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日蓮大聖人・池田大作

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東京第八総合本部幹部会 信強く信深き人生を

1986.6.3 「広布と人生を語る」第9巻

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1  二十四年前の昭和三十七年に設立された東洋哲学研究所が、このほど創価大学内に建設された研究棟へ移転することとなった。その落成の祝賀会がきたる八日に盛大に開催される。その祝賀会には、仏教学の最高権威である中村元博士をはじめ多くの著名な学者が出席される予定となっていることを聞き、たいへんうれしく思う。
 東洋哲学研究所設立の構想を発表したのは昭和三十六年二月。会長就任の翌年であった。この年の一月二十八日から二月十四日まで、総本山第六十六世日達上人を、ご案内申し上げてインドを訪問した。
 そのさい、釈尊の成道の地であるブッダガヤーに向かう飛行機のなかで、構想を練り、哲学・思想的分野で広宣流布の一翼を担い、広布の序分、また流通分の役を果たすことができればと考え、この構想を日達上人にご相談申し上げたところ、日達上人は「たいへんに結構な研究所と思います。どうか、しっかり創設して発展させてください」とのお話をいただいた。
 二月四日に、日達上人によってブッダガヤーに「三大秘法抄」ならびに「諌暁八幡抄」等を埋蔵する意義深き儀式が行われた。当時、日達上人はたいそうお元気で、五十八歳であられた。そして日達上人に常随給仕されていたのが常在寺(東京・豊島区)の早瀬義孔尊師であられた。
 学会から同行したメンバーは、私をはじめ秋谷会長、森田理事長、辻副会長、柏原ヤス参議、それに通訳の三宅健夫国際センター総務局長であった。少人数であり、聖教新聞の記事も写真もぜんぶ秋谷会長が担当した。初めての訪問の地でもあり、大変な旅であった。しかし大成功で終えることができた。
 この旅のなかで、日達上人から、飛行機のなかでも、ホテルでも、またお車に同乗させていただいたさいにも、「釈尊の仏教」「阿育大王」「大聖人の仏法」などについて、さまざまな甚深のお話をうけたまわることができたことが忘れられない。
2  五十八歳であられた日達上人は、三十三歳の私ごとき者に”池田先生”といわれ「池田先生が私の年になられたときは、どうなられていますかね。宗門も学会も、広宣流布も、どのように発展しているでしょうか」などと話してくださった。その限りないご慈悲の空目葉が身にしみて残っている。
 牧口初代会長が入信されたのは五十七歳。以来、獄中で亡くなられるまでの殉教の法戦は、後世の歴史に永遠に輝いていくにちがいないし、私どももこの意気に続いていかねばならないと思う。
 また、戸田先生が逝去されたのは五十八歳。戸田先生が亡くなられる前に「大作、おまえが五十八歳になったときは、どのようになっているかな」と、しみじみと語っておられたことも忘れられない。そして今、私は五十八歳を迎えている。
3  阿育大王の事跡を語る
 そのときの話題になった阿育大王について述べておきたい。その名「アショーカ」は梵語で、意訳すれば「無憂」となる。大王の誕生は釈尊滅後百年とも、二百年ともいわれるが、正確なところは不明である。ともあれ、マウリヤ朝の第三代の王であり、紀元前三世紀ころの人とされている。
 この”マウリヤ”の名は、サンスクリット語のマユーラ(孔雀)に由来するという。したがってマウリヤ王朝は歴史書によっては孔雀王朝とも書かれている。同王朝は、かのアレクサンダー大王のインド遠征後に、初代王のチャンドラグブタが西北インドで挙兵し、マガダ地方のナンダ王朝を倒し、紀元前三一七年に創始したといわれる。
 そのころ、アレクサンダーの臣下シリア王セレウコスがインドに進軍。これを迎え討ったチャンドラグブタはシリア軍を大破し、西はヒンドゥークシ山脈から東はベンガル湾にいたる大帝国を創建した。
4  阿育には母が異なる長兄スシーマをはじめ、多数の異母兄弟があった。当初、スシーマが第三代の王位に就くはずだったが、阿育はあえて王位に挑み、長兄を打倒して王位を獲得したわけである。
 第二代の王である父ビンドゥサーラ王は、阿育をあまり好まず、わざと鎮圧のむずかしいタキシラの反乱の平定などを命じたといわれる。反対に、長兄は大事にされた。そのスシーマを、阿育は結果的に打ち倒し、勝利をおさめている。やはり人間は、厳しい環境に育った方が強くなるものだ。
