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台東広布35周年記念勤行会 厳然たる信念の生涯を

1986.7.26 「広布と人生を語る」第9巻

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2  台東区に地区が結成され、台東広布の起点となったのは昭和二十六年五月である。ご存じのようにこの年の五月三日、戸田先生は第二代会長に就任している。その就任式は、墨田区・向島の常泉寺で行われた。
 それから九日後の五月十二日に、戸田先生は、創価学会常住の御本尊御下付の請願書を、堀米日揮専能師を通じて、総本山の御法主日昇上人に奉呈するため、十人の幹部とともに常泉寺を訪れている。
 そして、五月二十日二戸田先生は幹部四十人とともに登山し、総本山大石寺において、日昇猊下より、創価学会常住の御本尊を御下付いただく。
 常住御本尊の向かって右の方には「大法弘通慈折広宣流布大願成就」、左の方に「創価学会常住」とお認めである。すなわち、この御本尊こそ、現在の学会本部に御安置の御本尊であられる。
 七月十八日、戸田先生をはじめとする数人の最高幹部が出席し、学会本部で常住御本尊の御安置が行われた。
 さらに七月二十二日には、会員千七百人が集い、学会の臨時総会が市ヶ谷の東京家政学院講堂で開催された。それに先立って、日昇猊下の大導師のもと、厳粛に御本尊奉戴式が執り行われたことを、今も忘れることができない。
3  この総会には、堀日亨御隠尊猊下、堀米尊能師、在京の御僧侶方も列席され、日昇猊下、日亨御隠猊下、堀米等能師が特別講演をしてくださった。また、各部長の決意、抱負や、各部の代表の体験発表、弘教の推進者の表彰などがあり、今では考えられないほど盛りだくさんな内容の長時間にわたる会合であった。
 その日、戸田先生は会長講演で、「創価学会の確信」と題して話された。これは有名な、また深い意義のある講演であり、できればそのことについても話をしたいと思っていたが、本日は時間もないので省かせていただく。
 本年は、戸田先生が第二代会長に就任してから三十五周年にあたるとともに、学会本部の常住御本尊が御下付されてから三十五周年を迎えたことになる。また、台東区に地区が結成されて同じく三十五周年にあたり、台東支部結成からは二十五周年にあたる。そこに私は、不思議な時の一致と、大きな意義を感じてならない。
4  さて、常住御本尊が御安置してある学会本部も、現在ではしだいに老朽化し、毎日のように諸会合に使用しているため建物のいたみも激しい。一部には雨もりするところもあった。
 そこで、昨年の学会創立五十五周年を記念して、創価文化会館と学会本部の一、二階の改装工事を行った。しかし、常住御本尊が御安置されている本部三階の「師弟会館」は、昔のままであり老朽化も進んでいるため、常住御本尊の奉戴式の七月二十二日を記念して、思いきって改装することになった。やがて師弟会館も、本部常住の御本尊を荘厳するにふさわしい立派な改装がなされることを、この席を借りてご報告しておきたい。
5  台東の草創の友の功労たたえる
 台東広布三十五周年の意義にちなみ、きょうは台東の広布の歴史について述べておきたい。
 この地の広布の淵源は、昭和二十六年五月、足立支部の浅草地区が誕生したことにさかのぼる。
 初代の地区部長は矢島好造さん。現在は墨田区におられ、今も元気に信心を全うされている。また、息子さんである信男さんご夫妻、娘さんの大木紀子さんご夫妻も地域の第一線で活躍されており、これほどうれしいことはない。
 矢島さんは、台東広布の”一粒種”としで昭和二十三年六月五日に入信されている。このとき、矢島さんを入信に導いた紹介者は、築地支部初代支部長の故馬場勝種さんの兄である故馬場友義さんとナホさんご夫妻である。一方、初代の地区担当員は須能せきさん。現在も台東区内で、支部参与として健在でいらっしゃる。
 なお、足立支部の初代支部長は故藤田建吉さんだが、足立支部では浅草地区に続き、昭和三十年六月三十日には清島地区が結成された。初代地区部長は松本竜太郎さん(現・地区参与)、初代地区担当員は夫人の松本うめ代さん(現・区指導長)である。
 こうした草創の方々の一人ひとりは、台東広布の大功労者である。私も朝な夕な、御本尊に、皆さま方のご健勝とご多幸を深く祈念させていただいている。また、故人となられた方には追善の題目を送らせていただいている。
 昭和二十九年には台東区におられた故小菅義男さんが、文京支部文京地区の地区部長に就任されている。地区担当員は、現在、文京の本部指導委員をされている義母の樋田敏子さんであった。小菅さんは『忘れ得ぬ同志』にも執筆させていただいたとおり、台東区の草創の功労者でもあり、台東の名指導長として、その尊い生涯を終えられている。
 そして昭和三十六年七月二十七日には、区内の初の支部となる台東支部が発足。それから、本年はちょうど二十五周年の佳節を刻むことになる。
 初代支部長は田村山人さん(現・第三板橋区指導委員)、初代支部婦人部長は田村志津子さん(現・全国指導委員)であり、志津子さんはその後、台東の区婦人部長も務めている。
 また、同年十一月二十七日には、浅草支部が結成。初代支部長には浅香長久さん(現・東京第六総合本部副指導長)、初代支部婦人部長には佐野静枝さん(現・文京区副指導長)が就任されている。
