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日蓮大聖人・池田大作

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関西婦人部白樺会勤行会 強く優しき白衣の慈母たれ

1986.5.4 「広布と人生を語る」第8巻

前後
1  小学校四年生の頃だったと思うが、眼病を患い、東京・大田区の病院で手術を受けたことがある。初めての経験であったせいか、子供心に深刻な恐怖心を覚えたものである。
 そのおり、看護婦さんがまことに優しく、またときに力強く、私を励ましてくれた。その励ましで、どれだけ心やすらぐことができたことか。いまもって、そのときの凛々しき白衣の姿があざやかに脳裏に残っている。
 そうした経験から、人間にとって心が弱くなっているとき、病んでいるとき、また苦しんでいるときに、”励まし”がいかに大切であるかを痛感する。心からの励ましは、一言であっても、その人の生涯を変えることがあるものだ。
 また、こんな話を聞いたことがある。子供を亡くした若い夫婦がいた。そのとき、夫婦に対してある若いリーダーは「また産めばいいじゃないか」と言ったという。しかし、ある年配の指導部の方は、悲しみに沈む二人を抱きかかえるように、親身になって納得できる激励を重ねた。若い夫婦は、そのあたたかい励ましに、一生涯の恩義を感ずるほど勇気づけられたという。
 ともあれ、皆さま方は、社会的にも人道的にも”慈母”のごとき存在であり、”天使”ともいうべき使命をもった方々であると、私は信じている。また小学校四年のとき以来、そのことが実感として胸に深く刻みこまれている。
 どうか、これからの”よき人生”と”よき道”を健気に歩んでゆかれんことを心から祈ってやまない。
2  法華経では「不改本位の成仏(九界の衆生が各自の本来の位を改めることなく、そのまま即身成仏すること)」や「婆婆即寂光(凡夫の住む婆婆世界がそのまま寂光土であり、本有常住であること)」等の法義が説かれているが、御本尊を受持した私どもは、どこまでも自分らしく生きぬいていけばよいのである。また現在、自分がいる場所こそ、広布と一生成仏のもっとも大切な
 現場である。
 大聖人の仏法にあっては、成仏といい、広宣流布といっても、けっして遠くにあるのではない。自分が今、生活し働いている場で、どう信頼を勝ちえていくか、どう理解の輪を広げていくか。また自分が住んでいる地域で、どのように友好関係を結び、仏縁を結んでいけるか――。妙法受持の人の振る舞いによって、また社会との信東のつながりによって、広布の環境はいっさいが決定されていくものだ。
 要するに、職場であれ地域であれ、いずこであれ、自分の存在する場所こそ、仏道修行と広布推進の場なのである。その意味において、自分のいるこの場所こそ、一生成仏と広布の労作業の現場であることを深く確信していただきたい。
3  関西婦人部白樺会の誕生を祝して、次の歌を贈らせていただく。
  凛々しくも 天使のごとく 白衣着て
    菩薩と讃えむ 君らの姿は
  病める人 苦しき人に 笑みたたえ
    強く 優しく はげます姿よ
  白樺の ロマンの庭に 芯つよく
    人びと だきしめ 慈母の君らは
4  19860505 「創価後継の賞」授賞式現代社会で菩薩の使命を
5  霊鷺山での法華経の会座には、文殊師利菩薩、観世音菩薩、薬玉菩薩、月光菩薩、弥勤菩薩等々、偉大なる力と徳とをそなえた菩薩が八万人も参集したと、序品に記されている。
 私もかつて霊鷲山を訪れたことがあるが、現実のかの地に、実際にそれだけの人数が集まることは、物理的に不可能であり、その意味では釈尊の己心の菩薩衆とも考えられる。
 八万という数には多数、あるいは無数という意義がある。要するに、衆生を救いきっていくための、各自の使命をもった個性豊かな菩薩衆が数多く、無数に集まってきたということである。
 これらの菩薩たちは懸命に戦った。菩薩とはいうまでもなく、正法を護持して、自らも行じ、また弘通しながら、自他ともの成仏をめざして進んでいく位である。釈尊の弟子である菩薩たちも、インドをはじめとして広く釈尊の仏法を弘め、広宣流布に大活躍して歴史に大きな足跡を残していることはご存じのとおりである。
 しかし、彼らはみな「迩化の菩薩」にすぎない。現在、この未法という五濁乱漫の、衆生も国土も濁り、思想も乱れた最悪の時代にあっては、「迹化の菩薩」ではなく、「本化地涌の菩薩」が活躍する時なのである。
 すなわち、未絵の御本仏日蓮大聖人は、内証の辺では久遠元初の自受用報身如来の再誕であられるが、外用の辺では上行菩薩の再誕であられる。上行菩薩は本化地涌の菩薩の上首である。
6  私どもは、その地涌の菩薩の眷属として、末法の現代に生き、社会のなかで活躍している。大聖人の南無妙法蓮華経という大法を受持・信行しゆく「自行」とともに、その大法を弘めゆく「化他」の実践に励んでいる。
