Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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鳳雛会20周年記念大会 信心はどこまでも峻厳に

1986.7.16 「広布と人生を語る」第9巻

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1  本日は、アジア、オセアニアの青年研修登山会の参加メンバーも出席されている。シンガポール50人、フィリピン9人、インド16人、またオーストラリア21人、ニュージーランド3人の、海外の求道の若人を心から歓迎したい。とともに、鳳雛会の20周年記念大会を、このように盛大に開催できて、これほどうれしいことはない。
2  小説『暖簾』にみる後継の生き方
 昭和三十二年五月十三日(月)――その日は曇であったようである。私の『若き日の日記』には「先生の招待で、妻と私、芸術座へ。”暖簾”……大阪根性の、昆布職人の、一生の歴史劇。一道に徹しゆく、真剣なドラマに、美しき涙を、さそわる」とある。
 この劇は、山崎豊子・原作、菊田一夫・脚色、演出のもので、東京の芸術座で四時間にわたって上演された。商人の道に徹しきった人生道をみごとに描いて、たいへん感銘した劇であったと記憶している。
 小説『暖簾』は、大阪の昆布の老舗・浪花屋の商人、吾平の、十五歳から七十歳近くまでの人生行路をつづったものである。
 吾平は淡路島の出身であり、店の主人に路傍で拾われて丁稚奉公する。古参の老番頭らにいじめられ、虐げられながらも、誠実に努力をかさね、その結果、「暖簾」を分けてもらう。その後も、関西大洪水とか、戦災とか、数多くの苦難を乗り越え、最後はみごとに自分の店を復興させていくのである。
 一面からみれば、平凡な話に思えるかもしれないが、主人公・吾平本人にとっては、波乱にとんだ人生劇であったわけである。
3  小説では、大阪が空襲にあい、船場の吾平の店は焼け落ちてしまう。そのとき、彼は暖簾をはずしてまるめ、両側の軒並みから降り落ちる火の粉の中をくぐりぬけ、必死に逃れている。その以前、浪花屋の本家が類焼したときも、暖簾は真っ先に助け出された。
 こういう意味で、「暖簾は商家の命だった……それだけに生死を賭けても守らねばならなかった」と記されている。私はそこに、暖簾こそ大阪商人の誇りであり、象徴であると深く感動した。
 また主人公の吾平は、浪花屋の暖簾に絶対の誇りと自信をもって商売をしている。それゆえにかずかずの危機も乗り越え、また商人としての正しい道を歩みつづけた。彼は商売の邪道には絶対に落ちなかった。それはこの暖簾があったからである。
 私どもの立場でいえば、創価学会が暖簾であるともいえよう。
 さらにこの小説では、父である吾平の後を息子の孝平が継いでいくところも描かれている。劇においても、父親の、その息子に対する鍛錬がみごとなまでに描かれていた。主演の父親役は森繁久弥であったが、感動して涙を流さずにはいられないほどの、厳しい師弟ともいうべき親子の関係が、みごとに演じられていた。その父親は、死ぬまで、息子が一人前になったとはいわない。しかし、陰では、すばらしい後継者になってくれたと喜ぶのである。
 恩師戸田先生は、当時、すでに体が弱っておられた。そこでご自身では見に行けないので、私ども夫婦に見てきなさいとおっしゃった。私はそのとき、戸田先生のお気持ちが深く感じられた。今でもそのことが忘れられない。
4  とうぜんのことながら、「暖簾」に対する考え方は、父と息子では異なってくる。小説では、店をみごとにもり立てた息子は暖簾についてこう考える。