 阿育は王位継承にさいして、九十九人の異母兄弟を殺害したと伝えられている。また即位後は、五百人の大臣を殺し、従わない女人は焼き殺すなど、暴虐をつくしたと伝えられている。経典にも「王暴悪を行うが故に、暴悪阿育王という」と説かれている。
5  阿育王経によると、アショーカは、はじめはジャイナ教を信じ、バラモン教を奉じていたが、即位して七年目ぐらいに仏法に帰依したという。しかし、はじめの一年間ほどは仏法の熱心な信奉者ではなかった。それがなぜ、熱心な仏教を奉じた指導者となったか。これは大きな課題である。
 ともあれ、私はトインビー博士をはじめ多くの世界の著名な学者ともお会いしたが、どの人物を立派な指導者とするかという問いに対し、その多くの方が、阿育大王である、とふしぎに一致して言われていた。それは、阿育の仏教を根幹とした慈悲の政治に、ひとつの理想像を見いだしていたからかもしれない。
6  当時、カリンガという国がマウリヤ王朝に服属しないで残っていた。カリンガは歩兵が六万、騎兵が千、象七百頭を保有する強国であった。阿育大王はそのカリンガ国を攻撃する。その結果、兵士、人民もふくめて一説には十万の人々が殺害され、十五万人が捕虜として移送されたという。この悲惨きわまりない状況に、阿育大王は深い悔恨の念をいだいた。これを機縁に仏教の信仰を熱心に行うようになったといわれている。
7  仏法の精神を広く社会に発現
 熱心な仏教徒となった阿育大王は、仏教を政治の基本原理としていった。そして 「法による勝利(征服)なるものこそ、これ最上の勝利なれ」「法による勝利のみが真の勝利なり」(法勅の第十三幸)と宣言した。
 すなわち、戦争放棄の政治理念を根本にすえたのである。またそればかりでなく、大王は、西方のギリシャの諸王をはじめ、シリア、エジプト、マケドニアに平和使節を送り、仏教を根本としたこの政治理念を諸国に伝えるとともに、商インド、スリランカ、カシミール、ガンダーラ等々に仏教の布教師を派遣した。
 また、彼は仏教の理念を広く自身の政治に反映させている。病院を建設したり、薬草の栽培を各地に普及させた。また旅人の休息のための街路樹を植え、人や動物のために井泉を掘った。それらの諸政策はすべてが社会福祉のために行われたのであった。自身のことより民衆の利益を考えた行き方にこそ、ほんとうの政治家の姿があるというべきであろう。
8  阿育大王の有名な言葉に「予は一切世間の利益を増進するを義務なりと思惟する」というのがある。
 また「今、予は次のごとく命ず。予が食事中にありとも、後宮にありとも、寝所にありとも、乗車中にありとも、いずれの時たりとも、上奏官は、人民に関する政務を予に奏聞すべし。しからば予は何処にありても、人民に関する政務を裁くべし」(法勅の第六章)ともある。大王のこの言葉には、政治家としての根本の姿勢と実践があるといえよう。
 かつて、今は亡きある著名な政治家に会ったときのことだが、その政治家は「自分は家に帰ったら国会のこと、政治のことはいっさい考えないようにしている」と語っていた。私はその話を聞き、ガッカリしたのを覚えている。いやしくも国家をあずかる身であるならば、家に帰っても寝ていても、真剣に人民のこと、国民のことを考えるべきであろう。
 政治家は自分だけのエゴにとらわれて、民衆を犠牲にしたり、手段にしては絶対にならない。その民衆を守るために、われわれは鋭く政治を監視しなければならないのである。
9  私はかつて『私の人生観』のなかで、「私の知るかぎり、死刑が全く廃止された社会は、歴史上、二つある。一つは、古代インドのマウリヤ王朝時代の、とくにアショカ王の治世である。もう一つは、わが国の平安朝時代である。とくに後者は、三百数十年にわたって、いっさいの死刑の行なわれなかった期間がつづいたといわれる。この二例に共通するものは、仏教が興隆し、仏教思想が為政者に、甚大な影響を及ぼしたという点である」と述べたことがある。
 政治の原理は”慈悲”でなければならない。たとえ自分を犠牲にしてでも、国民の幸福のためにつくすのが、正しい政治家のあり方なのである。
 阿育大王は、多くの石柱とともに、「磨崖の法勅」といって崖の岩石に、法勅を刻ませ、法の普及につとめた。それらが今日でも残っている。
 この「磨崖の法勅」で、大きいのはぜんぶで十四章からなっているが、その冒頭に、「殺生」「供犠」を禁ずるとある。このことからも、阿育大王がいかに革新的であったかをうかがうことができると思う。
 しかし、私が何よりも阿育大王に魅せられる大きな理由は、彼が、人民に対して王の”権威”をもってではなく、人間としての”慈愛”をもって接するように努力したということである。
 権力者の多くは、権威をもって接するのが常のようである。戸田先生もよく私たちに「権威なんか恐れることはない。だれびとたりとも恐れる必要はない。権威を恐れていては民主主義が破壊される。それでは民衆がかわいそうではないか。あくまで主権在民である」と教えてくださった。私はこの先生の指導をつねに銘記し、今日まで実践してきたつもりである。
