Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

東京第一総合本部合同授賞式 生活のなかに光る人生を

1986.6.4 「広布と人生を語る」第9巻

前後
1  この世は「堪忍」 の世界であり、「婆婆世界」であるゆえに、皆さま方もいろいろご苦労があることと思う。
 しかし、飛行機も空気の抵抗があるから飛べるのであり、私たちの人生にあっても、苦労がなければ、なんの喜びもなくなってしまう。人生を生きていくうえで、かならず苦労はあるが、広布に生き、信心に励んでいる方は、自分ではわからないかもしれないが、見る人が見れば、なんともいえない輝きがあり、光っているものである。
 皆さま方は、どの地域、どの職場にあっても、また、どの家庭にあっても、この同じ方程式で、生活のなかに人生の光彩を放つお一人お一人であっていただきたい。
2  私どもは、日蓮大聖人の仏法を信奉する日蓮正宗の「信者」である。これはまざれもない事実である。
 一方、他の人たちはどうか。ある場合は、既成仏教の信者である。新興宗教の信者もいる。さらに広くいえば、自由主義の信者もいれば、社会主義、共産主義の信者もいる。科学や医学に強い「信」をおいている人もいるし、合理主義の信者もいる。自分は何も信じていないという人は、懐疑主義の信者であるともいえる。親を信じている子供は、親の信者ともいえよう。夫婦の間でも同じである。
 「疑い無きを信」と仏法では説かれている。みな、何かを信じ、自分の命をかけ、それにのっとって生活しているわけである。つまり、人間はみな何らかの信者である。
 しかし、信者というと、なんとなく古いというか、何かにすがる弱い者というイメージがあるようだ。
3  私どもは日蓮大聖人の仏法の 「信者」であることはいうまでもないが、同時に私どもは、日蓮正宗の広宣流布に遇進する創価学会の「会員」でもある。「信者」の語の響きにくらべて、「会員」という呼称にはスマートで近代的なイメージがあるといえよう。
 現代はある意味で「会」の時代といってよい。ありとあらゆる分野にわたって、現代社会には多くの会がある。野鳥等の自然動物を守る会、清らかな水資源を守る会、郷土芸能の会、市民運動の会、スポーツ・趣味の会等々、それぞれの目的に応じて、あらゆる会があり、会員がいる。私どもは、これまでもつねに近代性をふまえた「学会員」との呼び名を誇りにしてきた。七百年余の伝統に根ざした日蓮正宗の「信者」の語と、「学会員」との呼称を併用してきたわけである。この事実は、伝統と近代性・時代性とを融合し昇華してきた学会のあり方の一つの象徴ともいえよう。これはまことに不思議であるともいえるし、まったく正しいあり方であると確信する。
4  何らかのものの「信者」であり、人生の依所とするものをもっている人間の世界のなかにあって、三大秘法の大御本尊を借受し、すべての社会次元で活動する人々を包含し、善導しながら仏道修行に励んでいるのが私どもである。宗教の浅深高低のうえから、人生と生活のあり方のうえから、考察され、実証された最高の仏法を人々に教え、導いていくことが、私どもの使命であり、責務である。
 たとえば、”右に行けば川を渡るための橋がある。しかし左に行けば断崖絶壁があって危ない”と教えるのは、人間としてしぜんの理である。ここに、妙法を信受した私どもの活動の意義がある。
5  今日の正法の興隆、また創価学会の発展をもたらした原動力は何か。それは、それぞれの立場で広布を推進されている皆さま方の、強き「信カ」と「行カ」にはかならない。
 強盛な「信力」と「行力」を起こし持続することによって、私どもは、大御本尊の無量の功徳力に浴し、奇跡的ともいえる現在の広布の大発展をみることができたのである。この強盛なる 「信カ」と「行カ」をたもちゆくところに、学会の変わらぬ伝統精神がある。
 「信カ」と「行力」なき人に、功徳の花は咲きかおらない。また、大聖人の御称讃もけっして与えられないことを知ってほしい。
 三世にわたる御本尊の福徳と大聖人の御称讃は、尊い広布の実践に邁進されてきた皆さま方にこそ輝くのである。皆さま方はその尊極の資格をおもちの方々である。その福徳をさらに子孫末代まで残しゆくためにも、いちだんと強盛なる「信力」と「行力」の勇者であっていただきたい。

1
1