Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

東京第三総合本部幹部会 生涯、人生に夢と希望を

1986.6.5 「広布と人生を語る」第9巻

前後
1  「6・6」とは、初代会長の牧口常三郎先生の誕生日である。今、学会員で牧口先生を知る人はごく少くなったが、なぜ牧口先生の誕生日を祝うかといえば、それは牧口先生の存在があったがゆえに創価学会が創立されたからである。その意味で、この日は、門下である私ども会員にとって、ひとつの重大な記念日となっているわけである。
 牧口先生はすぐれた教育者であられたし、立派な人格者でもあられた。それにもましてすばらしいことは、創価学会を創立されたことである。学会は広宣流布のための団体であり、仏法を基調とした文化と平和と教育の推進団体でもある。牧口先生は、この創価学会を創立されるとともに、正法流布のために殉教された。そこに牧口先生の偉大さがあった。ゆえに、私どもは、牧口先生を尊敬申し上げるのである。
2  牧口先生については、私も戸田先生から種々教えていただいたが、直接、牧口先生にお会いしたわけではないので、本日は、戸田先生の指導を通してお話ししたい。
 牧口先生と戸田先生は、人生のうえでの「師弟不二」であり、一体であられた。その意味において、戸田先生の指導は牧口先生の指導であり、お二人の指導、振る舞いは、仏法の法理のうえから生まれた思想であり、行動であり、哲学であり、人生観であったにちがいない。
 戸田先生は、もっとも偉い人は若々しい生命、若々しい境涯で一生を送れる人である、と指導されていた。牧口先生も、そういわれていたようである。
 これは、私もたいへんに好きな言葉である。若々しい生命、若々しい境涯で、六十歳、七十歳、八十歳になっても、みずみずしい人生を送れるということは、たいへんにすばらしいことだ。
 御聖訓にも「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せのように、大歓喜の躍動の生命を顕現していく根本法が南無妙法蓮華経である。私どもはその題目を日々唱えている。ゆえに、私どもは、生涯、若々しく生きることができるし、また、若々しく生きぬいていかなければならない。
 ともに広布に邁進してこられた草創の同志の方々も、七十歳、八十歳となっている。年とともに、白髪やシワが増えることはやむをえないが、私どもは、つねにみずみずしい生命、若々しい境涯で、建設の人生を送っていきたいと思う。それじたいが仏法実践の証明であり、創価学会の正義の証明ともなることを知っていただきたい。
3  戸田先生の多くの論文のなかに、「希望」について述べられたものがある。そのなかで戸田先生は、人生にはかならず「希望」がなければならない、と強く訴えておられる。
 すなわち、過去の偉人とよばれる人々は、どんな人生の苦難にもけっして屈することなく、希望の灯を消すことなく、夢を持ちつづけたことをあげられ、「希望」をたもちぬくことの大切さを私どもに感銘深く教えられたのである。
 こうした偉人にくらべ、いわゆる凡人は、ともすれば少しの失敗や障害に遭って希望を失い、挫折していくものだ。厳しい現実をまえに生きぬく力をなくしたり、他人をうらんだり、悲嘆と愚痴の方向へと後退してしまいがちである。
 私たちは、いかなる苦しいこと、つらいことがあろうとも生涯、希望を失ってはならない。たとえ一時は病魔に悩み、あるいは経済の苦境に陥ろうとも、何があっても、わが胸中には不滅の「希望」が高く輝いていなければならない。
4  「希望」ある人生は強い。「希望」なき人生は敗北へと通じていく。「希望」は人生のカであり、心に美しき「夢」を持ちつづけられる人は幸福である。
 たとえば大邸宅に住んでいても、家庭に争いが絶えず、家族・親族間の葛藤に苦しんでいる人も少なくない。外面は華麗であり幸福そうに見えても、内実は冷酷な人間関係等に悩んでいる現実も、あまりにも多い。人生は表面だけではけっしてわかるものではない。
 逆に、たとえば小さな2DXのアパートで、日当たりも悪く(笑い)、月給もたいしたことはない(笑い)、そんな暮らしであっても、なんともいえない、すがすがしい家庭があるものだ。
 朝は主人が元気に「いってくるよ」と言えば、「いってらっしゃい」と奥さんが笑顔でこたえる。家路をたどるときも、「さあ、これから、ゆっくり休もう」と身も心もうきうきと(笑い)帰っていく。一事が万事で、そうした仲良く麗しい和楽の家庭のほうが、大邸宅に住むよりもよっぽど夢があり、希望がある。美しき人生の”幸”の実像がある、と私は信ずる。
5  そうした”幸”の姿を象徴する一例として、小説『新・平家物語』のラストシーンをあげたい。
 多くの人々が権力の葛藤と煩悩の流転の波に流され、去っていったあとで、一組の老夫婦が静かに吉野山の桜を眺め、賞嘆しているという印象的な情景がある。何の権力も、特別な財力もない、ふたりの老人の平和な姿。美しき桜のもとで人生を回顧し、自分たちこそじつはほんとうの”幸せもの”だったのだと自覚する――。ふたりの胸にあふれる”幸”の実感と、たとえようもなくすばらしい自然の絶景。ここに外面ではない、人生の深き真実の幸福を描いた一幅の名画があると思う。
