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日蓮大聖人・池田大作

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日本、香港、マレーシアの親善合同研修会… 仏法こそ生命、平和、幸福の根源

1986.7.13 「広布と人生を語る」第9巻

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1  本日の日本、香港、マレーシアの青年代表による研修会は、きわめて意義深いし、私は心から楽しみにしていた。
 青年の未来は無限である。青年はこれからの人である。これに対し、壮年、老年は現在の人といえよう。恩師戸田先生も、青年をもっとも大事にしてくださった。またもっとも期待し、厳しくもあたたかく訓練してくださった。ほんとうに偉大な人生の師であられた。
 戸田先生は五十八歳で逝去された。今、戸田先生よりも長く生きた私は、これから青年に焦点をあてて指導し、訓練し、永遠なる学会の未来と、広宣流布の無限の世界を拓いていきたい。
2  戸田先生が宗門で心から尊敬されていたのが、総本山第六十五世の日淳上人であられた。日淳上人が御法主となられる以前からたいそう近しくされ、尊敬しあい、ときに助けあわれながら、今日の広布の基盤を築いてこられたのである。
 日淳上人が御遷化され、『日淳上人全集』が発刊されたさい、次の御法主となられた第六十六世日達上人より、花押のしたためられた全集をたまわった。その全集を私は自宅の机の上に置き、機会あるごとに拝読してきた。
 私自身も日淳上人にはかわいがっていただいた。日淳上人は宗門の碩学であられ、全集に収められた諸論文は若干、難解ではあるが、深い日蓮正宗の法義を展開されたものである。
3  仏法の信受に金剛不壊の境涯
 次に紹介する論文は、日淳上人が二十三、四歳の青年期に書かれたもののようである。私も、大事なところを朱線を引きながら何度か拝読した記憶がある。
 十八、九歳から二十五歳ぐらいにかけての青年期に、どれだけ勉学に励んでいるか。読書をしているか。また、どれだけ教学の研輩に取り組み、信心を深めているか――。若き日に学んだこと、勉強したことはのちのちまで忘れないものである。また、そのときの苦労はすべて未来の財宝となっていくものだ。
 そのことがひじょうに重要な意味をもっている一つの証左として、日淳上人の若き日のお言葉について述べておきたい。
 「転禍来福」と題する論文のなかに「妙法を信じ御本仏の慈光に浴する私達にとっては災難はもう災難でない、短命も尚長命である、不運も不運でない、皆んな仏の慈悲である」との一節がある。
 このお言葉に関連し、思い起こされるのが「我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なになげきか有るべき、きさき皇妃になりても・なにかせん天に生れても・ようしなし」との御金言である。
 この御聖訓に仰せのように、”かならず成仏できるのだ”との強き信心に立ったときに闇、もはや心に何のくもりもなければ、達巡もない。悠々たる広々とした人生の境涯を思うがままに遊戯していくことができるのである。
 たとえ后に生まれようと、それが真の幸福ではない。また天上界に生まれて、物質的、環境的に恵まれ、表面は幸せそうであっても、「天上に生れて五衰をうく」と仰せのように、最後は衰え、滅びてしまうのが常である。
 それに対して、仏法を信受した私どもは、永遠にわたって、絶対的な金剛不壊の境涯で、師子王のごとくわが人生を遊戯しながら生きぬいていくことができるとの仰せなのである。
4  私は幸いにも人生の師である戸田先生のおそばにつねにいたので、何回となく指導をうけることができた。
 そのなかで戸田先生が、よく語っておられた。周囲の人々に信心強盛に仏道修行に励んでいるかのように印象づけながら、要領よく組織のなかを泳いでいる人は、かならず最後は退転するだろう、と。この指導を、私は今も鮮明に覚えている。
 心卑しき人、自己の利害に生きる人、虚栄の人は、はじめは日蓮大聖人の大仏法を信受していても、やがては背信の人となり、反逆していくであろう。また、いわゆる「二乗根性」で、自分は学者である、優秀である、だれよりも深い学識があると思い、増上慢となった人もやがて退転していくだろう、とも戸田先生は指摘されていた。
 さらに、折伏・弘教、個人指導などで苦労することなく、とんとん拍子で組織のリーダーとなっていった人も、増上慢となり、退転しがちなものだ、とよく戒められていた。
 そして、この退転、離反の構図というものは、日蓮大聖人御在世当時も、現在も同じであるように思える、とも語っておられた。
 私も、四十年近く信心をしてきたが、戸田先生のこれらの指導をかみしめ、反復しながら、今日までの広布の歩みをみるとき、たしかにそのとおりであると痛感せざるをえない。
 これまでに残念ながら退転していった人々について、結論していえることは、信心の精髄、人生の師弟を知らなかったということである。
