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日蓮大聖人・池田大作

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千葉県本部長会 広宣流布の覚悟は「勇猛心」

1986.6.8 「広布と人生を語る」第9巻

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1  まずはじめに、本日の集いを記念して、次の歌を壮年部、婦人部、青年部の代表に贈らせていただく。
  大聖の 万年照らす 宣言の
    千のはなさく この地尊し
  
  今世にて 人華の薫る 無上道
    楽しく歩めや 幸の仲間と
  
  天と海 元初の光彩 千葉の地に
    広宣流布の 虹をつくりて
 皆さま方が、いかに日夜、広宣流布のために活躍され、繁多な日々を送っておられるかは、私はよく知っているつもりである。なによりも、御本仏日蓮大聖人がすべて御照覧くださっていることはまちがいない。法のため、仏のため、広布のために活躍していくことは、御書に照らし、経文に照らして、無上の人生を歩んでいることになり、人間として最大の誇りである。これほど尊く、すばらしい人生はないことを確信していただきたい。
2  さらに、皆さま方は、本部長あるいは圏長、県長としてそれぞれの組織のリーダーの立場で活躍しておられる。リーダーの立場は、汽車でいえば機関車にあたる。組織の人々の存在は、その後に続く客車にもたとえられよう。
 機関車は、一番先頭で風を切り、正しい軌道をぐいぐいと客車を引っ張っていかなければならない。機関車のエンジンが弱く、牽引力が強くなければ、客車を目的地に導いていくことはできない。
 ましてや、五濁悪世の社会にあって、御本仏日蓮大聖人の大仏法を広宣流布していくわれわれの法戦は、なみたいていの精神力、決意ではできないものだ。
 戸田先生はよく私どもに言っておられた。――大勇猛心、大闘争心なくして広布はできない。これがまた、学会の精神なのだ。日蓮大聖人から最大に称讃され、大功徳を受ける資格のある人は、この大勇猛心で進んだ人である、と。
 これが戸田先生の一貫した精神であった。私も、この精神のままに広布に走ってきた。
 思えば、もったいなくも大聖人御自らが、一切衆生の救済のための、大闘争の御生涯であられた。あらゆる邪宗教からの迫害のなか、末法万年尽未来際への広布の道を開いてくださったのである。
 大勇猛心が大聖人の御精神であられた。それが大聖人門下たるものの精神であった。また、大闘争心が学会の精神であった。であるならば、大聖人の門下として、また日蓮正宗創価学会の勇者として、広布に進みゆく私どもは、法戦にあっては、この大勇猛心、大闘争心を絶対に忘れてはならない。
3  どこまでも民衆のための仏法
 千葉の地名は「千葉の蓮華」に由来するといわれているが、この千葉が日蓮大聖人御聖誕の地であることは、まことに不思議といわざるをえない。また総本山大石寺のある富士の山は、その古名を多宝富士大日蓮華山という。これも不思議である。いま、御本仏が御聖誕されたこの千葉の天地で、妙法流布に活躍されている皆さま方もまた、まことに不思議な縁であるといえよう。
 大聖人は御書のなかで自らの御出生について「貧窮下賤の者」として生まれたとか、「旃陀羅が子」であると述べられ、当時、最下層の人としてしいたげられてきた”民が子”として誕生されたことを、くり返し強調なされている。
 久遠元初の自受用報身如来を御内証の境地とされる末法の御本仏が、なにゆえに、そうした立場にお生まれになったのか――。これには、まことに重大な意義がある。なにより末法下種の法華経の行者にはかならず「三類の強敵」が競い起こることが経文の予言であり、そのことがまた、大聖人こそ御本仏であられることの証明となる。かりに大聖人が、国王とか、上流の貴族や尊貴なる門閥に御出生されていたならば、身命に及ぶほどの「三類の強敵」も起こりえなかったと考えられる。
 大聖人が何の権力も財力もない ”下賎”のお生まれであられたがゆえに、人々が軽侮し、大聖人を亡きものにせんとする迫害、降魔が容赦なく競い起こったのであり、そのことによってはじめて、勧持品をはじめとする法葦経の予言が証明されたわけである。もしも大聖人の大慈大悲の忍難の御生涯がなければ、八万法蔵といわれる釈尊の仏法は、すべて虚妄となっていたことになる。
4  かつて日本真言宗の開祖・弘法について、彼が著作のなかで「いわゆる旃陀羅悪人なり。仏法と国家の大賊なり」云々(原文は漢文)と述べていることが報道され、その差別意識が大きな問題となったことがある。この文章についての解釈はさまざまであるようだが、彼が「旃陀羅」と呼ばれ虐げられてきた人たちを蔑視し、価値のない悪しき存在と見なしていることは確かであると思う。
