Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川県本部長の集い 「長者の城」を宝珠で飾れ

1986.5.11 「広布と人生を語る」第8巻

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1  本日は「母の日」である。一家において、母親の存在はまことに大切である。よく”母さえ健在であれば子は育つ”といわれるが、地味であっても偉大な役割を果たしているのが母親である。
 さらに婦人部の皆さま方は、夫を守り、子どもを育て、忍耐強く、日々の家事をこなしながら、そのうえで法のため、人のため、大勢の友の悩みを解決するために、日夜奮闘されている。まことに、言葉では言い尽くせない尊い姿であられる。ただいま、私は御本尊に、この広布の母たち一人ひとりに対し、最大の誉れと無量の福運を与え給うことを、心より祈念させていただいた。
 そして、せめてもの真心として、妙法広布に励んでおられる全国の母親の皆さまへ、本日朝、詠んだ一首を贈りたい。
  母の日に 華を捧げん 祈るらむ
    長者の城をば 宝珠で飾れと
2  平易な指導の名人に
 戸田先生は人生の達人であられた。また指導の名人であられた。日蓮大聖人の仏法は、まことに深遠であり、難解の法である。その仏法を戸田先生は、つねに庶民にわかりやすい言葉で語ってくださった。まことに要をえた平易な説き方で、私どもに感銘深く教えてくださったのである。その洞察力に満ちた先見性は、いわゆる”コロンブスの卵”といってよい。
 戸田先生はつねづね「むずかしく話すことはやさしい。わかりやすく話すことはむずかしい」ともいわれていた。そのお話どおり先生の指導たるや、まことに闊達自在であり、聞く人の骨の髄までしみこみ、生命の底から納得せしめる言々句々であった。その絶大なる指導力に、私はほんとうに感服したものである。
3  大衆が主役の現代においては、いかなる分野にせよ、”わかりやすい”ということが大切な価値であり、時代の要請となっている。わかりやすい政治、わかりやすい経済、わかりやすい科学等々、大衆が理解し納得しやすいことが重要視されているといってよい。
 いわゆる学者きどりで、庶民から遊離し、独りよがりの難解な言葉をもてあそぶような論調では、もはや人々から受け入れられないことを知らねばならない。
 その意味においても戸田先生の指導は、時代を先取りしたものであったといってよい。いずこの世界にせよ、いかにわかりやすく、いかに民衆の心をとらえていくか――その時代の潮流をふまえて進むとき、次代のリーダーシップをとることができることはまちがいない。
4  戸田先生は教学試験の前後に、よくおっしゃっていた。たとえば、共産主義において、あの難解な『資本論』を、どれだけの民衆がほんとうに理解しているか。納得しているか。おそらく数多くはいないのではないか――と。
 さらに「大聖人の仏法は、共産主義の哲学にくらべても、はるかに深遠であり、難解である。しかし、それを世界の人々に教え、弘めていかなければならない。要するにどれほど民衆に広く深く理解させ納得させえたかが、すべてを決定する」と述べておられた。
 その点からみれば、今日、このように世界各国で多くの人々が御本尊を受持し、大聖人の仏法を心から信奉し弘通している姿は、いかにわかりやすく法を説いていくかに心をくだかれた戸田先生の指導力に、大きくあずかっている。また、戸田先生の指導が正しかったことの証左であると信ずる。
5  また、かつて戸田先生は「提婆達多は男のヤキモチ、竜女は女のヤキモチをあらわす」と話された。
 また、戦後日本の解放に貢献したマッカーサーを、妙法流布を守護する「梵天」にたとえるなど、仏法上の用語をその本質を正確に把握しつつ、現実生活のうえでわかりやすく展開し、教えてくださったのである。
 次元は異なるが、御本仏日蓮大聖人も、門下に与えられた御抄のなかには、ひらがなをまじえておしたためになっているものが数多くある。それは対告衆である庶民に、わかりやすいように、との甚深のおはからいではなかったかと拝する。
 それをのちに五老僧は、ひらがなゆえに御書は価値が低いと非難している。しかし、こうした考えは、民衆救済の仏法の本義からみれば、的外れの暴言といわざるをえない。いかなる大法であっても、民衆が理解できないものであったならば、人々を救うことはできないからだ。それでは結局、無慈悲となってしまうのである。
 また、大聖人の仏汝の根本は「南無妙法蓮華経」の一法である。そして「南無妙法蓮華経」の唱題行という末法今時の修行は、だれにでも容易にできる修行となっている。
 ともあれ、いかに平易に、わかりやすく法を説き、より多くの人々を仏法へと導いていくかが大切なのである。
6  御書に「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」と仰せである。
