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日蓮大聖人・池田大作

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創刊35周年記念「聖教文化賞」授賞式 真の信念は御本尊への信仰

1986.4.20 「広布と人生を語る」第8巻

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1  聖教新聞は、広宣流布の推進のために誕生した、世界第一の新聞である。誕生して、早くも三十五年。人間でいえば三十五歳にあたり、意気壮んな働き盛りの時に入っている。ますますの発展を心から祈りたい。
 私は、立場上、多くの世界の著名人をはじめ、内外の大勢の人々に会ってきた。それらの人々には「諸法実相」というか、かならずその人なりの千差万別の姿があるものだ。
 たとえば、お会いして、じつにさわやかな人がいる。風格があり、真実を語ってくれる人がいる。またひじょうに明朗で、そのなかに正しき論理の人がいる。ほんとうに好感がもてる人がいる。これに対して、疑い深い、いやな感じを覚える人がいる。傲慢で、人間性のいやしい、策略の人がいる。
 さわやかにして好感のもてる、真実味のある人と会って別れた場合は、春風に身をつつまれたような、じつにさわやかな思いが残る。世界の一流といわれる人たちとの出会いは、ほとんどがそうであったし、そのときの出会いや話の内容は、一生涯、忘れないものだ。まことに真実の人間の深い心と心の共鳴は、人生の出会いにおける尊い瞬間の一コマであり、劇であるといってよい。
 反対に、ごくまれにではあるが、疑い深い、傲慢な人との出会いは、じつにいやな感じがあとあとまで残るなのだ。そういう人たちを厳しく見ていくと、いつしか人々の信頼を失い、嫌われ、さびしい人生を送っているようである。
2  信心の世界、広布の世界にあっては、人々をして妙法へ導きゆく立場から、つねにさわやかな、信頼に満ちた心と心のつながりをもっていきたいと思う。
 学会内にあっても、退転をし、反逆をしていった人は、やはり、なんとなくいやな思い、信用できない臭みのある感じを与えていた。疑い深く、真実を語れないような人がほとんどであった。過去における僧俗の退転者の姿もまた同じであったにちがいない。
 ともかく、今いかに役職があり、活躍していても、一生涯信心を貫いていくことからみれば、それはまだ一つの過渡期であるといわざるをえない。いかに途中までは功労、功績があったとしても、信心を貫きとおさなかった人は退転者となってしまうのである。
 本日、受賞された皆さま方は、真実の信仰の道を歩んでこられた方々であるし、聖教新聞にとっても、また仏法を守り、広げてくださった点において大功労の方々である。私は、御本尊に、心から感謝申し上げた。
3  仏法では、一日の一心一念の動きは八億四千、すなわち無数であると説いている。暑い、寒い、疑う、喜ぶ、悲しいなどの心の瞬間、瞬間のくり返しである。その総トータル、傾向性が、その人の生命の「我」となり、一生、そして永遠なものとなっていくわけである。
 この 「心」の動きは、自分で止めようと思っても止めることがなかなかできない。それゆえに「心の師とはなるとも心を師とせざれ」との御文のごとく、うつろいやすい自身の「心」を信じるのではなく、「御本尊」を、不変の根本法則である「妙法」を、心の師としていくことが大切なのである。
4  その意味において、朝な夕なに、日蓮大聖人の仰せどおりに「自行化他」にわたる信仰をしぬいた人は、大聖人からおほめいただける最高の人間道、人生道を歩みきった”栄冠の人”である。人間として最極の法のうえに則った、最極の境涯、最極の人生を飾ることができるのである。
 たとえばスポーツの世界にも、勝利しゆくための信念の道があろう。また書道界、角界、棋界にあっても、いずれの道にも、それぞれの格式と信念が存在するものだ。
 しかし、最極にして最高の信念とは何か。それは、御本尊への揺るがぬ信心、信仰を貫きゆくところに存在するものである。
 聖教新聞の第一号で、戸田先生は、このことを他の思想・信念の場合と比較相対しながら論述されている。
 つまり、一時は信念固く不退の人のように見えても、牢につながれ、死の恐怖におそわれるにともない、信念を曲げ、後退してしまうことが、よくある。のみならず、難と苦境に遭遇すると、現在の境遇に不満をいだき、かつての信念の人生を逆に悔いてしまう人も、世間にはいるものだ。
 しかし「妙法」は、三世永遠にわたる絶対の「法」である。ゆえに妙法への「確信」と「信念」は、生死を超えた不退のものでなければならない。
