Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「富士美術賞」第一回授箕式 父母のごとく会員を大切に

1986.5.9 「広布と人生を語る」第8巻

前後
1  さまざまな意味において、信濃町の学会本部は、まことに不思議な場所にあると思う。信濃町のくわしい歴史については、これまでにも申し上げたことがあるが、名前ひとつとっても”信の濃い町”と読め、私どもにとってはなにか宿縁のようなものを感ずる。
 また、この周辺は日本の中心である東京の、そのまた中枢地域であり、皇居、迎賓館、東宮御所などがある。また神宮外苑、新宿御苑などもあり、都内でももっとも緑に恵まれた環境にある。かりに、体の具合が悪くなったらすぐ近くに慶応病院がある。(笑い)さらに国立競技場などスポーツ、文化の施設が集まっている。
 信濃町と周辺の地には、ゆかりの文化人等、各界の名士も多く、文化の薫り高い場所であり、交通の便もよく、多くの点からみて、まことに地の利を得た場所であると思う。都内でも一等地といってよく、戸田先生は、よくぞ本部をこの地に選定されたものだと、深い感動と意義を覚えるものである。
2  日蓮大聖人の時代は、鎌倉が日本の中心地であった。大聖人は、その政治、経済等の中枢の地で、末法広宣流布の火ぶたをきられたわけである。ありとあらゆる難と迫害を受けられながら、いちばんの肝心かなめの地、急所ともいうべき地で、法戦を展開されたのである。
 それと同じく、私どもも、政治、経済、文化等あらゆる意味で日本全体の縮図であり、中心地である、この東京に本部を置き、広宣流布の活動を堂々と社会に展開しているわけである。
 多くの宗教団体は、この中枢から外れ、東京以外の地、また東京でも中枢以外の地に居を構えている。
 仏漁の「俵正不二」の漁理からみても、国土、環境というものには重要な意義があるといえよう。長き広布の未来を展望するとき、信濃町に本部があることの意味は、時とともに大きくなってくることと思う。
3  私のお願いは、きょう集った皆さま方は、仏子であり、また日蓮正宗の信者として弘教に励んでおられる尊い会員の方々に対して、ある場合には父として母として、またある場合には兄として姉として接し、後輩の皆さま方を強く、また優しく励ます指導者であっていただきたいということである。
 いうまでもなく、そうした会員の方々がいなければ広宣流布はできない。ゆえに、かりそめにも、もっとも大切な仏子である会員の皆さま方を手段にしたり、権威のうえから叱ったりするようなことがあってほならない。責任と使命のうえから、その人の立場に立って指導することはとうぜんであるが、たんに組織の上下関係のうえからその人を萎縮させたり、しばるようなことがあっては絶対にならない。
 後輩の人々がいればこそ、私たちの指導者としての立場があることを忘れてはならない。あるいはまた、信心をしていない謗法の人々がいるがゆえに、私どもは折伏という仏道修行に励むこともできるわけである。その意味でまことにありがたいことだといわなければならない。
 そういう広々とした境涯で、少しでも仏の境界に近づいていけるような心で、これからも信心修行に励んでいただきたい。
4  戸田先生は、人生の、また人間としての生き方を教えてくださった、偉大な師であられた。その戸田先生が、晩年、「ともかく人生は強気でいくのだ」とよくいわれた。
 たしかに弱気の人は、いつも愚痴をこぼしたり、なんとなく暗く、沈みがちである。そういう人のところには、批判や愚痴の人は集まっても、明るく生きいきとした人は集まってほこない。要するに、退転しそうな人しか集まらない存在になってしまう。
 しかし、広布の使命に生きる私たちは「ほんとうにあの人のように、しっかりとした躍動の人生を歩んでいきたい」「あの人のあとに続いて、強盛な信心をしぬいていきたい」といわれる存在でなくてはならない。それを戸田先生は”強気の存在”といわれ、そうでなくては人々はついてこないといわれたのである。
 もちろん、強気といっても、いばるということではない。強い確信という意味にもなるし、結局は強盛な信心といえると思う。

1
1