 昭和三十二年八月二十八日には、学会に総ブロック制が敷かれ、台東の総ブロック長に小泉隆さん(現・参議会議長)が就任している。小泉さんは和泉覚さん(現・副会長)と並ぶ、学会の”金の柱”ともいうべき立派な大先輩である。
 そのほかに、台東の草創の功労者のお名前を、頭に浮かぶまま申し上げると、まず現在、区指導長の加川悠紀男さん、また区指導委員で元都議会議員の森川清次さんである。今は亡くなられたが耳鼻科医であった佐藤達雄さん、よしさんのお宅には、私もたまたまおじゃましたことがあるが、みな大功労者である。
 さらに台東文化会館の管理者であった故白沢進・たみ江さんご夫妻がおられる。今は息子さんが台東区で副支部長として活躍されている。亡くなられたご夫妻もさぞかし喜んでおられることと思う。
 また、下谷支部の初代支部長、婦人部長は故小倉多七郎・貞子さんご夫妻であった。どの方々も私にとって忘れることのできない同志である。他にも多くの功労の友の活躍によって、台東広布の今日の発展があるのである。
 台東も広布三十五周年の佳節を迎え、現在は七本部、二十六支部、百五十六地区の陣容となっている。これはたいへんな前進であり、画期的な広布の基盤ができ上がったといえよう。
6  師弟共戦の深き線の地
 思えば、この台東の地は、牧口初代会長と戸田第二代会長の師弟の出会いのゆかりの地であった。
 大正九年(一九二〇年)のことである。当時、牧口先生は、この台東区(当時・下谷区)の上野公園に近い西町小学校の校長をされていた。その牧口先生のもとに、北海道から上京して間もない戸田先生が訪れた。その場所は目白の牧口先生の自宅であったと考えられる。牧口先生は四十九歳、戸田先生は二十歳であった。その後、戸田先生は、この酉町小学校に代用教員として採用され、台東の地で教育に情熱をかたむけられたのである。
 なお牧口先生は、この西町小学校の前にも、大正二年には台東区内の東盛(現・東泉)小学校の校長として、また大正五年には同じく台東区内にある大正小学校の初代校長として勤務されている。戸田先生は昭和三十年にこの縁深き大正小学校で行われた台東の決起大会に出席されている。このように牧口先生、戸田先生という人生の師弟は、この台東の地とまことに深いゆかりをもっておられたわけである。
 やがて、牧口先生は西町小学校から、墨田区(当時・本所区)の三笠小学校へ移られる。地域の有力者の策謀による左遷であった。
 このとき、戸田先生もまた、ただちに牧口先生の後を迫って学校を移られている。戸田先生は、牧口先生が行かれるところ、最後は牢獄にまでお供をされた。ここに厳粛なる真実の師弟の絆があるといえよう。
7  古今東西、人間の世界にあっては、策謀はつきものである。まただれ人にも、順風のときもあれば、苦難のときもある。しかし、人を陥れてりこうげに振る舞う人間にだけはなってもらいたくない。
 われわれの世界は信心の世界である。ゆえに、いかに苦しく、つらくとも、厳然とした人生であっていただきたい。信心の世界にあって大切なことは、どれだけ自身の信仰を深め、生命の宮殿を闘いたかであり、また、どれだけ永遠にわたる金剛不壊の幸福境涯を生命に築いたかなのである。
 大聖人が「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ」と仰せのごとく、何があっても朗らかに、悠々と妙法を唱えつつ、前へ前へと進んでいくことが、信心の正しき道である。
 逆に、時代や状況の変化に左右され、ことあらば保身に逃避していくような生き方は、人間としてまことに卑しく恥ずべきものといわざるをえない。
8  台東といえば「上野駅」があるが、牧口先生も戸田先生も、また多くの幹部も地方指導のさいにはいつも利用しているし、私もとうぜん各地に激励に出かけるとき、幾たびもこの駅にお世話になっている。
 古くは、昭和二十九年十一月、そして三十四年四月三日と、私は台東での会合に出席している。当時は会館もなく、いずれも赤沢さんのお宅が会場であった。
 また台東区には蔵前国技館があったが、ここでは、三十二年七月十二日、大阪事件のさいの「東京大会」が開かれている。
 さらに、台東体育館も思い出が深い。会長就任直後の三十五年五月九日に、台東体育館に一万六千人が集って女子部幹部会が行われ、私も出席した。また二十七日には、そこで就任後初の本部幹部会が開催されている。以後、数年にわたり本部幹部会等の重要な会合が行われ、私は何回となく往復したものである。
 その意味で、戸田先生の時代は一般講義等をされた豊島の地から広布の波動が広がったといえるが、私の時代は、台東の地から全国へと、広布の運動と新しき流れが広がっていったといってよい。
9  皆さまにとって、この台東の地は、広布への楽しい思い出を刻む反面、苦難の広布の舞台であったかもしれない。しかし、信心の世界では、もっとも苦労して広布の道を歩んできたところに、大福運と功徳に満ちた栄光の人生と国土が開けるものである。また、そうしたところにこそ、広布開拓の精神に立ったカある若き後経の人材も陸続と輩出されていくことを私は確信している。
 仏法は永遠であり、生命も永遠である。またこの国土世間も、将来にわたって長く存在していく。ゆえに、目先のことにとらわれて落胆したり、自信を失ってしまうようなことがあっては絶対にならない。どこまでも強盛な信心を貫き、希望に満ちて、広布の楽土・台東の建設をめざし、朗らかに明るく前進していただきたい。

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