Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二東京本部長の集い 対話こそ生命蘇生の源泉

1986.5.20 「広布と人生を語る」第8巻

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1  第二東京の広布の要衝である立川文化会館を訪れると、空気がきれいなせいか、ホッとした気持ちを覚える。武蔵野の豊かな自然に恵まれた、この清浄の地で活躍できる皆さま方は、私どもからみてもうらやましく思う存在である。
 ただ、交通は、都区内にくらぺると不便かもしれない。しかし皆さま方は、尊き広宣流布の達成と友の幸せを願い、この広大な地域を、自動車などで縦横に駆けまわっておられる。使命の道を健気に歩まれる、まことに尊い姿と思えてならない。ガソリン代がたいへんかもしれないが(笑い)、今日の活動のいっさいが大功徳と転じゆくことを確信し、今後もいっそうの前進への活躍をお願いしたい。
2  妙法を弘める「人」の大切さ
 持妙法華問答抄の「つらつら世間を見るに法をば貴しと申せども」から「上根も・るる事あり心をいたさざるが故に」までを拝読しつつお話ししたい。
 ここで「一切の仏法も又人によりて弘まるべし」と仰せのように、「法」といっても、「法」それだけでは弘まらない。弘める「人」がいればこそ「法」が弘まる。ゆえに、「人」が大事である――そのことを教えられた御文である。
 また「されば持たるる法だに第一ならば持つ人随って第一なるべし」と。持ったところの「法」が最高であるならば、その「法」を弘めている「人」も最高の人となり、もっとも尊敬されるべき人になるとの御教示と拝せよう。まさしく「法妙なるが故に人貴し」なのである。
 ゆえに「然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり」とお示しのごとく、法を弘め、広宣流布を推進している人を軽蔑することは、法それじたいを軽蔑することである。
 さらに「豈冥の照覧恥かしからざらんや地獄の苦み恐るべし恐るべし慎むべし慎むべし」との一節は、厳しき仏法の因果律を示されたものといえる。大聖人の仏法を行じ、弘めているわれわれを軽蔑し、いじめた罪は大きいといわねばならない。
 このあとに「上根に望めても卑下すべからず下根を捨てざるは本懐なり」と仰せになっておられる。衆生の横根はさまざまであるが、たとえ下根の人であっても、上根の人に対して卑屈になったり、自分を卑下したりする必要はまったくない。下根の人とは、広く敢行していえば、庶民にあたるかもしれない。学問もない、社会的な地位も財産もない、無名の庶民である。その庶民の味方になって、庶民を守り、救い、庶民の幸福を考えることが、仏の「本懐」であられるとの御指南である。
3  逆に「下根に望めても僑慢ならざれ」と仰せのように、たとえ相手が下根の人であっても、信心の純真な強盛な人を見下すようなことが絶対にあってはならない。仏法では、御本尊のもとにみな平等であるからだ。「上根も・もるる事あり心をいたさざるが故に」とは、上根、利根の人であっても仏の救いから漏れることがある。今日の私たちの世界でいえば、たとえ大幹部、あるいは長きにわたって広布に戦ってきた功労者であっても、途中で退転し、成仏できない人がいる、ということである。それは、名聞名利で自分自身の真剣な信心、求道心を失っていったからである。
 自分が社会的にも、また組織のうえでも偉いと錯覚し、慢心をおこし、みずみずしい求道心を失ってしまっては、もはや退転となってしまうことをともどもに戒めていきたいと思う。
4  組織は「信」と「誠」、そして指導者で決まる
 牧口先生は、戸田先生より二十八歳も年上であられたし、私どもからみれば”おじいさん”にあたる。その指導は、表現的には、今からみると古いように思える点があるかもしれないが、本質をつかれた指導は驚嘆すべきものがある。
 そのなかで牧口先生は「信は組織の中核にして、誠は組織の推進力である」といわれている。先生は「組織」の重要性を鋭くとらえられていたし、知悉されてもいた。
