Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「7・3」記念勤行会 「永遠の都」「永遠の平和」のために

1986.6.13 「広布と人生を語る」第9巻

前後
1  かつて戸田先生から『永遠の都』という小説を「大作、この本を読め」と言われて手渡された。それは、忘れることのできない師弟の大きな思い出となっている。
 仏法には「本有常住の寂光の都」という、すばらしい、また深い教えがある。私どもは「立正安国」をめざしている。「永遠の都」といっても根底に大仏法がなければ永遠とはならない。仏法という三世にわたる永遠の大法のうえに、現実の地域に永遠の人間共和の社会をつくる。世界に三世永遠にわたる平和を築く――これが、私どもの運動であり、仏法という
 確かなる法に則った運動なのである。
2  この本の著者であるホール・ケインは、正規に受けた教育は小学校だけで、それも中途退学したといわれる。十四歳で建築事務所に勤めるが、たいへんな勉強家であった。暇があれば公立の図書館に通い、多くの本を読み、やがて小説を書いた。その代表作が『永遠の都』である。
 小説の舞台は一九〇〇年である。一方、われわれのめざす舞台は二〇〇〇年であるから、ちょうど百年違いであり、私はひとつの時の符合を感じている。
 当時のイタリア王国は、ヨーロッパ列強諸国の影響下にあって、人々の生活も極度に疲弊していた。そこに若き革命児ロッシが登場する。新しい社会の理想に「人間共和」の旗を高々と掲げ、邁進する。戦いの相手は時の権力である。その暴政にロッシは敢然と挑戦するという話である。
 この本を読んで、私どもも「立正安国」のために生きぬこうと、若き熱情をたぎらせて広布に邁進してきた。そして、今日の創価学会の基盤をつくってきた。
 だが、そうした友のなかにも、退転し、広布の陣列から離れていった人もいた。また社会のなかで疲弊し、信心の喜びを失っていった人もいる。しかし、また再び若いカが新しい広宣流布の波となり、時代の潮流となっていることを私はよく知っている。
 ロッシは暴動を扇動した罪で投獄されかかったが、ロシアへと脱出、亡命した。彼の無二の親友ブルーノは捕らえられ、拷問につぐ拷問を受けた。しかし、ブルーノの信念は微動だにもしない。
 私は、すばらしい同志愛であると感嘆した。
 私は、当時、戸田先生がなぜこの本を読むように言われたのか、よく理解していたし、そのとおり今日まで前進してきた。広布の途上、たとえ裏切られようとも、どこまでも、師と同志を裏切らず、永遠三世の都を築く旅を進めてきたつもりである。
3  そして、独裁者ボネリ宰相は、ブルーノに、親友のロッシは妻と通じているとニセの手紙を送り、裏切らせようとはかる。しかし、ブルーノは最後の最後まで同志を裏切らない。ロッシを信じて、「ロッシ万歳」「ロッシ万歳」と叫び、革命の達成を心から確信して死んでいった。
 一般の世界でも、このような友情がある。まして仏法の世界にあって、同志を裏切ることはあまりにも卑しい。
 ついにボネリ政権は倒れた。亡命先から帰ったロッシは、国王から首班の指名を受ける。そして生死を誓った親友ブルーノの夢見た「人間共和」いわゆる「永遠の都」建設への扉を開くところで小説は終わる。
 ローマはたしかに歴史の舞台であったが、われわれの広宣流布は、世界が舞台である。百年前の『永遠の都』の舞台より、はるかに大きくやりがいのある壮大な舞台であると確信する。
4  「7・3」と代々の会長
 牧口初代会長が広宣流布のために軍部政府の不当な弾圧によって殉教された入獄の日は昭和十八年七月六日。静岡県伊豆の下田で逮捕された。当時七十二歳。逮捕の時間は早朝の六時ごろであったといわれている。そして牧口先生が獄中で逝去されたのが昭和十九年十一月十八日。七十三歳であった。
 牧口先生は七十二歳の高齢であられたが、時の権力と敢然と戦い、獄中に赴いても毅然としておられた。
