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日蓮大聖人・池田大作

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「7・3」記念兵庫の各賞合同授賞式 一歩前進の信心と人生を

1986.6.19 「広布と人生を語る」第9巻

前後
1  恩師戸田先生は、関西広布の舞台にあっては、大阪を中心に指揮をとられた。この兵庫の地はあまり訪問されていないようだ。
 昭和三十一年五月十八日、妙本寺の増築落慶法要が営まれ、その折に戸田先生が兵庫を訪れておられる。
 今は亡くなられたが、当時、妙本寺の御住職であられた長谷部遠海尊師は、ひじょうにお人柄のよい方で、いつも笑顔で、学会員をたいへんにかわいがってくださった。ほんとうにありがたいことであった。私は、先はどの勤行で、長谷部尊師に感謝の思いをこめて追善の唱題をさせていただいた。
 また、私は、戸田先生が兵庫にあまり来られなかったこともあり、恩師に、この地の発展と前進を見ていただきたいという思いが強かった。そこで兵庫の将来の大発展を見通して、私は兵庫の地に戸田記念館をつくらせていただいたのである。
 ともかく兵庫は、関西にあって、もっともユニークにしてダイナミックな県である。大阪の勝利が全関西の勝利へと連動するのは大前提として、私は、これからは兵庫の勝利がそのまま関西の勝利につながっていくと強く思えてならない。
2  母のけなげな信仰をたたう
 「いくさには大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵つわもの臆病なり」の一節を拝していきたい。
 これは有名な御金言であり、これまでも大きな広布の法戦のたびに、かならずといってよいはど皆で拝し、前進の支えにしてきた一節である。
 ”戦いにおいては中心の指導者が「魂」であり、指導者が臆病であれば、そのもとで戦う者もみな臆病になってしまう”という意味である。内容がまことに勇ましい御指南であるため、なんとなく男性に与えられた御文であるような印象をもっている人が多い。しかし、この御文はじつは、一人の純真な信心の婦人に与えられた御手紙の一節なのである。
 ここに深き意義がある。大聖人が一人の「母」のけなげな信心をたたえられ、最大限の激励をされているという、この一点に着目しなければ、甚深の御聖意を正しく拝することもできなくなる。
 幹部が話をするさいには、やはり、なにごともきちんとした裏づけのある話をするべきである。いわんや御書の話においては、その背景や対告衆、前後の文脈等をきちんとおさえ、その真実の姿を正しく拝していかなければならない。これからの時代はとくに、幹部は勉強し、だれもが心から納得できる指導を行っていかなければならない。
3  この御文をいただいた日妙聖人は、現代でいえば婦人部であり、支部婦人部長くらいの(笑い)立場であったかもしれない。あるいは地区かブロック役職かもしれない。鎌倉に住み、寡婦となったようである。彼女は、生涯まことに純粋で強盛な信心を貫いている。
 有名な話であるが、大聖人が佐渡に御流罪になった折には、女性の身でありながら、幼い娘の乙御前をつれて、大聖人をお慕いし、はるばる佐渡まで訪れている。
 大聖人は、その深き求道の信心をたたえられて、彼女に「日妙聖人」という尊号を与えられ、激励されたのである。しかも「聖人」という尊号は、数多くの大聖人の弟子檀那のなかにあって、まことに稀有なことである。南条時光殿に対しては「上野賢人」と仰せになったが、「聖人」の号はさしひかえられている。
 弟子檀那の方々のなかには、たとえば富木殿であるとか、四条金吾殿とか、社会的地位もあり、経済的にもより豊かな檀那の方々もたくさんいた。しかし、大聖人が異例の「聖人」号を授けられたのは、夫もいない、平凡な一人の母にであった。純真な信心を貫く母と娘を、これほどまでにと思える大慈大悲の御心で激励され、守られ、その信心をたたえられて