 きょう、選ばれて研修会に参加された若きアジアのリーダーである皆さん方は、一人ももれなくこの信心を全うし、それぞれの国において立派な社会の指導者に、立派な妙法の指導者になっていただきたい。私も、本日、そのことを真剣にご祈念させていただいた。
5  御本尊への祈りが信心の真髄
 先に紹介した文に続いて、日淳上人は「かくいうは理論である。妙法の行者にとって、かようの理論は無用の長物である、堕獄の因である。一心に只仏を祈ること、それでいいのである。行者の願に一としてかなわざるなしとの御金言そのままに仏に祈ればいい、妙法の功力に勝るものがないからである」と述べられている。
 日淳上人は、一心に仏を信じ、祈りきっていく”現実”にこそほんとうの信心があると仰せなのである。
 広宣流布への祈りにせよ、また自身の宿命転換やさまざまな願いを祈っていくにせよ、どんなことでも、ただ御本尊を信じ、びたぶるに祈っていく、その現実にしか信心はない。その実践にすべてがふくまれている。その一点からみれば、他のことはみな枝葉にすぎないのである。
 さらに日淳上人は、結論的にこう仰せになっている。
 「信行は事実である、実在である。されば利益も実在である」と。
 すなわち、ただ一心に御本尊を信じ、祈り、自行化他の実践を行じていく、その信行という「事実」それじたいのなかに、永遠にわたってすべての所願が満足されていくという、福徳に満ちみちた自身の生命を築いているのである。ここに本源的な真の生命の「利益」がある。この利益は、三世にわたって崩れることなき「実在」なのである。
 これに対し、表層の種々の得益がある。たとえば、マイホームができた、健康になった、よき伴侶を得た、会社で出世した等々、それらの現象もたしかに信心の功徳であり、成仏への一次元における大切な証明とはいえよう。
 しかし、仏法の「利益」の真髄、根本的な大功徳とは、そうした「仮有」の現象にあるのではない。永遠にわたり、何があろうと、ただ御本尊に唱題しぬいていくという、その強靭なる信心の「一念」にこそ、真実の「利益」が具足しているのである。日淳上人は、この重要なる信心の精髄を御教示くださっているものと拝する。
6  科学は仏法に包摂
 私は昭和四十年に『科学と宗教』と題し一冊の本を出版した。ありがたいことに多くの人々に読まれた。当時の本を、今朝、久しぶりに読み直してみたが、宇宙観、物理学、生物学、医学等と関連させて幅広く論じたものの、少々、むずかしい論の展開となっているように改めて思った。当時、私は会長に就任して数年後であり多忙をきわめていたため、東大工学部出身の優秀な森田康夫副会長に、とくに私の専門外である科学の分野で多大な応援をしてもらったものである。
 「科学と宗教」のテーマは、人類にとって重大な問題であり、これまでにもさまざまな人によって論じられてきた。その場合、宗教はキリスト教を対象としたものが多いように思う。
 科学も二十年前とは比較にならないほど発展し、生命の深き次元まで探究の光が当てられるなど、科学の様相も大きく変わってきているし、科学と宗教の問題は、人類の未来にとってますます重要なものとなっている。
 そこで私は、宗教を仏法において、再度、「科学と仏法」とのタイトルで、斬新な角度からわかりやすく、三人ぐらいの対話のかたちで、いつの日か論じ、仏法の偉大さを証明する一助とできればと考えている。
7  日淳上人は「科学と宗教」について、次のように論じられている。
 「科学の対象は何んであるかといえばそれは仮有の世界である。仮有の世界は一切世間の一小局限である。それ故此の対象に於て成立する科学は一切世間の一小部門に過ぎないのである。而も仮有の世界は流転の世界である。従て此れを対象とする科学的知識は亦変転を免れない。故に科学に於ては絶対不変の真理というものは考えられない。此れに対して真の宗教は一切世間を対象とする。従てその智は絶対不変である。宗教が一切世間を対象とするというのは、生命そのものを対象とするが故である。宗教と科学との関係は相背馳するものでなく、それは科学が宗教の一小部門にすぎないのである。乃ち科学は宗教の前衛である」――。
 ここに「仏法」と「科学」の関係が明快に述べられている。一般には、驚異的に発達した科学の恩恵にひたりきっているため、ともすると科学がすべてを解決するかのように考えている人も多い。しかし、それは科学時代に生きる現代人の錯覚にすぎない。
8  仏法からみるとき、日淳上人も仰せのごとく、科学は一切世間の一部分にすぎず、科学は仏法に包摂されているのである。科学は、一切世間の一部分である仮有の世界を対象にしたものであり、そこから全体を正しくみていくことはできない。ここに科学の一つの限界があるといってよい。
 仏法は、一切世間、生命そのものを対象としているのである。すなわち、生命に平和と幸福を築き、永遠のものとしていくのが真の仏法である。そのためのリーダーが皆さま方なのである。
 どうか、アジアの、また世界の、若き妙法のリーダーである皆さま方は、末法万年尽未来際にわたる、アジアの平和と繁栄と幸福のための活躍をしていっていただきたい。そのことを、私は心から念願している。

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