10  また、阿育大王は、領土内にいるさまざまな異民族を大事にした。犯罪者に対してすらも、刑罰を加えるのでなく、教導したうえで釈放したという。そこに私は、仏法者の偉大なる慈愛をみてとることができると思う。
 阿育大王は、「一切の人は是れ我が子なり」との立場に立って臨んだという。このことからも、王が大乗仏教の精神を身につけていたと考えられる。
 有名な法華経譬喩品第三には「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」とある。その思想をそのまま政治に具現しょうとしたといえる。
 また、阿育王は信教の自由はあくまでも守った。王は、個人としてはあつく仏法に帰依し、活動をしていた。が、為政者としては、他のいっさいの宗教の活動を尊重し、公平な立場をくずすことがなかったといわれる。
 当時の彼の立場は、絶大な権力をもっていたにもかかわらず、仏教を国教化することもなかった。
11  王の死後、マウリヤ王朝は急速に弱体化し、半世紀の間に滅亡している。それは、慈悲の政治が悪臣に利用された結果とも考えられる。
 マウリヤ王朝を倒した将軍プシャミトラは、王を暗殺してシュンガ王朝を創建。その王朝はひじょうに封建的で、反動的であった。
 仏教に対し弾圧を加えたことについては、御書にも「弗沙弥多羅ほっしゃみたら王は四兵を興して五天を回らし僧侶を殺し寺塔を焼く」、「彼の月支の弗沙弥多羅王の八万四千の寺塔を焚焼し無量仏子の頸を刎ねし」と、お示しのとおりである。
 こうした史実をみても、仏法を奉ずるわれらは賢明でなくてはならない。法を守り弘めるためにも力をもち、また悪人に乗ぜられることのないよう、さまざまに心をくだかなければならない。そして完璧な広宣流布の基礎をつくりあげておかねばならない。
12  また、これは阿育大王につらなる一つのエピソードであるが、大王の娘の一人サンガミッタ王女は、仏教伝道のためにスリランカに渡ったが、そのさい、王女は、釈尊がそのもとで悟達したと伝えられる菩提樹をスリランカに分枝移植したという。その移植された由緒深き菩提樹の”葉”を、今年(昭和六十一年)一月、スリランカのフルーレ文化大臣が駐日大便を通して私に贈ってくださった。すばらしき贈り物であり、この席を借りて改めて紹介しておきたい。
13  透徹した「三世の生命観」に立脚し
 この阿育大王の因縁については、多くの御書にも説かれているところである。あるとき、釈尊が弟子をともなって玉舎城で托鉢の修行をしていた。折から道ばたで砂遊びをしていた二人の子がおり、砂のモチを捧げ、釈尊に供養した。それを見た釈尊は、この子は私の滅後百年にして阿育王として出現し、正法を信じ、武力を用いず法をもって世を統治する転輪聖王となって、八万四千の塔を建て、舎利を供養することになると予言したのである。
14  法蓮抄には「仏記し給ふ「我滅度の後一百年と申さんに阿育大王あそかだいおうと申す王出現して一閻浮提三分の一が主となりて八万四千の塔を立て我が舎利を供養すべし」云云、人疑い申さんほどに案の如くに出現して候いき」と仰せである。
 大聖人がここに示されているのは、三世にわたる因果の法であり、それを悟り究めているのが仏であるということである。通途の仏法では、たとえば、現在貧しいのは過去に窃盗を行った罪によるものであるとし、来世に幸福になるために、今世で一生懸命、仏に供養し、人に施しをせよ、と教えるわけである。
 しかし、こうした教えでは、すこし考えただけでも矛盾を覚えるだろう。貧しさに苦しんでいるのに、供養と施しばかりしていては、ますます貧しくなってしまう。(笑い)端的にいって、貧しい宿業をもった人は来世に希望を託し、今世は一生貧しさに甘んじなければならないということになるからである。
15  これに対し、日蓮大聖人は「因果倶時」の大法を明かされたのである。
 すなわち、過去に富める「原因」がなくしても、大御本尊を信受し、自行化他にわたって南無妙法蓮華経と唱えゆくとき、富みゆく「因」をつくることができる。そして「因果供時」の法であるから、富める「果報」を同時に得ることができるのである。
 これは経済面という一面に即して述べたわけであるが、生涯、永遠にわたる不滅の幸福を今世の信心で確立していける「一生成仏」の仏法が、日蓮大聖人の仏法である。その意味において、どうか皆さまは、いよいよ”信強く”また”信深く”、栄光の人生を築ききっていただきたい。

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