 組織にあって、その中核をなすものは「信」、つまり信頼であるし、またより深くわれわれの立場でいえば信心なのである。そして組織を推進していく力こそ「誠」であり、真心である。けっして、利害や得失、名声や毀誉褒貶ではないのである。法のため、人のために、真心から尽くしていく――これが、組織にあってほもっとも大事なのである。
5  また「小船に大石をつめば沈んでしまう。だから、浅く低く、指導者を欠いた宗教では、苦悩する人々を幸福にはできない」といわれている。
 ここでは、宗教にあっては、教義の高低浅深が根本であるが、とともに、指導者のいかんが重要であることを示されているわけである。
 われわれの広宣流布の運動にあっても、もちろん大御本尊には絶大なる御カがあられるが、しかし、広布を推進していく指導者が信心も深く、人間的にもすぐれ、力ある人でなければ、広布の運動は進まない。
 エゴにとらわれたり、自身の立身出世を考えたり、指導力もなく、人間的に浅く低いリーダーであれば、大聖人の仏法の偉大さを理解させ、納得させることはできない。御本尊の絶大なる功徳も、人々が得心できるようなかたちで示すことはできない。そういう意味で、指導者によって、宗教の流布が決まっていくといってよい。
 御本尊を受持していても、邪信と詐親の指導者が一派を形成していったことがある。日蓮正宗創価学会の清流から離れ、濁流となったものが、いかに自己正当化の論理をもって言いつくろったとしても、そこには御本尊の功徳は現れないし、成仏への道は絶対に開けない。そうした指導者に従って、正しき清流の私どもを批判し、怨嫉していく者は「終にほろびざるは候はず」で、決着は明白となり、かならずや厳しき末路となっていくにちがいない。
 ここに、牧口先生は、宗教における指導者の姿が、いかに大切となるかを厳しく教えてくださっているのである。
6  心通う「対話」を重視
 かつて牧口先生は「人生に関する問題は、対話でなくては相手に通じない。講演だけでは聞く方は他人事にしか感じないものだ。日蓮大聖人の『立正安国論』にしても問答の形式ではないか」と指導されている。
 まことに至言といわざるをえない。日蓮大聖人は「立正安国論」のほか「聖愚問答抄」をはじめ、多くの御抄を問答形式で執筆されている。対話こそ、相手の生命の奥深くに分け入る最高の方途であると、見ぬかれていたからであろうと拝せられる。
 優れた哲学者や教育者は、みなこのことを知悉し、実践してきている。
 それを、現代の学者や著名人が、講演等の場で、難解な内容を得々と話し、事足れりとしているならば、それは知識人のうぬぼれであり、民衆への愛情を欠落させている証左にはかならない。それはもはや”民衆の時代”に取り残された後退の姿といわざるをえない。
 ゆえに私どもは、どこまでも、心通う「対話」を、指導、激励の中心にすえていくべきである。
7  「対話」「問答」ということでもっとも有名なのは、古代ギリシャの哲学者ソクラテスであろう。紀元前五世紀に活躍した彼は、晩年、ともかく人間の問題のみに関心を向け、探究を重ねたといわれる。
 早朝からアテネの街頭、市場、体育場など、多くの人々に会えるところに出かけていっては、精力的に問答を重ねた。彼は人格も立派であり、あたたかなユーモアと、鋭い論法をもった、まことに魅力あふれる人物であり、対話の名人であったようだ。多くの若者たちが彼によって心を開かれていったという。
 ソクラテスにとって対話とは「魂を委ねて、それを裸にして眺める」作業であったせいわれる。少々むずかしい表現であるが、要するに、問いに対して、自らの考えるところを正直にそのまま述べることが”魂が裸になる”という意義であり、そうした率直な対話を通して、人間にとって決定的に大切な真実を確かめよう――との願いがこめられていたようだ。こうした、たがいの魂の「対話」を重視していくというソクラテスのいき方は、まことに含蓄深く、現代にも通じる重要な意味があると思う。
8  すなわち、群衆のなかでの「対話」とは、私どもの実践においては、折伏・弘教であり、指導といえよう。人間の魂に向かって、問答を重ね、しぜんのうちに説得し、また破折し、心から納得せしめていく――。この人間という共通の基盤にたった求道と慈愛の姿勢を忘れてはならない。
 かりに、幹部となり、いつしか自分は何でも知っているような錯覚にとらわれ、指導において、組織のうえから押しっけて、事足れりとするような姿勢があったとしたら、大きな誤りであることを知っていただきたい。