 いわんやまだ三十代、四十代、五十代と年も若く未熟な身でありながら、信浅くグチをこぼしたりして退転していく姿を目の当たりにすると、なんと情けないことかと私は思わざるをえない。そういう人は学会にいる必要はない。たとえいなくとも、広宣流布の前進になんら支障はないと私は断言しておきたい。またつねに戸田先生もそういっておられた。
5  戸田第二代会長が入獄されたのも、牧口先生と同じく昭和十八年七月六日。東京・港区の白金台の自宅で逮捕された。それは朝の六時ごろで、当時四十三歳であられた。そして戸田先生の出獄は昭和二十年七月三日、四十五歳のときであった。
 その日を記念して「第二代会長戸田城聖先生出獄記念日」を設け、広布の未来を開いていく一つの象徴としたのである。創価学会にはほかにもいくつかの記念日があるが、広布の節目、また信心の歴史の一つの道標として、戸田先生の出獄記念日を設定したわけである。
 また、戸田先生が牧口先生の逝去を牢獄で初めて知ったのは、昭和二十年一月八日であり、牧口先生の逝去後五十二日目であった。このときの模様は小説『人間革命』に轟々書いてあるとおりであり、ここでは略させていただく。
 さらに、私にとっても「7・3」は、不思議な時のめぐりあわせを感じる。それは、昭和三十二年四月、大阪で選挙の支援をしたさい、真剣さのあまり、また不慣れのためか、選挙違反者が出た。そこで私に、思ってもみなかった選挙違反の容疑が及んだのである。私は同志の罪を消したいし、獄中の苦労もともにしのびたいと御本尊に真剣に願った。そして逮捕
 されたのが、同年七月三日である。二十九歳であった。
 大阪府警に出頭する前日、私は、炭労問題のため北海道の夕張大会に出席し、三日に札幌から空路、大阪に向かった。途中、羽田空港に寄ったが、そのときお体のすぐれなかった戸田先生がわざわざ来てくださり、激励をしてくださった。そして夕刻、大阪府警に入ったのである。
 この件の詳細は、別の機会にお話ししたい。戸田先生にご心配とご迷惑をおかけしたが、七月十七日午後零時十分に出獄した。出獄後すぐに私は、戸田先生が大阪空港に着かれるのでお迎えに行った。のちに、当然のことながら裁判では無罪であった。
6  師弟の道に学会精神
 とうぜん、仏法の師は代々の御法主上人であられる。それを大前提として、創価学会には、人生における「師弟」が厳然と存在してきた。牧口先生と戸田先生との師弟の相対、戸田先生と私との師弟のつながり――これが厳然とあったがゆえに、今日の学会の発展があったと、深く確信している。この学会の根本精神は、いかなる時代になろうとも、また、いかなる”ためにする”非難があろうとも、絶対に忘れてはならない。
 学会に貫かれた人生の師弟の精神をないがしろにしては、結局、広布と信心の精神がわからなくなり、自らの保身、名聞名利に流された活動になってしまう。そこからは学会員を手段として、自らの栄誉栄達、名聞名利をはかっていこうとの信心の濁流が出てくるからである。この点だけは、厳しく戒めていかねばならない。
7  そこで、昭和五十一年の北海道・札幌市での本部総会でも申し上げたことだが、学会における人生の「師弟」の重要性に言及された総本山第六十十五世日淳上人の御指南を、再び確認しておきたい。
 日淳上人は、たいへんに立派な方であられ、戸田先生も深くお慕いし、尊敬申し上げていた。戦時中、宗門が文部省宗務局より身延派との統一を迫られたさいにも、日淳上人は身延派との合同を断固拒否し、当時の庶務部長として、僧俗の団結を固め、一身をなげうって正法正義を護り通された。まことに信念固き、偉大な方であられた。
 戦後、戸田先生ならびに学会の活動についても深いご理解を示され、かずかずの御教示をされるとともに、戸田先生を一貫して守っておられた。
 また戸田先生も、日淳上人を心からご尊敬し、終始変わらず宗門外護に徹しておられた。
 私は、こうしたお二人の姿にふれ、牧口先生を戸田先生の「人生の師」とするならば、日淳上人こそ戸田先生の「仏法の師」であられたと思う。
 また、この間の麗しい僧俗一致の姿があればこそ、今日の宗門の盤石な基礎と、学会の不動の基盤がつくりあげられたことを、強く銘記しておきたい。