6  信心は永遠の希望の源泉
 ともあれ「希望」をもち生きゆくことは、人類のみに与えられた特権といってよい。人間だけが希望というロマンの花園に遊戯することができるのである。
 しかし、同じ希望といっても、自己のみの欲望を満たす利己的な希望もあり、さまざまな種類、さまざまな次元の希望が存在しょう。そのなかにあって、「広宣流布」という希望こそ、全人類の幸福の実現を願う最高にして尊極の希望である。広布の推進と自らの一生成仏をめざしゆくこの至高の希望のみが、三世永遠の生命を豊かに生ききっていくための原動力となるといってよい。
 今世のみならず、来世、永遠にもつらなりゆく希望と確信にいろどられた人生はどすばらしいものはない。
 その意味で、”広宣流布という最極の人生を生ききっていきなさい”との教えが、日蓮大聖人のかずかずの御指南の真髄であるし、また戸田先生の指導の究極の結論であったことを申し上げておきたい。
7  大聖人の御一生は、ありとあらゆる苦難と迫害の連続であられた。伊豆流罪、竜のロの法難、佐渡流罪等々、言語に絶する大難の嵐のただなかを大聖人は生ききっておられる。「種種御振舞御書」などさまざまな御抄を拝するたびに痛感することだ。
 先日も鎌倉の竜のロや伊豆の地を訪れ、その尊き御生涯をおしのび申し上げた。
 大聖人の御生涯を拝するとき、その御生涯はまことにダイナミックな、怒涛の人生であられたといえよう。しかし、忍難弘通の峻厳なる御振る舞いのなかにも、人々の喜びや悲しみ、また躍動や苦しみという、あらゆる人間的な感情が息づいておられる。さらに、天空や大海、大地や一木一草にいたるまで全宇宙の万物のいっさいを、その広大無辺の生命と御生涯に内包されていたのだとの感を深くするのである。
 大聖人は筆舌に尽くせない苦難の御一生を、御本仏の悠々たる大境界で全うされたのである。その大聖人門下として、牧口先生も、また戸田先生も、怒涛の人生を見事に生きぬかれたのであり、そうした創価学会の輝く歴史につらなる一人ひとりとして、私どもも広宣流布を無上の希望としながら、ダイナミックな人生を堂々と生ききっていきたいものだ。
8  戸田先生は、自分だけの幸福を築くことはかんたんであると、いつも語っておられた。私もそう思う。折伏を実践せず、他人のことも心配せず、利己主義に徹している人、また、家に早く帰っては食事をし、たまに映画を見に行き、買い物をするなどというような自分中心の人生を送っている人の姿を見ると、一見、とても幸せのように見えるかもしれない。しかし、それだけではあまりにも小さい幸福観である。
 それに対し、真の正法に照らされ、正法を護持しながら、多くの人々のめんどうをみ、勤行のあり方を教え、また一生懸命に信心の指導・激励をしていく活動ほど尊い実践はない。このように、人のため、社会のため、法のために生きる人を、三世十方の諸仏、諸天善神がかならず守護するゆえに、確信をもって進んでいくよう、日蓮大聖人は諸御抄で仰せである。ゆえに、皆さま方は、どこまでも広布の大道を希望に満ち、夢を失わず生きぬいていただきたい。
9  信心で人生の勝利者に
 皆さん一人ひとりが、それぞれの道で”成功者”となってほしい。信心にのっとった”人生の勝利者”になっていただきたい。そうでなければ、社会に仏法の証明をすることはできないからだ。
 たとえ、商売が成功し、その勝利者となっても、それがかえって人生の敗北に通ずる場合がある。また、あまりに裕福になって、人間としての大切な心を忘れ、信心まで破壊してしまう人もいる。
 したがって、あくまでも根底は信心であり、生涯にわたって信心を根本としていかなければならない。それが、人生の勝利者となる基盤である。どこまでも根本の信心に立って、その証明のために、どのような職業であれ、たとえば、中小企業に勤めていようが、商店を経営していようが、また専業主婦であろうと、パートで働いていようと、その姿は百人百様であっても、それぞれの立場で、成功者となり、勝利者となっていくことが何よりも大切である。そのためにも、地道な実践を貫いていただきたい。
 また、人生は、中途半端であってはならない。製品でも中途半端であれば使いものにならない。歌手であっても、歌の修業を途中でやめてしまえば、成功者とはならない。ましてや、すべての根本である信心においては、この一点を忘れてはならないと申し上げたい。
10  ”火の信心”ではなく、”水の信心”が大切である。すぐに消えてしまう火の信心でなく、とうとうと流れつづける水のような信心でなくてはならない。
 そのうえで、かつて総本山第五十九世の堀日亨上人は「欲を云えば火の信仰を水の信心に続かせたい。即ち熱湯の信仰と云うべきであろうか」(恒如水信訓)と語られたことがある。これは、いざという法戦、法難にあったときは、”熱湯の信心”が大切であるという意義と思う。
 この言葉をかみしめて、今後もまた希望に満ちて広布の実践に励んでいっていただきたい。

1
1