 「聖人」と呼ばれたのである。この事実を深く銘記していかなければならない。
4  また、日妙聖人は、佐渡から鎌倉に帰るとき、旅費が足りなくなってしまったとも伝えられている。よほどの決意で佐渡に旅立ったのであろうか。大聖人は、配所の一谷入道に事情を話し、帰りの旅費を立て替えてもらった。そのさい、大聖人は、入道に法華経一部を与えるという約束をされたが、入道は念仏への執着を捨てきることができなかったため、のちに大聖人は法華経を、妙法を信じていた入道の老母に持経として与えられたという話も伝わっている。
 ここにも大聖人が、あくまで純粋な「信心」を基準としてすべてを御覧になり、行動されていた例証がある。
 黙々と地道に、世間から何といわれようと、広布実現のため信心の活動に熱心に励み、粘り強く広布を支えた人が、やはり自分も支えられ、最後は立派な成仏の生命となっていることも、私が三十数年間見てきた厳然たる事実である。
5  信心の賞を授与する意義
 なぜ私が「SGI文化賞」、「創価教育栄光賞」、「聖教文化賞」等の賞をさしあげる儀式に出席しているか、その意義について申し上げたい。
 かつて正法を護持し弘教を進める私ども創価学会にあっても、恩師戸田先生は、折伏を推進した人、広布のゆえに法難にあった方々に対し、鶴のマークの金、銀、銅製のメダルを作ってその功に報いるために授与されたのである。
 国家から勲章をもらう人もいる。それはそれで価値あることにちがいない。しかし、それは限られた特定の人々のことである。ましてや最高の広宣流布という大目的のため日夜尽力されている無名の庶民こそ、賞讃に値するとはいえ、受けてきたものといえば、つねに世間の非難であり、迫害であった。そうした洞察のうえから”せめて、御本尊に照らされての真心の賞をさしあげたい”というのが、戸田先生の過言だったのである。
 皆さま方は多くの難を乗り越え、今日の大発展の基盤をつくってくださった大功労者である。できうるかぎり、多くの方々にさしあげたいと本部では考えている。しかし、数には限りがある。ゆえに、全会員の代表として、本日も各賞をさしあげる儀式となったことを、ご了解願いたいと思う。
6  アメリカの詩人ヨワキン・ミラーは「かつて戦われたいちばん勇ましい戦いが、どこでいつ戦われたかをお話ししましょうか。世界地図を探しても、あなたはそれを見つけますまい。それは母たちによって戦われた戦いなのです」と言った。
 私は、この言葉がほんとうに好きだ。歴史のページをめくれば、ワーテルローの大会戦や日本海海戦、あるいはノルマンジー上陸作戦など、数限りない”戦い”の歴史がある。しかし、人類の生存と輝かしい発展のためにもっともすばらしき”戦い”を、営々とくり広げてきたのは、偉大なる「母たち」にはかならない。このことを、この詩人はみごとに表現していると思うのである。
 母たちの戦いは、けっして戦績としては残らない。しかし、これほど尊き”戦い”の歴史は、ほかには絶対に存在しなかった。
7  広布の歴史においても、またそうであったと、私は確信している。悩める友のため、さらには人類の崩れぬ平和と幸福のために、今日までだれよりも懸命に、また漠々しく戦ってこられたのは、尊き使命に生きぬく「母」たちにはかならなかった。その意味で、今日の永遠にわたる広布への黄金の土台を築き上げたのは、平凡にして偉大なる「母」であり、「婦人」であったことを、私は最大の敬意をこめて申し上げておきたいのである。
 壮年のなかにも”私だって戦った”という人がいると思う。(笑い)しかし、それはそれとして、「母」たちの戦いは毎日であった。また今も毎日である。弘教にせよ、新聞の購読推進にせよ、広布の前進につねに先駆の土台を築いてきたのは婦人の方々であるという事実を申し上げたいのである。
 ゆえに私は、全人類の「母」たち、とりわけ広布に生きゆくわが学会の婦人部の方々を心からたたえたい。そして可能ならば、そのような方々全員に、なんらかの「賞」をさしあげたいというのが、私の心情である。
