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日蓮大聖人・池田大作

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「5・3」記念関西代表幹部会 妙法の道を、平和と文化の橋を

1986.5.3 「広布と人生を語る」第8巻

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1  親愛なる関西の皆さま方と勤行・唱題し、晴れの「5・3」を迎えることができ、心からうれしく思う。仏祖三宝尊にあつく御報恩感謝申し上げるとともに、御歴代上人に御報恩申し上げたい。また歴代会長に感謝申し上げるとともに、広布の勇者である純真なる全国の同志に心から敬意を表したい。これからも全国会員の皆さまが、ますますご健勝で活躍をされ、ご多幸であられるよう、御本尊に深く祈念させていただいた。
2  広布の聖業は、たいへんな難事業である。そのため皆さま方には多大なるご苦労をおかけするかもしれない。しかし、広宣流布の達成は、御本仏日蓮大聖人の御遺命であるし、これ以外に末法万年尽未来際にわたり人類を救いゆく確実なる道はないのである。
 その広布の大道を創りゆく運動にあって、私はいわば作業員だと思っている。たまには工事現場の監督という立場になるかもしれない。いずれにしろ、混迷の人間社会に、”妙法の大道”を開き、”慈悲の橋”をかけ、世界に平和と文化の”懸け橋”をつくっていくーそのための労作業に、私はこれからも全力を尽くしていく決心である。
3  撰時抄に「人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となるべしや」との御文がある。
 私どもは、世界の人々の幸せと平和のために、広宣流布という未聞の道をつくり、開きゆく先駆の使命を担っている。その道をつくりゆく作業現場には、寒風の吹きすさぶときもある。白雪が舞いゆくときもある。猛暑のときもあれば、雨の日もある。労苦が多いのもむしろとうぜんであるといえよう。
 しかし、私どもの広布の労作業にあっては、「因果の理法」は厳然と、その是非を明らかにしてくれるのである。かならずや大聖人が見守ってくださり、ご称讃くださるにちがいない。また諸天も加護してくださる。「冥の照覧」を強く確信していただきたい。
 どうか、皆さま方も、大石寺開創七百年、創立六十周年の大佳節をめざし、また”次の七年”の未来に向かって、希望をもって私とともに前進していただきたいことを心から念願してやまない。
4  広布の前進へ、名誉会長という新たな立場に就いてから七星霜――この間、ありとあらゆる苦難が私どもの前進を妨げようと競い起こり、苦しい試練の時が続いたといえる。
 しかし、その間の苦労と懸命の法戦のなかから、何千、何万という若き後継の人材群がたくましく育ってきたことは、まぎれもない事実である。万代にわたる広宣流布の盤石なる基盤が、いまや完璧にでき上がったといってよい。これほどありがたいことはない。
 私どもの信奉する妙法の実践においては、さまざまな難がそのまま、信心の深化と人間錬磨への最高の修行となるのである。ここ数年間のたび重なる大難のかずかずも、すべて御仏智と思うし、こうして広布の大前進がもたらされたことは、厳然たる大御本尊の御加護によることを確信していただきたい。
5  これまでも何度か申し上げてきたことだが、私どもには一閻浮提、すなわち全世界の広宣流布を推進しゆく使命と責任がある。とうぜん世界各国には、それぞれの実情と社会環境があり、それに適合した妙法流布のあり方を、私どもは正しく把握しなければいけない。私はSGIの総責任者として、その点をつねに深く考慮し、思索しながらいっそうの広布の前進を期してきたつもりである。
 各国とも、広宣流布のそれなりの基盤はでき上がったといってよい。しかし、まだまだ完璧なものとはいえない。ゆえに各国の安定した基礎を築きゆくために、私はアメリカをはじめ海外各国をよりしげく訪問し、永遠にわたる妙法流布のために正しき信心のあり方を指導していく所存である。
 今年は、さまざまな事情もあり、なかなか実現がむずかしいかと思うが、これからは、二か月、三か月と各国に滞在し、その国その国土の平和と繁栄のために働いていきたい。やはりあるていどの長期間をついやさなければ、日本と同じような、またそれ以上の広布の基盤を建設していくことはできないからである。
