、何よりも自行化他に.わたる信心の実践が根本である。
 「自行」と「化他」の実践は、まさに車の両輪のごとく、たがいに不可欠の関係にある。飛行機にしても船にしても、いくら轟音をうならせても、エンジンだけが空回りしていては前進しない。極言すれば、題目は真剣にあげるが、広布のため、人々のためとの「化他」の行動がないというのでは、完壁なる信心とはいえないのである。
 この意味からも、信心というエンジンを全開させ、人々の幸せを願いながら日夜、活動に励む皆さま方の歩みにこそ、仏法の行き詰まりなき普遍の法理に則った大道があることを深く確信していただきたい。
27  御聖訓のままに信念の道を
 妙法比丘尼御前御返事に「女人の御身・男にもをくれ親類をも・はなれ一二人ある・むすめもはかばかしからず便りなき上・法門の故に人にも・あだまれさせ給ふ女人、さながら不軽菩薩の如し(中略)されば女人は由なき道には名を折り命を捨つれども成仏の道はよはかりけるやと・をぼへ候に、今末代悪世の女人と生れさせ給いてかかるものをぼえぬ島のえびすられ打たれ責られしのび法華経を弘めさせ給う彼の比丘尼には雲泥勝れてありと仏は霊山にて御覧あるらん、彼の比丘尼の御名を一切衆生喜見仏と申すは別の事にあらず、今の妙法尼御前の名にて候べし」と仰せである。
 この御文では日蓮大聖人は、妙法尼御前に――あなたは女人の御身として、夫に先立たれ、親類からも離れ、一人二人ある娘もあまりしっかりしておらず頼りにならない。そのうえ、法華経の法門のゆえに人にもあだまれている。それは、まさに不軽菩薩のようである。
 女人は、つまらない世間の道には、名をけがしたり命を捨てるけれども、成仏の修行の道には弱いだろうと思っていた。ところが今、末代悪世にあって女人として生まれ、このようにものごとの道理をわきまえない島(日本)の野蛮な人々に、ののしられ、打たれ、責められながら、それを耐えしのんで法華経を弘めておられる。かの釈尊の姨母いぼ(おばであり義母であった)で仏教史上女性として初めて出家したといわれる摩訶波闍波提比丘尼と、雲泥の違いがあるほど、すぐれておられると、仏は霊鷲山であなたのことを御覧になっているでしょう。
 かの比丘尼は、法華経で成仏の記別を受け「一切衆生書見仏(一切の人人が喜んで仰ぎみるような仏)」という名前を授けられているが、それは別のことではない。苦難に耐えて信心に励んでいる今の妙法尼御前、あなたのことなのですよ――とおほめになっている。
 仏、つまり大聖人から、おほめいただくことが最高の名誉であり、幸せなのである。愚人にはめられることは、人間として最低の姿である。大聖人におほめをいただけるような自分であるかどうか、この一点に信心の精髄があることを知っていただきたい。
28  「願兼於業」とは、妙楽大師の『法華文句記』にある言葉で、「願、業を兼ぬ」と読む。これは、自ら願って悪業をつくり、悪世に生まれて妙法を弘通するとの意味である。
 つまり、仏道修行によって安住の境界に生まれるべきところを、苦悩に沈む一切衆生を哀れむがゆえに、自ら願って悪業をつくり、悪世に生まれて、民衆の苦悩を一身に引き受けながら、仏法を弘通することである。
 戸田先生は、この「願兼於業」を、地涌の菩薩の眷属であるわれわれの、信心の自覚のうえから敷延させ、指導してくださった。それは、私が初めて参加した昭和二十三年の夏季講習会であったが、戸田先生は次のように言われている。
 「われわれは、未曾有の乱世に生まれ、仏の使いとしての使命を果たさんがために、願って凡夫の姿となって、広布に進んでいるのである。どのような立場であろうと、すべて自分が願ってきたのである。そのわれわれが、いっまでも凡夫の姿にとらわれて、じつは仏の生命をもっているのだとの自覚を忘れてしまえば、いま巷間にみられる、あの浅はかな人びとの姿となんら変わりがなくなってしまう」と。
 凡夫であるがゆえに、われわれはさまざまな苦悩にとらわれるかもしれない。しかし、現在の状況がどのようなものであっても、あえてそれを願い、広布に生きるために生まれてきたのである。どうか、その自らの使命を自覚し果たしていく、仏法者としての尊い生涯を生きぬいていただきたい。
29  戸田先生の教えが、いかに鋭く、正鵠を得たものであったかということの一例として、話をしておきたい。
 かつて戸田先生が「佐渡御書」の講義をされたときのことである。御聖訓の「六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし」の一節等を拝して、大要、次のように講義された。
 大聖人が三大秘法の大仏法を広宣流布しょうとして御出現になったときに、大聖人を迫害し、広布を妨害した他宗教の輩がいた。彼らはじつは、インドにおいて釈尊に敵対した六師外道、すなわち六人の仏教外の教祖らが、仏教の内部に生まれてきたものなのである。法然の一類である念仏者、大日の一類である禅宗の者たち等々は、六師外道が形のみ仏教内部の僧となって生まれ、正法に敵対しているのである。
 それと同じ原理で、七百年後の今日、日蓮正宗創価学会が、御法主上人の御指南のもと、大聖人の仏法を広宣流布し民衆を救おうと立つにあたって、大聖人の時代に邪魔をした僧侶や中心的信徒たちが、他宗日蓮宗系の僧侶や教祖となって生まれてきて広布をはばむ。さらに日蓮正宗創価学会の内部に入ってさまざまな仮面をかぶり正法流布の前進を妨害するのみならず、策謀によって撹乱し、正道の人々を苦しめ、魔の所作を行うというのである。三世の生命観に達すれば、そのことがきちんとわかる、と戸田先生は述べられている。
 広宣流布の行動と歴史のなかにあって、戸田先生の指導はほんとうに正しかったと私は思っている。ゆえに戸田先生の教えられた、この三世にわたる退転者の出現の方程式を忘れず、魔の仮面を鋭く見ぬき、悠々と進んでいただきたい。なるほど御聖訓のとおりである。なるほど戸田先生のおっしゃっていたとおりである、と確信の笑顔を浮かべる一人ひとりでありたいものだ。そして、このような仮面をぬいだ人々を見るにつけ、仏法の先見性はさすがである、おもしろい、と心ひろびろと達観していける皆さま方であっていただきたい。
30  ナイチンゲールの事跡については、主に以下の本によった。『ナイチンゲール著作集』(現代社)『ナイチンゲールの生産』(メヂカルフレンド社)『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』(現代社)『クリミアの天使』(学習研究社)

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