 つまり、それぞれが社会のなかで、自らの隆行のため、また社会に貢献しゆくために、さらには広宣流布に貢献するために、日夜、信心を根本として活躍しているわけである。
 これらは、成仏への道を開きゆく仏道修行となる。と同時に、いっさいが広宣流布に通じていくのである――そのことを深く自覚していかなければならない。
7  信心をしていない人は、それなりに自分のため社会のために生きているとはいえ、その次元だけにとどまっている。
 しかし、妙法を唱え、信心の大道に連なった私どもの活躍は、すべて広布に通じ、成仏に通じているのである。
 それゆえに法のため、人のため、社会のために貢献しゆく活動を推進している皆さま方は、最極の成仏の直道と、最極の社会貢献の道を歩んでいることを自負していただきたい。
 信心をしている人と、していない人とは、たとえ表面的には同じように見えても、私どもは広布という最極の人類貢献の道を歩んでいるがゆえに、根本的に深さも影響力もまったく異なる。それは結局、信心している人と、していない人の、使命感の違い、すなわち人生観の浅深によるといってよい。
8  私が創立した創価学園の卒業生が、凛々しく成長し、社会のあらゆる分野で活躍しているようすを、しばしば耳にする。先ほども医学の道に進んだメンバーが百数十人になったと聞いた。こうした学園出身者の活躍は、まことにうれしいかぎりである。わが”学園”を卒業された諸君は、私のもっとも信頼する友であり、わが子のようにも思う大切な存在である。また、真実の平和をめざす共戦の同志、仲間ともいえよう。
 その諸君たちが、成長の姿でこうして集いあったことに、私は深い感慨を禁じえない。
 かつて、数多くの同志に恵まれ、私は”日本一の幸福者”と申し上げたことがある。が、きょう、諸君にお会いし、私は”世界一の幸福者”である。諸君の真心と活躍に、あらためて感謝したい。
9  後継の使命を自覚し広布の大道を
 私の行動の眼目は、若き世代のために、広布と幸福への道を開き、伝えゆくことにある。この大目的にくらべれば、低次元の批判や名聞名利などは、まことにささいなことにすぎない。これまで幾度も申し上げてきたとおりである。恩師戸田先生のお気持ちもそうであったにちがいない。
 戸田先生は「同志の歌」のなかで「我いま仏の旨をうけ」と歌われた。私も、日蓮大聖人の御遺命のために、微力ながら尽力してきたつもりである。
 そのあとで戸田先生は「拾つる命は 惜しまねど 旗持つ若人 何処にか」と詠まれている。
 私も、法のため、また後世のために、命を惜しまず、さらに前進していく所存である。しかし、後継の人の活躍がなければ、いかなる大法も後世に伝えることはできないし、また妙法の広宣、弘通もありえないことは、とうぜんの理である。その意味で私は、この「同志の歌」をつねに心に思いうかぺながら、今日まで戦ってきたつもりである。
 どうか諸君は、後継の使命を自覚し、いかなる苦難に遭おうと、妙法広宣の大道を生きぬいていただきたい。
 その過程に、多くの苦難があることは、いうまでもない。しかし、人生は一編のドラマのようなものだ。苦労こそ、人生というドラマのもっとも劇的な要素であり、ハッピーエンドへの不可欠な道程である。
 諸君は”人生の名優”としで、すばらしき自身のドラマと歴史を築いていっていただきたい。
 ともかく諸君の前途は長い。ゆえに信心だけは絶対に失ってほならない。勤行を地道に実践するということは、大変かもしれない。また厳しく感ずるときもあるかもしれない。信心をしていない他の人たちとくらべて学会活動もあり、自分たちのほうが大変のように思えるかもしれない。しかし、尊き使命の人生を生きぬいた人は、同じ七十年の人生であっても、五十倍、百倍も深い人生、自分を生ききったことになるのである。まことに大聖人の教えはありがたいのである。
10  三世の生命からみるとき、今世にあって、菩薩の使命として、法のため、広布のためにどれだけ活躍したか。また、人々のため、社会のために、どれだけ尽くし、貢献したか。その活動に応じて、生々世々、常楽我浄の人間道を生きることができるのである。
 生々世々と変転していく生命にあって、やはり人間として生を受けることが最高である。しかし、仏法の因果律は厳しい。中途半端な信心では、今世にあって一生成仏が叶わず、二生、三生と、修行を重ねなければならないのである。
 また退転してしまった人は、地獄の境界とならざるをえない。経文にも多くの地獄の姿が説かれているが、火炎に焼きつくされるような苦しみ、酷寒にさいなまれる苦悩、あるいは、あたかも列車とレールの間でつぶされるような苦痛など、さまざまな地獄のような境界となってしまうわけである。
 やはり、信心は三世論でみていかないと、今世の修行の苦楽の意味はわからないことを知ってほしい。
 どうか、妙法の大法、御本尊への信心だけは、どのような境遇、立場になっても、護持していただきたい。そして、社会の各界で自分らしく、桜花爛漫の青春時代を生き、人生を送っていただきたい。

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