 ――第一号の論文では、そのことを論じているわけである。
 したがって、生涯、御本尊を受持し、広宣流布へたゆまず邁進しぬいた人が、真実の”信念の人”である。
 時とともにうつろい、心を変えていく人が多いなかで、本日、ここに集った受賞者ならびにブラジル、インドのメンバーそして参加者の方々は、信念を貫き、各地、各分野にあってまじめに信心に励み、活躍してこられた方々である。皆さまのこの不退の信念に、私は最大の敬意をはらうものである。
5  色心二法の成仏
 提婆はこころの成仏をあらはし・竜女は身の成仏をあらはす「」と仰せである。
 この御文は、一切衆生が色心にわたって即身成仏できることを示されたものである。
 提婆達多は、表面的には釈尊に随順しているかのように振る舞いながら、陰では反逆の心をいだき、釈尊を殺し、和合僧を破壊しょうとした。
 このように表面的な姿だけではわからないのが男だともいえる。役職があるときは一生懸命やるが、立場がなくなると反逆の「心」を出してわれわれを批判したりする場合がある。
 これに対して、女性は、どちらかというと心が「身」に現れやすいといえるかもしれない。たとえば、目が清らかである。さっぱりしている。理知的である。教養がある。反対に人に嫌われる。傲慢である。軽薄である。みえっぼりである。といったように、さまざまな自身の姿におのずとその人の人格や心というものを映しだしている場合があるものだ。
 「日本国の男は提婆がごとく・女は竜女にあひたり」と仰せのように、「提婆」は男性、「竜女」は女性を代表しているのであり、法華経に提婆と竜女の成仏が説かれていることは、末法の男も女も妙法によって成仏することを示したものである。また悪逆の衆生も、愚痴の衆生も、妙法によって色心にわたって成仏できることを教示したものともされている。
6  その色心二法の成仏を可能にするのが、強盛なる信心にはかならない。そのためには「自行」とともに、広宣流布へと向かっていく「化他」の実践がともなわなければならない。
 「自行」と「化他」の実践は、天体でいぇば自転と公転の関係にあたるといえよう。いわば宇宙の法則、天然の理にかなった姿である。また「仏法は道理なり」との法理のうえからも、両者の回転があってこそ事実のうえの前進がある。
 ゆえに絶えざる自行化他の精進にこそ、生命の真実の充実感があり、境涯の拡大があり、また無量無辺の功徳をわが身に集めきっていく幸福の軌道が築かれることを銘記していただきたい。
 たとえ、組織上また社会的に、どのような立場になり、環境にあったとしても、この「自行化他」の着実な歩みを止めてはならない。この原理は大聖人の仰せであるからである。
 その「自行化他」の前進をしていくために学会の実践と指導がある。したがって「或は身はをちねども心をち或は心は・をちねども身はをちぬ」というように、この正しい道から外れてしまうと、成仏への前進はできなくなってしまうのである。
7  我慢偏執は退転の困
 退転しゆく人の心は、要するに「我慢偏執」であり、「エゴ」なのである。広布の偉大な前進から自身の成長が遅れてしまい、しだいにだれも相手にしなくなってしまう。ちやほやしてくれる人がいなくなるがゆえに、醜いもがきのなかから、自分で大騒ぎし、あるいはマスコミ等を舞台に名聞名利の演技をくり広げてみせるのである。
 そして自分の堕落と悪を、他者に責任転嫁し、「我尊し」との増上慢の姿を現じるのが常である。このまったくの本末転倒の退転の構図を、どうかよくよく賢明に見ぬいていただきたい。
 もったいない例ではあるが、御本仏日蓮大聖人の時代も、多くの退転の徒、裏切りの徒があった。三位房をはじめとして、当時の弟子門下が、大聖人を裏切り、そのうえ「自分の方が境涯が上である」「自分の方が正しい」「立派である」等々、増上慢この上なしの思いをなしている。これが歴史の事実である。
 まして現代は大聖人御入滅後七百年余、”末法極まれり”ともいうべき世相であり、エゴ、増上慢の振る舞いが横行している。そうしたなか、いよいよ醜い策謀やエゴの動きもあるかもしれない。
 しかし、心して「我慢偏執」にとらわれてはならない。それらにとらわれたときは、躍動する人間としての生きがいが失われ、信仰の深き歓喜が失われていく。そして敗北の人生への軌道をつくってしまうからである。
 皆さん方はどうか未来、陸続と続くであろう後輩の方々から、「さすがに、大聖人の仏法を信じ、行じ、弘めたはんものの信者である」「なるほど見事な勝利の人生の姿である」とたたえられ、仰がれるような人生の総仕上げの模範の歩みであっていただきたいことを念願したい。

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