 「確かに暖簾は商人の心の拠りどころである。武士が、氏、素姓を拠りどころにするように、商人の心構えを決めるところだ。しかし、それがすべてではない。昔のように古い暖簾さえ掲げておれば、安易に手堅く商いできた時代は去った。現代の暖簾の価値は、これを活用する人間の力によるものだ。徐々に、復活して来た顧客の暖簾の懐古に、安易にもたれてしまう者は、そのまま没落してしまう。暖簾の信用と重みによって、人のできない苦労も出来、人の出来ないりっぱなことも出来た人間だけが、暖簾を活かせて行けるのだった」と。
 つまり、暖簾を受け継ぎ、発展させていくには、それにもたれかかっているだけではならない。その暖簾を活用する人間の力、苦労、努力こそが、いっさいの決め手となるのである。
 私は、この話を通し、時代とともに生き、時代をリードしゆく若き指導者である諸君に、後継者としての使命と生き方を示唆しておきたかったのである。
5  日尊にみる師弟の道を貫くことの厳しさ
 次に、次代を担う大切なリーダーである皆さま方に対して、仏法上、もっとも重要な「仏法の師弟観」そして「人生の師弟観」について申し上げておきたい。
 そこで師弟の道を踏みはずした日等の姿をとおして話をすることにしたい。
 日尊については、小説『人間革命』にも少々述べているが、彼は今の宮城県の出身で、少年のころより付近の天台宗の寺に入った。そして日蓮大聖人御入滅の翌年である弘安六年(一二八三年)、初の東北弘教におもむかれた日目上人にお目通りし、入門した。このとき日尊は十九歳、日目上人は二十四歳であられた。また日興上人は三十八歳であられた。
 翌年には、日目上人に随って身延山にのぼり、日興上人に給仕し、勤学した。身延離山の折には、日目上人に随い、正応三年(1290年)、日興上人が大石寺を建立されると、塔中に久成坊を創建している。
 日尊は優秀な僧で、信行は大いに増進したが、青年時代に修学した天台宗学の臭味が抜けきらず、「神天上」の正宗正義に徹しきることができなかった。
 そうした日尊が、日興上人から破門されたのは、正安元年(1299年)の晩秋であった。そのときの状況は、私どもが入信したときよく先輩から教えられたものだが、日興上人が重須談所で講義をされていたときのことである。講義の最中に日尊は、庭の梨の木の葉が秋風に散りゆくさまを、ふとながめていた。その姿を鋭くとらえられた日興上人は「大法を弘めんとする者が説法中に違念を起こし、落葉を見るべき謂われなし。汝、早く座を立つべし」と厳しく叱責され、勘当されたのである。つまり、破門である。仏法の厳しさを痛感せざるをえない。以後、十二年間、日尊の破門は許されなかった。
 日興上人のこの厳しい裁断は、日尊のたんなる放心を戒められてのものではない。日尊の身についた天台の余習をぬぐい去るための御処置であったと考えられる。
 このいきさつについては、『日興上人、日目上人正伝』に明らかである。
 日興上人は、目尊の心の奥底にある、生命の傾向性としての増上慢を鋭く見ぬかれたにちがいない。そのような増上慢の人が、いかに教学にすぐれ、弘教に功績があったとしても、宗門の中心的立場になっていけば将来、大変である。かならずや大聖人の御精神を忘れ、正法正義からはずれて、本人も、またその人についた人も、堕地獄の因をつくってしまう。ゆえに、日興上人の厳しい戒めがあったものと拝察するのである。
 大聖人の仏法を、生活と人生と社会に展開している私ども学会の世界にあっても、日興上人の御教示のごとく、信心の姿勢だけは厳しくとらえていかなければならないと申し上げておきたい。
6  日興上人に勘当された後、日尊は発奮した。東西に奔走して懸命なる弘教にあたった。日尊が化導し、開拓した地域は日本に広くわたっている。たとえば目尊の出身地である宮城県をはじめとして、山形、福島、茨城、栃木、埼玉の各県、および東京というように、かなりの広範囲で折伏行に励んだ。また、岐阜、京都、兵庫、さらには島根県にまで布教の力が及んでいるといわれている。
