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日蓮大聖人・池田大作

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第二東京広布30周年記念支部長会 朗らかに広布共戦の歴史を

1986.7.18 「広布と人生を語る」第9巻

前後
1  皆さま方のお力によって、第二東京広布の基盤も盤石にできあがった。今日の広布の大発展を、十年前に予測しえた人はだれもいなかったであろう。これも、ひとえに皆さま方のご活躍とご尽力のたまものであり、心から感謝申し上げたい。本日はお会いできないが支部の皆さま方にも、「ごくろうさま」とのあたたかな励ましをお願いしたい。広布のために活躍してこられた皆さま方のご苦労は、すべて未来永遠にわたり、お一人お一人の福運となり功徳となっていくことを確信していただきたい。また次の後継の人たちが、先達である皆さま方が拓いてこられた広布の道を、さらに広げ、確実に仕上げていってくれることを確信してやまない。
 本日は、ふだんなかなかお目にかかれない支部長、婦人部長の皆さま方とお会いし、一堂に会して第二東京の新たな歴史をつくらせていただき、たいへんにうれしく思っている。これまでのご苦労への感謝の思いをこめ、皆さま方のご健勝、ご長寿、ご一家の栄光と福運を、御本尊にさらに深くご祈念させていただいた。
2  これまで広布のためにわが身を惜しまず奮闘してこられた皆さま方にはゆっくりしていただきたい気持ちでいっぱいである。
 とともに、ともかく日蓮大聖人が「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」と仰せのように、御本尊に唱題しぬいていくこと以外に真実の遊楽はないし、広布への活動に励みゆくことがそのまま最高の喜びなのである。
 他にどんなに遊楽を求めてみたところで結局はむなしいものだ。どんなに楽しいものだといっても、最後は行き詰まってしまうか、疲れてしまうかのいずれかでしかないのである。
 それに対して、御本尊への唱題、そして活動の充実の深さは、どこまでいっても尽きることがない。妙法は無量の法であるがゆえに、そこから、無量の生命力、無量の福運、無量の道を開いていくことができるのである。
 これからも、ともどもにすばらしき人生を飾り、子孫末代まで福運を積み、また自らが住んでいるこの国土世間を広布によって繁栄させていく――それらはすべて、一念三千の当体としての皆さま方の一念に、因果倶時でそなわっていることを知っていただきたい。
 どうか、皆さま方は、朗らかな、また有意義な、第二東京のリーダーとしての”魂の歴史”を立派に残していただきたい。
3  組織の第一線でもっとも苦労されているのは、支部長、支部婦人部長をはじめとする中堅の幹部の皆さま方であると思う。圏幹部や本部幹部からはさまざまな指示もあろうし、また第一線の会員からも多様な意見や要望があり、それらを調整していくだけでも、じつに大変なことである。それだけにご心労も多く、心の中に悩みをかかえておられる方も少なくないと思う。その意味からも、本日はこうした機会を利用し、皆さま方からご質問があれば、お答えしておきたい。
 今後もまた、質問会を折あるごとに開催し、組織の第一線で活躍する皆さま方の疑問や悩みに耳をかたむけ、ともどもに解決方法を考えていく機会を設けたらどうかと提案したい。
4  絵画の道での大成を志す人に、信心とその道での精進の関係について
 芸術には芸術の道がある。医学には医学の道がある。経済には経済の世界の法則がある。ゆえに、それぞれの世界で向上し大成するためには、その世界において良き師、良き先輩について精進していくべきである。信心は、その精進しゆく自己の根本であり、原動力なのである。
 その意味において、信心しているから、しぜんにその道で成功するはずであるというような考えがあったとすれば、大きな誤りである。それは真の信心の姿勢とは関係のない甘えであり、観念論である。信心しているからこそ、人の何倍も努力してもらいたい。また苦労してもらいたい。悩んでいる暇があったら、徹底して描いて描いて描ききっていただきたい。また、題目をあげぬいていただきたいのである。
 さらに友人、同志と会い、切磋琢磨していくことも大切であろう。友人、同志との励まし合いのなかでこそ、力が出るし、境涯も開かれてくる。健康になり、威光勢力も輝いてくる。一人になり孤独になると、どうしても精神的に落ちこみ、弱くなってしまうものだ。
 ともあれ、真正の実力をもった人を、周囲はけっして放っておくものではない。逆にどんなに一時的に人気がでたようでも、ほんものの力がなければ、時とともにしだいにだれも相手にしなくなってしまう。どうか、純粋なる信心を根本に、他人の何倍もの精進で自己の道を極めていっていただきたい。
5  人の見方について
 一つの基準として、多くの身近な人から信頼され、いい人であると愛されている人の場合には、基本的に安心できるといえよう。反対に、一部の人から特別に尊敬されているようであっても、本人をよく知る周囲の人々から信頼をえていない場合には、注意が必要といえるかもしれない。ともあれ、常識と良識の立場に立って、良き信仰人であると大勢の人が認めているか否かが、人を見るうえで大切な基準になろう。
 さまざまな人とのさまざまな経験をへて、しだいに自分自身としての人間の見方が身についてくるものである。また、ときには広布の活動の途上にあって、信頼を裏切られることもあるかもしれない。人間社会につきものの善悪のさまざまな現象に出あうことは、ある意味でいたしかたない。
 しかし、そうした体験を積むことがそのまま、生々世々、リーダーとしての自身の資質を磨いていくことに通じていくし、また悠々たる福運の境涯を開いていくことになるのである。
 支部長、支部婦人部長の皆さま方は、日々、多くの人たちの面倒をみる立場にあってなみなみならないご苦労があると思うが、いっさいは自身の生命の修行となっていることを自覚して、頑張っていただきたい。
6  病気で悩む人に
 医師の診断に任せることはとうぜんだが、自身の願いをひたぶるな唱題にこめ、祈念していくことが何よりも肝要である。御本尊は私ども衆生の主であり、師であり、親である。三徳具備の仏様であられる。ゆえに、その御本尊に、子供が一心に親を慕うようにおすがりし、強盛に祈りぬいていくことである。
 上野殿すなわち南条時光は、二十三歳のとき大病にかかっている。大聖人は時光のために真剣に祈念され、時光自身も生きぬきたいと強盛に祈った。そして、弟は十六歳で他界しているが、時光は五十一年間も命を延ばしたのである。このように、御本尊への信と祈りを根本に、病苦を乗り越え、堂々たる人生を歩んでいただきたい。

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