 日蓮大聖人を誹謗し、また尊き仏子である妙法の信者を軽賤する者は、かならずや破滅し、身をほろぼしてしまうとの厳しき御教示である。
 学会にあっても、幹部でありながら退転し、悪意から妙法の同志を非難した者がいた。御教示に照らし、彼らが敗北の人生を送りゆくことはまちがいない。
 こうした退転者をみて思うことは、彼らが共通して会長職など学会の要職へ強い野心をいだいていたことだ。その根底には、提婆と同じく”男のヤキモチ”があったといえよう。
 かの五老僧もまた、退転と破道の原因に、日興上人への嫉妬があったといわれている。こうした姿をみるにつけ、戸田先生が「男のヤキモチのほうが女のヤキモチより恐ろしい」といわれていたとおりであると思わざるをえない。
7  先ほど神奈川文化会館の前の山下公園で、未来の指導者にと期待する神奈川の「鳳雛池田会」のメンバーと記念撮影をした。そのさい公園内や路上で、幾人もの人から会釈をされ、多くの学会員の方がきておられることに驚いた。四年前になると思うが、信州の上高地に行ったことがある。ここには学会員はいないだろうと思って歩いていたら、そこでも二人の会員にお会いした。どこに行っても学会員がおられると驚嘆したし、うれしくも思った。
 そうした姿をみるにつけ、大聖人の仏法の時代が、刻一刻と、静かに、深く広がっていることを痛感している。
8  組織のなかに信心の血脈
 戸田先生は「自分だけ、そっと御本尊を拝んで、学会活動即信心活動をしない、御本尊の大功徳、偉大さを人々に教えようとしない人は、いわばネコが台所で残った魚を自分だけで食べているような卑しいものだ」と厳しくいわれていた。
 また牧口先生は「座談会にも出ないで同志を批判し、怨みながら御本尊を拝んでも、それは”裏口信仰”である。そういう卑屈な信心では功徳がない」といわれていた。
 一人だけという信心はありえない。自行化他にわたる正しき仏道修行のためにも、たがいに切磋琢磨していく組織が重要となることを数えられたものといえる。
 また「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」の御金言を拝し申し上げたい。
 日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった「正信会」も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。すなわち「信心の血脈なくんは法華経を持つとも無益なり」なのである。
 日蓮正宗を信奉し広布に挺身する創価学会には、「信心の血脈」が脈動している。また、組織のなかで信心活動に励むところに、信心の血脈があると確信する。
 たしかに組織には、一人のみの活動と違って制約を感じたり、自由が束縛されるかのように思われる場合もあるだろう。また多くの人と共に進んでいくがゆえの、さまざまの苦労や悩みがあるかもしれない。
 しかし、広布と信心のための組織は、成仏と幸福境涯をもたらしゆく「信心の血脈」への、いわば”懸け橋”といってよい。それを途中で離れ、一人だけで信心をしていこうという人は、独りよがりの信心となり、いわゆる我見の信心へと流されてしまうのである。
9  法のため、人々のために仏道修行に励んでいくことは大変なことである。しかし、そのための苦労や悩みは、すべて菩薩の行となり、そこにこそ成仏の大道が開けていくのである。それぞれの立場で、広布のために自らを惜しまず活躍しておられる皆さま方は、自分はいっさいが広宣流布に通じる信心をしている、自分の信心は、日蓮正宗の法水写瓶が血脈の信心につらなり、仏意仏勅の道を歩んでいるのだ、ゆえに、成仏はまちがいない、諸天の加護がないわけはない、と確信をしていただきたい。
 一生成仏の途上において、なんらかの宿命により、また凡知を超えた深い理由によって、一見、幸福ではないように見える姿があるかもしれない。しかし一時的な姿や外見だけでは、その人の深い幸、不幸の内面をはかることはできない。病気になった、早死にした、あるいは生活が裕福ではない等々、外観や一時の姿のみを見て、その人の信心を判断することはできないものだ。信心は長い目でみていかなければほんとうの姿はわからないし、人がうらやむような財産や名聞名利に恵まれていても、心のなかは地獄のような苦悩に満ちている人が大勢いる。
 御書には「秘とはきびしきなり三千羅列なり」と仰せである。
 仏法の深き眼からみるならば、一念三千の「一念」、つまり信心の「一念」がどこに定まっているか、それによってのみ真実の幸、不幸のいっさいが決まっていくのである。どうか、この法理をよくよく銘記していただきたい。
 広布に生きゆく皆さま方の、信心の「一念」は、自身の無量の福徳の因となって、自らを功徳で飾っていくのである。とともに、それは、お子さま方へ、さらに孫へ、ひ孫へと、世々代々つらなっていくのである。これが大聖人の仏法の、ありがたき原理なのである。

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