 そのように、布教に励んだけれども、日興上人はなかなか許されなかった。それは日興上人が日尊の本質を見破っておられたがゆえである。
 応長元年(1311年)、日興上人の御慈悲で御勘気を許された。ときに日尊、四十七歳。日興上人は日尊の業績と反省を大いに喜ばれた、と記されている。
 宗門の大学匠であられた総本山第五十九世の堀日亨上人も、日尊のこうした業績や反省について、擁護された論調を残されているが、その点についてはきょうは割愛させていただく。
7  また、第三祖日目上人は、正慶二年(1333年)十一月十五日、京都への天奏の途中、美濃の垂井で御遷化された。七十四歳であられた。
 この折、六十九歳の日尊は、日郷とともに日目上人にお供している。日尊、日郷は御遺体を茶毘にふし奉り、師の御遺骨とともに天奏の完遂を期して京都に向かった。
 このあと日郷は京都から師の御遺骨をお持ちして大石寺に帰山。日尊はそのまま京都にとどまって天奏の時を待ち、弘教を続けた。
 しかし、日尊はそこまで布教に励み、信心の姿勢を反省したようにみえながら、晩年には造像等の謬義がみられた。”源濁れば流清からず”で、後世の迷乱の端緒ともされる。まことにこわいことである。
 日尊が亡くなったのは八十一歳。その間、大なる功労もあったけれども、最後まで信心の不純な傾向性がぬけなかったようである。このことを通し、純粋な信心、強盛な信心がいかに大事であるかを知っていただきたいのである。
8  日尊の謗法についてさらに述べると、日尊が「神天上の法門」の正義に徹しきれなかった一つの証左として、現在の東北地方にあたる奥州で布教中、日尊が神社参詣を容認すべきであるという説法をしたことが伝えられている。
 これに対して、又六という信徒が、大聖人の仏法の正義に反する説法であるとしてひじょうに憤慨し、御本尊を信奉すべきであって神社参詣は許されるべきではない、大謗法である、と反論した。しかし、日尊もなかなか自説を曲げず、口論になったという。
 そこで、弟の又六に代わって兄・五郎が日目上人に書面をもって、どちらの言い分が正しいかというその裁可を願い出た。日目上人はとうぜん、宗祖大聖人の教えに照らし神社参詣は許されないとして、日尊を厳しく注意されたのである。
 このような場合、教学をしっかり研鑽していないと、だまされてしまいかねない。仏法の正義か邪説かを正しく見極める力は、教学であるからである。
 この事件は、目尊が日興上人より勘当されたあとの出来事であったことを考えると、その勘当の背景には、日尊自身の生命に染まった我見と謗法の一念があったことは明白である。そして、その謗法の心は何よりも彼自身の増上慢から発していたといってよい。
 つまり、そこには、青年時代に天台宗学を修めたという自負があった。”自分は学者である。仏法の知識に関しては、日興上人、日目上人よりも自分の方が上である”という矯慢があった。そのために、日興上人の教学に信順できなかったばかりか、日目上人を軽視さえしたのである。
 退転者の生命の構図というのは、大なり小なり、今も昔も変わるものではない。
 思えば、日興上人は日尊の日頃の信心、行動にひそんでいた騎慢の傾向性を見ぬかれ、心から心配されたのであろう。破門もなんらかの更生の必要性を痛感されたうえでの、厳愛の処置であったとも思える。しかし最後はやはり道を誤ってしまった。日蓮大聖入滅後の五老僧もまた、正信を全うすることはできなかった。
 これらの歴史上の事例は、まことに残念なことではあるが、同時に後世の私どもにとって、貴重な信心の戒めになっているともいえよう。こうした点も、仏法の広さ大きさを示しているともいえるかもしれない。
9  退転者の本質は”傲りの心”
 まことに残念なことに、学会の庭からも、自己流に教義を解釈し、信心の正しき軌道からはずれていった人がいる。そうした退転の徒は、かならず多くの人々に迷惑をかけている。いわば日尊とよく似た生命の持ち主といってよい。