 このことを、世界広布への盤石な基盤構築のために、この意義深き「5・3」の幹部会の席を借りて申し上げるしだいである。
6  信心で御書を拝す
 私は若き日に戸田先生に師事し、日蓮大聖人の仏法を教えていただいた。
 戸田先生はまさしく私どもの人生の師匠である。このことはだれびとがなんと言おうと動かぬ事実であり、その一点に創価学会の強みがあることを断じて忘れてはならない。
 今日にいたるまで、学会を撹乱する者があとを絶たなかったが、しょせんはみな謗法の徒であり、退転の徒にすぎない。にもかかわらず、彼らの言に紛動され、根本である広布への道を踏みたがえ、忘れたりしてしまっては大なる誤りであるといわざるをえない。
 戸田先生から御書を学ぶたびに実感したことは、信心が進めば進むほど、御書がつねに新鮮な深い感動をもって胸に迫ってくるということである。
 それに対して、御書を「信」なくして「理」の次元でのみ拝し、あるいはまた、自分が人よりも優れている、頭がいい、といったことを誇りにしようと思って学ぶようなことであれば、それは、およそ信心とは遠くへだたったものであり、そこにはなんの感激もなければ感動もない。
7  大聖人の仏法以外にも、仏教の各派はもとより、さまざまな仏教思想、哲学がある。インド哲学、比較思想・哲学など、種々の分野に数多くの仏教学者、研究者もいれば、哲学者、思想家もいる。
 その知識というものはそうとうなものかもしれない。しかし、結論していえば、大聖人の仏法からみれば、それらはすべて”迷路”であるといってよい。そこには、生命への確固たる解答がないからだ。
 これに対して、大聖人の仏法は、申すまでもなく絶対の”悟り”の法門である。完璧に三世に通暁なされた御本仏の御境界のうえから、人生の結論ともいうべき成仏の直道を明かされた”悟り”の大法なのである。
 その大法を信じ奉り、御本仏の言々句々である御書を根幹としての信心であるべきことを深く銘記していただきたい。
8  御書に「或時は人に生れて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成つて是れ程のたのしみなしと思ひ少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持ち奉り速に仏になるべしと説き給へり」と仰せである。
 仏法の、まことに深く幼い洞察であり、人間観、人生観であると拝する。人間と生まれて、どんなに社会的地位を得、権力を握り、名利と名聞でわが身を飾ろうとも、それらは無常をまぬかれえない。
 しょせん、「夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみ」なのであると大聖人は断言されている。
 すなわち「唯法華経を持ち奉り速に仏になるべし」とあるように、成仏以外に、真実の崩れざる絶対的な幸福はない。御本尊を受持し奉り、自行化他にわたる題目を一心に唱えきっていく人生の歩みのなかにしか、三世常恒にわたる幸福の実像を築いていく道はない。つまり、妙法によってのみ、生命の充実と歓喜を永続的に勝ちえていくことができる、との仰せなのである。
9  ゆえに、大法を護持していながら、うつろいやすき、目先のさまざまな現象に紛動されることほど愚かなことはない。表面的な華やかさや気楽さを幸福と錯覚したり、うらやんだりする必要もない。それらはしょせん、「夢の中の人生」「幻のごとき幸福」であるからだ。
 それに対し、正法広布ひとすじに進みゆく私どもの人生は「寤の人生」であり、「常楽我浄の幸福」への歩みなのである。
 つまり、信心の労苦、広布の労苦はそれじたいが、そのまま無上の大歓喜となり、「無量の福運」となっていくのであり、かけがえのないわが人生に、深き価値と意義とを刻みつつ、「無辺の福徳」を積んでいけるのである。
 どうか、皆さま方は生涯、御本尊の無量の功徳につつまれながら、自身の生命の宮殿をかぎりなく開きつつ、最高の人間道である、この信心の道、広布の道を、どこまでも堂々と、誇らかに歩みとおし、すばらしき一生を飾っていっていただきたい。

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