 また彼の”魂を裸にして、人間にとって決定的な大切な真実を確かめる”とは、日蓮大聖人の折伏行の序分としてみるならば、仏法対話を通して、生命の本源まで追求し、「あなたの生命に仏界があるのですよ」「題目は宇宙につながる根本法則なのですよ」「妙法は生命力の根源であり、人間の骨髄の法なのですよ」等、心をこめて話すことである。
 またドイツの哲学者・教育学者であり、人間形成における「対話」の重要性を強調したO・F・ボルノーの言葉に次のようにある。
 「対話は生活のために斬新な力をもたらす。なぜならば、それは人間を昼の苦しみと夜の孤独から救い出して、常に新たないのちと慰めの源泉に導くためである。対話から生れる真理は、残忍で恐しく強制的な真理ではなく、慰めを与え、生活を支える真理であるからである」――。
 私どもの指導も、また打ち合わせも、すべて納得の「対話」でなければならない。いささかも威圧感や、強制的な印象を与える命令的なものであってはならない。相手の心に安心と勇気を与え、生活を支えゆく真理を確かめあう対話を、いっさいの活動の基調にしていかなければならない。そのことじたいが、そのまま時代をリードしゆく方向をつくっていることを銘記していただきたい。
9  時代は”人間組織”を志向
 現在は、組織にあっても、人間価値の実現が強く志向され、それが社会の最先端で希求されている時代であるといわれる。あらゆる団体や組織が、メンバーの人間性と個性を尊重し、メンバーの主体的な能力の発揮をめざし、それによってダイナミックで躍動する組織をつくりあげようと取り組んでいるようである。
 それにしたがって、組織のあり方も変化を遂げ、たとえば、”指示・命令”による統制ではなく、”コミュニケーション”を通じて伝達、納得をもたらしていくようになりつつある。
 学会はすでにそれを先取りしてきた。ブロックを中心とした活動や協議の形態にせよ、また、意思の疎通と合議を重んじた本部の会議のあり方などにしても、その一例であるといぇる。これからも学会は、つねに時代を先取りしつつ広布の活動を進めていきたい。
 私は、今から五年前、秋谷会長が第五代会長に就任した折、皆さま方に、新しい時代に即応した組織を築いていくうえから、上からの指導を待つというのではなく、みんなで支えていくことが大切である旨、申し上げたが、時代の先端はまさにそうした組織のあり方を求めている。
 また、意思決定は”集権化された個人的”なものから、”総意による状況的”なものへと変化してきている。この時代の流れを見極めていくこともまことに大事であると思っている。
10  「リーダーシップ」の一つの側面として、”権限による”ものから、”情報による”ものへの移行がある。
 それだけに、リーダーは、正確な情報を的確に把握していくこと、たとえていえば、あらゆる人の話、意見に耳をかたむけていくことも、ますます大切になってきている。
 私も、皆さまから年に八万通から十万通の手紙をいただくが、それらを通し、お一人お一人の思いやご意見を心に刻み、会員の皆さま方が”何を求め””何を欲しているのか””いかにすればよいのか”そして”仏法をどのように理解したらよいのか”を真剣に考え、日々分析もし、模索している。また、対話にも全力をそそいでいるつもりである。
 ともかく、さきほどの牧口先生の指導にも明らかなように、指導者によって、組織も、地域も決まってしまう。指導者のいかんで、多くの後輩たちが躍動もするし、うちびしがれもする。幸福にもなっていくし、逆に不幸にもなる。大成長もするし、退転もする。また、勝利への展開もあるし、敗北の方向へと後退しゆくこともある。
 「汝」が根本であることはいうまでもないが、同時に、指導者というものの姿勢、あり方がどれほど大事であるかを、きょうは申し上げておきたい。
11  本日の集いを記念して、次の歌を、壮年部、婦人部、青年部の代表に贈らせていただく。
  辛くとも 嘆くな友よと 歌いたる
    恩師の心を いだきていざ征け
  
  この人生 広宣流布に 捧げたる
    無上の誇りは 永遠に薫らむ
  
  武蔵野の 大地を舞台に 法戦の
    歴史を綴りし 君らは尊し

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