 信心の正道を失い、退転と不信の迷路へと歩みゆく人に共通しているのは、才智には富んでいながら、虚栄と名聞名利の心が強いという点である。信心を形式としてとらえ、広布の第一線での労苦にけっして手を染めようとしない。また、組織のうえで、ただ指導者ぶって尊大である。さらには折伏・弘教に尊い汗を流す会員に信頼と感謝の念をいだかず、自分だけが利口で偉いと思い込んでいる。退転後も、すべてを学会の責任とし、自身の正当性を強弁しょうとする。こうした手前勝手な”傲りの心”こそ、退転する者の本質であることを、ここで強く申し上げておきたい。
10  ゆえに、戸田先生は「信心は峻厳でなければいけない」と、つねづね指導されていた。もし信心の清流に濁りが生じ、学会にも不純な心の幹部が増えていったならば、広宣流布の将来も、また学会の未来も絶望的なものとならざるをえないからだ。
 元来、信心はたいへんに峻厳なものであるゆえに、その厳しさに耐えられず、自分自身の弱さに負け、信心の世界を去る者が出てくるのである。戸田先生は、その点を「同信退転の徒の屍を踏み越えて」(青年訓)と喝破されている。
 私どもの未来には、清浄なる正法を渇仰する何千、何万、何億、何十億の人々が待っているわけである。ゆえに私どもは、少々の退転者の策謀など歯牙にもかけず、全人類の幸福と平和のために、いちだんと力強い広布の前進を期していきたいものである。
11  信心を全うできない人々に、多かれ少なかれ共通するのは、日尊と同じく、わが身が尊しとうぬぼれる「騎慢の心」である。”自分には教学がある”とか、”自分には功績がある”とか、知らずしらずのうちに「慢」の心を育ててしまっている。あるいは社会的地位が高いとか、学歴があるとか、有名人であるとか等、「法」よりも自己の”自負”を根本として純粋な求道心を捨て去った人である。
 そうした世間体の見栄とか知識があるとかということと、正しい信心の深さ、強さとはまったく別次元のことである。これを混同しては絶対にならない。この一点を混同し、また本末転倒してしまえば、いっさいが狂ってしまうからである。近年の幹部の退転にも、この一点に狂いがみうけられる。それを知れば、少々の愚かな幹部の退転など些事にすぎない。
12  たとえば、芸の世界にも峻厳なる「師弟」がある。学問の世界にも厳しき師弟の関係があろう。その他、政界、経済界等、あらゆる世界に、それぞれの師弟があり、それぞれの峻厳な深さがある。先はど申し上げた『暖簾』の主人公と息子の関係も、一つの側面からいぇば、師弟の関係といえるかもしれない。
 かりに仏法と異なる世界において修業するとすれば、そこでは、いくら仏法を知る幹部であるといっても通用しない。その道を一から勉強し、修業していかねばならないのが道理である。
 反対に信心の世界は、世間の学歴とか、地位とか、財産等の次元と、おのずから違うわけである。信心には信心の世界の道があるのはとうぜんのことである。
13  新時代担う指導者に
 鳳雛会の皆さんは、私にとって、私以上に大切な広布の指導者であり、宝であり、いのちである。先ほど浅見男子部長は九州・霧島の研修道場で行われた鳳雛会結成十周年記念大会での私の諸君への期待にふれたが、学会の未来をすべて諸君に託したいとの気持ちは私の心からの叫びである。今もいささかも変わるものではない。
 どうか広宣流布の前進のために、創価学会の将来のために、一人ひとりがそれぞれ立派な広布の推進力となり、指導者となっていただきたい。苦難の道を切り拓きながら、信念の道を歩み通していただきたい。このことを申し上げて、今日の意義ある記念大会の私のスピーチとしたい。

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