 宗教にせよ、政治にせよ、民衆を蔑視する指導者は多い。しかし現代は、もはや民衆をぬきにしては何もできない時代である。政治も経済も教育、文化等々も、すべて民衆が主役の社会となってきている。民衆を軽んじ、侮蔑していくような指導者は、まったくの時代錯誤の存在であるといわざるをえない。
5  これらの指導者に対し、大聖人は自らをもっとも貧しく卑しき生まれであると、述べられているのである。
 大聖人御在世の鎌倉時代は武家政治であり、専制的政治であった。日本の国は、その後もまた独裁的、国家主義的政治や軍国主義等の時代が長く続いた。しかし大聖人は、七百余年昔の武家政治の時代に、「民衆がもっとも大切である」「庶民がもっとも大事である」「人間こそいちばん根本であり尊厳なのである」と強く訴えられたわけである。
 すなわち、どこまでも「人間」が「主」であり、世間的位階とか国家とかは「従」の問題である。この徹底した人間尊重の哲学と、民衆を抑圧する社会的権威と対決された御精神の一点のみを拝しても、日蓮大聖人がどれほどまでに庶民の絶対の味方となって、人々を救い、成仏へと導き、守ってくださる、まことにありがたき大慈大悲の御本仏であられるかを知ることができる。
6  そのうえ、大聖人は「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ」と仰せになって、御自身の内証の御境界を一幅の御本尊にしたためられ、末法の一切衆生にお通しくださった。全人類を永遠に照らしゆく大法である人法一箇の「久遠の妙法」を、だれもが目のあたりに拝し、その無量の功徳に浴していけるようにしてくださったわけである。このことの甚深の意義もまた、時代の進歩とともに、いよいよ明らかになり、証明されていくものと信ずる。
7  他宗や学界において大聖人の「三大秘法抄」についての真偽論争が古くからたえず行われてきた。しかし、数年前、文部省の統計数理研究所が、コンピューターを使って文法的特徴や使用単語の特徴などを分析したところ、大聖人の御真作にまちがいないとの判定結果がでた。このことは、新聞に報道されたのでご存知の方も多いと思う。
 大聖人の御書をコンピューターで判定するということはおそれ多いことであり、また、それのみで真偽が論じられてはならないが、時代に即応したかたちでもはっきりした証明がなされて、私はたいへんうれしく思ったしだいである。
 かつて、総本山第六十六世日達上人にお目通りした折、同抄の真偽の疑難について種々、御指南をいただいたことがある。そのさい、さまざまな角度から御真作である旨、仰せになられたことが、今は懐かしい思い出である。
 「三大秘法抄」が大聖人の御真作であるとすれば、それを俵文として、これまで社会に「立正安国」の活動を展開してきた創価学会の実践が、大聖人の御精神に照らして正しかったことが証明されたわけである。時代の伸展が私どもの前進の正義を証明しつつあることの一例として、ここに紹介しておきたい。
8  凡夫の姿のままで成仏の境界を得る
 さらに大聖人の仏法で説かれた「当位即妙」「不改本位の成仏」とは、その身そのままで、凡夫は凡夫の姿のままで成仏の境界を得るということである。
 戸田先生は、信仰したから特別な人間にならなければならない、完全無欠な姿を見せなければいけないということではない、われわれは凡夫であり、凡夫そのままの姿で成仏できるのが大聖人の仏法である、と教えてくださった。
 世間では、信仰人なのだから欠点のない善人でなくてはならない、聖人、君子のような姿、生活態度であるべきだ、などと考えている人が多い。もちろん信仰者として、立派な人格をもち、人々から尊敬され、称讃される存在となっていくことは大切である。しかし、そのことと、何かつくられた特別な人間となっていくこととは別問題である。
9  信仰人は”かくあるべきだ”と、現実の姿から離れた聖人、君子のような特別な姿を求める人間観は、保守化し、形骸化した既成宗教が、信者に”善人”とか”完成された人間”といった美名の衣服を着せることによって、自らの宗教の力の無さを糊塗するために掲げたものであるとの感を深くする。
 他宗教では”信仰者らしく”との美名のもとに、人間性を圧迫し、まるで犬か猫のように人間を飼い馴らし虚弱にしていく。”信心しているのに行儀が悪い。もう少し静かな人間になるべきだ”というように、宗教の権威によって人間を無力化し、抑えつけようとしてきたのが既成の宗教界の歴史であり、そこにつくられてきた人間観は、いわば封建的な悪しき遺物にはかならない。
 ゆえに他宗をみてわかるように、表面的にはさも立派な人格者であるかのようにみせながら、その実、宗教の権威をかさにきて、利得を食り、ぜいたく三昧をして信者を睥睨している宗教家も多い。信者をあたかも自分の家来のごとく扱い、何でも自分のいうことをきくのが”善男善女”だと思っているフシすらうかがえる。これはじつに恐ろしいことである。とんでもない錯誤であるといわざるをえない。
