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「立宗宣言の日」記念勤行会 「八風」に揺るがぬ信を

1986.4.28 「広布と人生を語る」第8巻

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1  東洋哲学研究所の発展を期して
 本日は「立宗宣言の日」であり、皆さま方とともに厳粛に勤行・唱題し、末法の御本仏日蓮大聖人に御報恩謝徳申し上げた。
 東洋哲学研究所の構想発表は、昭和三十六年二月である。この年の二月、私は、総本山第六十六世日達上人をご案内申し上げ、インドの釈尊成道の地・ブッダガヤーを訪れた。このインド訪問で、私が痛感したことは、アジアの人々に日蓮大聖人の御書をそのまま説き聞かせても、大聖人の仏法の本義を理解できないだろうし、すぐには流布できないだろうとの思いであった。
 アジアの国には小乗の国もあれば、イスラム教を信じている人も多い。また、さまざまな哲学、思想があり、伝統的な文化、さらに風習等がある。そうした国々や人々に対しては、どうしても絶待妙の立場から包容し、止揚していかねは、大聖人の仏法を理解させ、広布の道を開いていくことはできないのではないか、ここに、東洋広布におけるひとつの課題があると思ったのである。
 その意味で、東洋哲学研究所を設立、研究を通しながら、思想、哲学、宗教の浅深高低を納得性をもって理解させ、大乗仏教の極致たる南無妙法蓮華経の大聖人の大仏法へと会入していく序分としたい、また大聖人の仏法の流通分としていきたいと考えたのである。つまり、正法を基調とし、妙法流布のために、学術機関として創立されたのが、東洋哲学研究所の出発だったのである。ゆえに、けっして学問のための学問であってほならないし、また「有解無信」の立場から「無解有信」の人々を軽蔑し、ないがしろにしていくようなことがあってほならないと申し上げておきたい。
 昭和三十七年一月の設立以来、すでに二十四星霜の歴史を刻んできた。この間、同研究所の発展に尽くしてくださった方々には心から感謝申し上げたい。そして、このたび、創価大学の敷地内に、新たに東洋哲学研究所が移転し、第二段階への出発となるが、今後の多大な研究の成果と発展を深く念願するものである。
2  人の心は、時としてうつろいやすく、卑しく、疑い深く、また弱く、情けないものでもある。まさに、御書に仰せのとおりであると痛切に感じられてならない。
 しかし、この七年間で創価学会は正義と勝利の証明をした。いっさいを乗り越えて勝った。これは、大御本尊への祈りが、宇宙、諸天に感応したともいえるし、また、「無解有信」の無名にして尊くも大切な同志が、嵐に耐え、一生懸命、愚直に戦いぬいた結果であり、その信心の祈りが今日の広布の推進力となってきたとも思える。
 インテリといわれる人たちは、要領よく立ち回り、ひとたび窮地に陥ると他者のせいにし、保身にはしりがちである。しかし、そうした才知では一生成仏することは絶対にできない。舎利弗をはじめ釈尊の時代のいわゆるインテリも、最後はぜんぶ「妙法」に対する「信」によって成仏している。
 学術部やドクター部、また東洋哲学研究所も、広宣流布という目的と「信」を忘れては断じてならない。私はこの一点を強く申し上げておきたい。
3  戸田先生は、まことに信心に透徹された、文字どおり人生を達観された指導者であった。その先生が当時、まず私たちに訴えたことは「信心は大聖人の時代に還れ。教学は日寛上人の時代に還れ」ということであった。
 そして当時の門下生は、その指導のままに戦った。大聖人時代の信心で戦いぬいたのである。妻子をも顧みず、名聞名利もすべてなげうち、そのうえ人からはさまざまに悪口罵言されながらも敢然と戦った。そうした無名の学会員の方々の、魂、努力、そして身命を賭しての実践が土台となって、今日の盤石なる学会が築かれたのである。そのことを絶対に忘れてはならないと私は思っている。
 その広布の無名の先駆者ともいうべき同志の方々を守りぬいていく決心で、今日まで私はどんなことにも耐え、戦いぬいてきたつもりである。私が守らなければだれが学会員を守ってくれるか――それが私の変わらざる信念であった。
4  「八風抄」を拝して
 大聖人が四条金吾に与えられた御手紙のなかに「八風抄」(四条金吾殿御返事)という有名な御書がある。皆さんもこれまで何度も拝読してきた御書と思うが、この意義ある日に再び拝しておきたい。
 「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり
 この御聖訓に仰せのように、創価学会は「八風」におかされずに広布に邁進してきたからこそ、諸天善神に守られてきたのである。それが、代々の会長の実践であり、真実の学会員、地涌の菩薩の眷属の姿であるといってよい。
 それをもし八風におかされ、名聞名利に走り自分の利益にとらわれて、学会員や組織を利用するようなことがあれば、諸天善神は守ってくれないのである。未来のためにもそのことを強調しておかねばならない立場にあるがゆえに、私はあえて申し上げるのである。
 この御手紙をいただいたころ、四条金吾は同僚から「主君を軽んじている」等と讒言され、苦境に陥っていた。今また、広布を推進する私どもに対し、讒言はもとより、裏切り、作り話等々、それは言語に絶するものがあった。時代と人々の心は、いよいよすさみ、社会全体もそうした風潮に流されているといわざるをえない。それはともかく、当時苦境にあった四条金吾に対して大聖人が御指南されたのが、この「八風抄」である。