8  日淳上人が御遷化されたのは、昭和三十四年十一月十七日のことである。享年六十一歳であられた。
 その前日、つまり十一月十六日、日淳上人からのお話で、当時総務であった私と小泉理事長(当時)が、猊下にお目通りをえ、約二十分間にわたり甚深のお話をうかがうことができた。そのときの御案内を故柿沼総監と現在の早瀬日慈重役がしてくださった。そのさい、猊下から「戸田会長の広宣流布への熱誠と志を継いで、宗門興隆に今後も尽力してほしい」とのお言葉を頂戴した。また、日達上人への御相承の旨もお伝えくださった。
 その翌日――日淳上人は御遷化になった。前日、お元気なようすであられた猊下の御遷化の報に接し、急ぎ御自宅へ参上したことを、今も忘れることができない。
 今日にいたる僧俗の基盤がこのようにして築かれてきたことを、未来永遠にわたる僧俗和合のために心の奥深くわきまえていただきたい。
9  日淳上人は学会の本部総会には、すべて出席してくださるほど学会を大切にしてくださった。とくに戸田先生亡き後は、心から学会を守りに守ってくださった。さまざまな御指南、また御講演をされ、激励してくださったことを、私は最大の感謝の思いとともに深く記憶している。
 学会の発展の理由について日揮上人は、こう仰せになっている。
 「今、創価学会の発展が何を意味するものかと申しますれば、現今の世人が一様に心の底に求めているものが学会によって与えられたという事と考えられるのであります」「今日の国家社会を見ますれば恰も根無し草の様に波の上をただよう如く混乱し全く国民は依拠を失い迷っている状態なのであります」「然るに創価学会は、この求めるものを適切に考え、求めるこの世人の心を満たして行く、これが、学会の世人に受け入れられて行く所以だと思うのであります」と。
 すなわち、生活のうえに、現実社会のうえに、また家庭のなかに、そして人々の人生観のうえに等々、どこまでも具体的に、人々の「心」と人生をどう満たし解決していくか。ここに日蓮大聖人の仏法の重大な目的があり、信心の根本的意義がある。日淳上人は、この一点に学会は焦点をあててきたがゆえに、人々の「心」をとらえ、発展したと仰せなのである。まことに鋭い達見であると拝する。
 これに対し世間には、折伏の修行が、なにか相手の人格を香足し、あたかも信仰を強制するかのような見方があるが、本質を見誤った、まことに浅薄なとらえ方といわざるをえない。
10  さらに、「師弟」の関係について、まず天台の立てた三種の教相のなかの第三の教相である「師弟の遠近不遠近」に関して、上人はこう仰せになっている。
 「世の中は教える者と教わるものとの関係が一番大切でございます」「これを中心として世の中を判断していくことが、一番肝心要であって、これを拡げて説かれてあるのが、法華経の中の第三番目の教相になっておるのでございます」「師匠と弟子との、この関係において、一切を律してまいる、これが学会の中心のたて方になっておるのでございまして、これは誠にこの法華経精神のその精髄を得ているものと私は常に感じておるのでございます」と。
 これは、御法主上人のお言葉であり、永遠に変わらぬ仏法の真髄、法華経の精神を教えてくだきっているわけである。日淳上人が御教示してくださったとおりの信心を根本とした、牧口先生、戸田先生という人生の「師弟」の絶大なる勇気があったればこそ、なにものをも乗り越え、今日の学会の大発展があったことを忘れてはならない。
 また、上人は、こうも仰せになっている。
 「師匠の命は厳重である。弟子は恐々としてこれに応える、というのが、日蓮大聖人様の信仰の骨髄をなしているのでございます」、また「師を信じ、弟子を導く、この関係、これに徹すれば、ここに仏法を得ることは間違いないのであります」と。
 いうまでもなく、仏法の師は歴代の御法主上人である。しかし具体的な人生の師弟の関係がある。その人生の師弟の道の延長として、師弟相対のうえに仏法を学んでいく。そうでなければ仏法を得ることはできない。これが日金上人の仰せなのである。