 私どもは、そうした姿が宗教本来のあり方からどれほど隔たっているかを、鋭く見破っていかなければならない。
10  大聖人の仏法は、どこまでも”人間のため”に説かれた法理であり、そうした人間を宗教の権威に従属させるような行き方とはまったく違う。
 ゆえに、信仰したからといって、なにも気取ったり背伸びしたりする必要はない。凡夫は凡夫の姿で、すなわちそれぞれの個性のままで、そのままの境遇で、気取ることなく、まただれ人にも左右されずに、三大秘法の御本尊に題目をあげきり、弘教に励み、自行化他にわたる実践をしぬいていけばよいのである。
 つまり、そのままの個性、そのままの境遇で、たとえば主婦は主婦として、貧しい人は貧しいままで、いかなる境遇にあっても、「仏」の境界を湧現していける、そしてつねに「常楽我浄」の人生を歩んでいけるというのが、大聖人の仏法である。
11  厳愛の家庭教育を
 きょうは、小さいお子さんをお持ちの若きリーダーも出席されているので、家庭教育のあり方について申し上げておきたい。
 自我意識が芽ばえる年ごろになると、とくに男の子は、父親を疎ましく思うようになるものだ。父親と口をきかなくなる場合もある。
 そうした場合、父親は、強く叱責してはいけない。それでは、ますます子供は心を閉ざしてしまう。非行化への道を歩み始めてしまうことにもなりかねない。ゆえに父親は感情的に叱ることなく、子供を一個の人格と認めながら、”人間対人間”の粘り強い対話を重ねていくことが大事である。
 また、一般的に母親は、子供を溺愛してしまう場合が多いようだ。しかし母親は、子供への厳格な”しつけ”を忘れてはいけない。子供の悪しき言動や行儀を失した態度に対しては、厳しく戒めていくべきである。
 戸田先生もよく指導されていたことだが、子供が本能や欲望のままに振る舞う生命は、十界論に約せば「畜生道」に通ずる。母親はけっして、その畜生道の生命のいいなりになっているのではいけない。母親がその点をわきまえず、わがまま放題に育ててしまうと、子供は厳しい現実社会に適応できなくなってしまうものだ。
 母親が少々厳しくしても深い愛情があれば、それはかならず子供に伝わり、子供の人格をあたたかく薫育していくものである。
 ただし、そのさい父親もいっしょになって叱ってはいけない。それでは子を追いつめ、人間形成のうえでも悪影響を及ぼしていくことになる。どうか未来の世紀を担いゆく子供たちのために、両親が真剣になって、実り豊かな家庭教育を進めていくようお願いしたい。
12  御書を拝し信心を深化
 御書を拝する意義はどこにあるか。それは、自らの信心を深め、退転への道を塞ぎゆくところにある。たとえば「佐渡御書」や「開目抄」を拝し、研輩しているのも、すべて、日蓮大聖人の広大無辺の御境界にふれ、自身の強盛なる信心を構築しゆくためのものである。この意味から、これからも着実なる御書の拝読をお願いしたい。
 しかし、御書の研鑽のみでは、成仏はできない。いかに御書を拝読したとしても、真剣な唱題と広布への実践なくしては、無量の福運を積み、成仏への直道を歩みゆくことは不可能なのである。
 御書や仏法の法理をどんなに知っていても、信心を失い、広布への実践を忘れた「有解無信」 の人であっては、成仏はできないのである。
 たとえ、仏法の教義が深く理解できなくても、真剣な唱題に励み、真心から御本尊を讃嘆し、悩める友に御本尊の偉大な功力を教えていく「無解有信」の人は成仏できるし、はるかに偉大な存在なのである。この点を、私どもは鋭く見極めていく必要がある。
13  その意味からも、婦人部の皆さま方が愚直なまでの純粋な信心を貫かれている姿は、感服せざるをえない。なかには御書を拝しても、なかなか理解できない方もいるかと思う。また、きょうは理解できても、翌朝にはすっかり忘れてしまっている場合もあろう。(笑い)それでも、婦人部の皆さま方は、信心のひたむきな実践を忘れず、日々一時間、二時間と唱題に励み、広布の活動に凛々しく邁進されている。それは、教学力のみがどんなにある人よりも尊く、また美しい姿といえるのである。
 御書には、三世十方の諸仏も「信」の一字により成仏したと仰せである。大聖人の仰せのとおり、まじめに広布の実践に励み、純粋な信心を貫くことが根本中の根本であり、肝要中の肝要なのである。
 そのうえで、現実の生活と社会を大切にしながら、信心の実証を生活のなかに輝かせ、歩みゆく人こそ、真実の大勝利者であり、栄光の人生を築きゆく人であることを銘記していただきたい。
 最後に、千葉広布のますますの発展と、皆さま方のご多幸と今後のご健闘を心からお祈りし、本日の話とさせていただく。

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