5  ここに説かれた「八風」とは、人の心をよく動するゆえに「八風」と名づけるのである。このことは経文にも示されている。
 「八風」は、利・誉・称・楽の「四順」と、衰・毀・譏・苦の「四違」に分かれる。
 「四順」とは、人々の心をひきよせる楽しみのことである。「利」とはいろいろな利得、「誉」は陰での称讃を表し、また「称」は面前でのたたえ、「楽」は心身の享楽を意味する。
 一方、「四違」とは、避けがたい人生の苦しみのことであり、「衰」は衰えや損失の意、「毀」は陰口、「譏」は面罵、「苦」は心身の苦しみをさしている。
 こうした「八風」におかされない人こそ、ほんとうの「賢人」である。真実の信仰者の究極の姿が、ここにあるといってよい。
6  また、日蓮大聖人は「八風にをかされぬ人をば必ず天はまはらせ給うなり」と仰せである。いかにはめられ、また、そしられたとしても、あくまで妙法を根本としながら、広宣流布の実践に邁進しゆく人を、諸天はかならずや守護するとの御金言である。とすれば、諸天に守られ、これだけの大発展を遂げた創価学会の今日の姿は、私どもがいかなる難にも屈することなく「八風」におかされなかった証左にはかならないと確信されたい。
 ゆえに、一人ひとりにあっても絶対に「八風」におかされてはいけない。かりに「八風」におかされ、組織や人間関係のささいなことで信心を後退させてしまうとすれば、それはあまりに低次元の境涯といわざるをえない。
 私どものまわりには、心では信心を失いながらも、表面では立派なふりをし、組織や社会をうまく泳いでいるような人もあろう。また、信心なくとも、社会で成功をかちえたようにみえる場合もある。
 しかし、こうした人々をうらやむ必要はまったくない。むしろ、御本尊に守られ、不動の境涯を築いている大きな立場から、退転の人々の無常と不毛の人生を心からあわれみ、信心の激励を重ね、救っていかなければならないのである。
 また、同じく八風抄に「あながちに・わるびれて・みへさせ給うべからず、よくと名聞・瞋との」と。
 広宣流布の法戦にあっては、いかなる難に遭っても、またいかにそしられようとも、あくまで毅然とした王者の風格で前進していくべきであるとの大聖人の御指南である。
 けっして悪びれた振る舞いであってはいけない。長き人生においては、順風のときもあれば、逆境のときもある。はめられることもあれば、逆に、そしられることもあろう。そうしたことに一喜一憂してはならない。
 ましてや名聞名利や瞋りの心で人生の正道を見失うようなことがあってはいけない。
 著名人と交友があるからとか、自身の仕事はたいしたものであるとか、あたかも自分が偉くなったかのごとく慢心する人もいる。しかし、一生成仏を説ききった仏法の眼で見るならば、それらはまことにはかなく、小さなことにすぎない。
 どうか皆さま方は、煩項なことに紛動されることなく、堂々と”広布の王道”を進んでいただきたい。
7  不動の信念の人生を
 「身動揺せずして三昧に入る」(妙音菩薩品第二十四)との法華経の経文について、御義口伝では「此の文は即ち久遠を悟るを身不動揺と云うなり惑障を尽くさずして寂光に入るを三昧さんまいとは云うなり所謂南無妙法蓮華経の三昧さんまいなり」と御教示されている。
 ここで「久遠を悟るを身不動揺と云うなり」との御文について、私どもの実践のうえから拝するならば、御本尊に対し奉り、久遠の妙法を唱えぬいていくことである。その結果として、わが生命が久遠元初の南無妙法蓮華経、本有常住の妙法の当体であると開覚することができるのである。すなわち、たとえ、いかなる時代になり、いかなる困難な事態に遭遇したとしても、いささかも動揺することなく悠々と、自行化他にわたる題目を唱えに唱えぬいていける強盛なる大確信の信心の境地、これが「身不動揺」なのである。
 次下に「所謂南無妙迭蓮華経の三昧なり」とあるように、ここに日蓮大聖人の仏法の「三昧」があり、究極の信心の境地があるといってよい。すなわち生命のもっとも根底からの、絶対的な安心立命の境涯である。その「身不動揺」の「三昧」の境涯をわが生命に開き、確立していくことが仏法の極意なのである。このことをよくよく銘記していただきたい。
8  たとえ今、難があったとしても、多くは、悪口や中傷、誹謗ていどのものである。そうした難で動揺し、自身の信念を曲げ、同志を裏切っていくなどということは、人間としてもまことに情けない卑劣な生き方である。
 まして仏法の偉大さを教えてくれた学会の恩を忘れ、自らのエゴと慢心のうえから批判し敵対するにいたっては、畜生界にも劣る所業といわざるをえない。
 また今、私の時代のうちに、あらゆる「難」をうけ、未来へ向けていっさいを磐石にしておきたいと念願している。そのために何十年先、何百年先までの広宣流布への手を打っているつもりである。
 ともあれ、私どもの実践はいっさい、広宣流布のためであり、一生成仏のためである。わが身のみならず、悩める友のために尽くしきっていく尊き人生なのである。
 世界には、まだまだ無数の不幸な人々がいる。その人々を御本尊へと導き、幸福へと導いていくのが広布の先駆者、リーダーとしての私どもの使命である。その民衆救済への慈悲の行動のなかにこそ学会精神があり、また御本仏の心にかなう実践があると信ずる。

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