11  上人はまた「創価学会が何がその信仰の基盤をなすかといいますと、この師匠と弟子という関係において、この関係をはっきりと確認し、そこから信仰を掘り下げてゆく、これが一番肝心なことだと思う。今日の創価学会の強い信仰は一切そこから出てくる。戸田先生が教えられたことは、これが要であろうと思っております」と仰せられている。
 牧口先生と戸田先生の師弟の道を、これほどまでにたたえられ、最大限に宣揚してくだきっている。これは私どもにとっての最大の誉れであるといってよい。
 私どもは、今後も、なにものをも恐れず、この御法主上人の仰せを胸に刻み、御指南どおりの仏法の道を勇んで歩み通してまいりたい。
 私は、日淳上人に何回もお目にかかった。私の御授戒も日淳上人であられた。たいへんに厳格で、筋道を通される一方、また心の優しいあたたかい猊下であられた。
 その日淳上人が昭和三十二年十一月八日の第十七回秋季総会で「末法のはじめ一千年がようやく、尽きようとしている今日、釈尊の仏法は終えんをつげ日蓮大聖人の仏法、大日法が、世界に流布することは、釈尊の予証でございます。この予証を真実ならしめるところの、一閻浮提広宣流布を着々と実践されておりまする創価学会のこの活動はまた釈尊の経典を、真実ならしめるものであると私は思うのです」とお話くださった。このことも忘れられない。
12  仏法は社会、生活のなかに
 アメリカでも現在、多くの予言者や教祖が出て、新宗教が現れている。これは、高度に物質文明を発達させた大国であるアメリカの一つの象徴であろうかと思う。つまり、たくさんの宗教が現れては消えていくという様相は、人々が心の奥底では物質的な幸福よりもっと深い、さらに根底的な永遠なる幸福と、人生の揺るぎない満足と納得を求めている一つの証左にほかならない。
 では、なぜそうした新宗教がアメリカをはじめ多くの国々のなかに根づかないのか――。教義の問題は別として、結局、自分たちの宗派を広げることのみ熱心で、教団じたいがいたずらに社会から遊離し、一つの閉鎖集団となってしまっているところに帰因していると私は考える。そして、教祖だけが特別な存在で、弱い立場にある信者を睥睨している。これでは、広範な民衆の支持を得ることはできない。
 その点において、過去に仏教をはじめイスラム教、キリスト教といった世界宗教は、何よりもまず民衆の生活から出発し、現実の社会と融合しつつ、そこを基盤としてきたがゆえに、今日にいたるまで命脈をたもち続けてきたわけである。
13  日本においても近年、多くの新宗教が現われているが、社会から遊離して、現実生活のなかに根づいていないのが実情である。
 これに対して、創価学会では、「一切の法は皆是れ仏法なり」の仰せに基づいて、信心即生活の実践を貫いてきたのである。一人ひとりが、職場、社会にあっても「みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ」との御聖訓のままに、信心を根本として仕事をし、生活してきたのが、わが学会の伝統であった。
 宗教は、けっして社会から遊離し、孤立したものではない。また、現実からかけ離れたきらびやかな空想論を説いたものではない。私どもは、つねに”人間のなかへ””生活のなかへ””社会のなかへ””民衆の悩みのなかへ”と、仏法の正しい法に則りながら、確固たる現実に根をおろして進んできた。そのゆえに、崩れざる発展の歴史を築くことができたのである。これこそ、宗教の肝要であり、大慈大悲の大聖人の仏法のあり方である。とともに、学会精神の精髄であると私は信じたい。
14  どうか、皆さま方は”永遠なるわが信心と幸の城”をそれぞれご一家で築いていっていただきたい。そして、永遠なる法のうえに、すばらしき人生を築きつつ、私どもの住んでいる国土を「永遠に崩れざる都」となし、また価値あるものに、理想的なものへとめざしていかれるようお願いし、本日の私のお祝いの言葉とさせていただきたい。

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