 ともあれ、婦人部の方々の大功績は、なによりも御本尊が御照覧くださっている。三世永遠の因果の理法から、皆さま方が無量の大功徳に浴しゆくことはまちがいない。このことは日蓮大聖人が「聖人」の尊称を、一婦人に与えられていることからも明瞭である。
8  苦難に動じぬ賢者に
 終戦後、森ケ崎(東京・大田区)に住んでいたころ、小学校、中学校で夏季学校が開かれており、私もそこで教室を担当するようにいわれた。そのとき、よく話をしたのがベートーベンについてであった。
 私は、ベートーベンがたいへんに好きであり、ベートーベンに関しては、たいていのことは知っていた。教室での反響も大きく、「ベートーベン先生」と呼ばれたことを覚えている。
 そのベートーベンが「賢者の証」ということについて語っている。
 「苦難の時に動揺しないこと。これは真に称讃すべき卓越した人物の証拠である」と。
 私も、まさにそのとおりであると思う。学会の近年の歩みをふり返っても、さまざまな苦難があった。裏切られもした。うそもつかれた。策略もあった。侮辱も受けた。
 しかし、御本仏日蓮大聖人、また当時の門下の方々への迫害、弾圧を思えば、私どもの苦難など、とるにたらない苦しみであると、私はいつも思っている。だれも牢に入ったわけでもない。島流しにあったわけでもない。ましてや殺されたわけでもない。みな家に帰って、いつも食事をし、ときには悠々とテレビを見ている。(笑い)それだけ広布の環境がととのったわけである。
 私どもが受けた非難、苦しみは、すべて抄とつの試練であり、信心を試されているといえる。
 大聖人も、御書の随所で、正法流布に邁進するならば、さまざまな迫害、非難をこうむると仰せである。また「それを喜びなさい」とも仰せである。さらには「その人は賢者である」と御指南くださっている。
 法華経のゆえに、広布のゆえに非難され、迫害されることは、なにも恥ではないのである。大聖人がお見通しであるからだ。
 御書に仰せのとおりであるがゆえに、私は動揺したことはない。皆さまもまた、そうであっていただきたい。これからも一生涯、今日までの大福徳をけっして崩すことのない、強き信心の人生であることをお願いしたいのである。
9  「進まざるを退転」を銘記
 経王殿御返事に「師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり」と仰せである。
 今、この「前三後一」の法理を、私どもの実践にあてはめて考えてみると、これまでの学会の広布の前進も、前へ三歩、後二歩という慎重な姿勢での戦いであった。
 ある学者が、学会が後退していると、かならず次に大きく前進する。たしかに「前三後一」のすがたであると述べていた。
 皆さん方の人生においても、やはり「前三後一」のいき方であっていただきたい。信心もまた同じく「進まざるを退転」ということを銘記していただきたい。
10  フランスのサン=テグジュペりは、一九〇〇年生まれの作家で、四十四歳で亡くなっている。彼の著作『星の王子さま』はとくに有名だが、彼はフランス民間航空の開拓者でもあった。
 あるとき彼は、リビアの砂漠に不時着する。四日間、飲まず食わずで炎暑のなかをさまようが、奇跡的に生還する。そのときをふり返って、彼はこう言っている。
 「そんな時、僕らを救ってくれるのは一歩前へ踏み出すことだ。そしてもう一歩。同じその一歩をいつまでも繰り返すこと以外にはない」と。
 われわれもさまざまなところで行き詰まるときがある。広布の戦いにおいても行き詰まるときがあろう。それぞれの人生にあって、また事業や仕事や家庭にあっても、行き詰まることがある。そのときにこそ”もう一歩、唱題に励もう””もう一歩、信心を強めよう””もう一歩、人生を鍛えよう”との決意をもっていただきたい。その”もう一歩”との前進があるかないかによって、将来が大きく開け深まっていくかどうかが決定していくことを深く心に刻んでいただきたい。

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