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日蓮大聖人・池田大作

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東京・北多摩圏ヤングミセス代表者会 夫を支え、子供を立派に

1986.4.11 「広布と人生を語る」第8巻

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1  御書を拝すことの大切さ
 日々の家事等でまことに多忙であり、また育児等も大変ななか、このように真剣に御書の研磨をされている姿を、私は心からたたえたい。エゴと無責任と娯楽の時代ともいうべき現代にあって、幼子をかかえながら、いっしょに数学を学んでいこうという皆さま方の姿ほど尊く、美しいものはない。私は心からご苦労さまと申し上げたい。御本尊、大聖人もかならずや御称讃されていることと思う。
 御書においては「五重の相対」「四重の興廃」「三証」、また「文上・文底」「一往・再往」「総別の二義」「当分・跨節」「教相・観心」等々、さまざまな角度から仏法を明かされているが、その究極は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊にいっさいが帰着するのである。この御本尊こそ末法万年尽未来際までの一切衆生成仏のための根本法であられる。
 この御本尊の無量無辺にして絶対の仏力・法力をいただくのは、一人ひとりの信力・行力によるのであり、純粋にして強き信心が大切になってくるわけである。
 ゆえに、私どもは生涯不退の信心でなければならない。この御本尊を受持し、成仏という目的地まで正しき信心の歩みを運びきっていくなかに、しぜんのうちに甚深の御書の法理にのっとっていけるのである。その正しき信心を実践しゆく基づけとなるのが、教学であることを知っていただきたい。
2  主婦は”一家の太陽”
 ともかく主婦である皆さま方はご主人を大切にしていただきたい。”わが主人こそ、日本いな世界で一番、立派な人である”と確信していくべきである。他の家庭のご主人方を見て、あの人は社会的立場が高いとか、財力がある、いい生活をしているなどと、うらやむ必要はない。
 有名即幸福でも、裕福即幸福でもないからである。大切なことは、ご主人を守り、支えながら、お子さんを立派に育てていくという、平凡といえば平凡なことをやりきっていくことである。その平凡のなかに真実の幸福があることを知らなければならない。
 太陽は、毎日、朝がくれば東天に昇り、夜になれば沈んでいく。たとえ雨や嵐の日であっても、その動きは変わることなく毎日、毎日が同じくり返しである。しかし太陽は、生きとし生けるものすべてに慈光を与え、はぐくんでくれる。
 皆さま方も家庭にあって、朝起きて食事の用意をする。ご主人を仕事に送り出し、子供のめんどうをみる。そして買い物、炊事、洗濯等々、毎日、毎日が、同じことのくり返しの連続であるかもしれない。それは、まことに平凡なことに思えるが、一家にあって欠かせない、もっとも大切な役割を担っているのである。この平凡というなかに、じつは幸福への確かな道がある。ここにご婦人を”一家の太陽”という意義があるのである。
3  一家にあっては、やはり夫人の信心が、ご主人の信心の姿勢、子供の成長にまで大きな影響力を及ぼしていくものである。
 私は立場上、これまで多くの夫婦をみてきた。その経験から一つの結論としていぇることは、ご主人が人間的にも立派な家庭の多くは、そのかげにある夫人が信心強盛であり、また、人生の生き方や生活態度が立派で、しっかりしている。
 反対に、幹部であっても退転した人の家庭をみると、とうぜん本人自身の宿命、信心の問題はあるが、夫人の信心が弱かったり、虚栄心や見栄が強かったりする場合が多い。夫人の信心と生き方の姿勢が、いかに大きく影響しているかを痛感する。
 ゆえに、たとえご主人がどんな役職にある人であっても、ご主人の姿だけでは正しい判断ができない場合がある。夫人を見なければわからないものだ。その意味で、一家の太陽である夫人の存在はじつに大きいことを知っていただきたい。
4  家庭にあって、信心のことで、いさかうようなことがあってはならない。たとえご主人が未入信であったり、信心に理解がない場合でも、妻である皆さま方がしっかり勤行に励み、信心が強ければ、ご主人をもつつんでいくことができるのが妙法の力用なのである。けっしてあせる必要もないし、悲観をする必要もない。長い目でみていけば、ご主人もかならずや信心の方向へと向かっていくことを確信していただきたい。
 また、子供の育て方にはさまざまな考え方や方法はあるが、とくに”叱る”という点について夫婦の対応のあり方の一つを述べておきたい。子供を叱る場合、母親と父親の両方がいっしょになって叱ることは好ましくないと思う。母親が子供を思って厳しく叱った場合は、父親は優しく見守ってあげることが大事である。両親がいっしょになって叱ると、子供を追い込んでしまい、自閉的な性格にしてしまう場合が往々にしてあるからだ。
5  ”さいわい” は心から
 御書に「わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる」との御文がある。
 信心の世界にあっても心が野心と虚栄のみで、口先がうまく、要領よく世を渡り、小利口に振る舞う人間がいた。だが、そうした人は一時的に成功したように見えても、長い目でみた場合、結局は人々から見ぬかれ、信頼を失ってしまうものである。自らの不誠実と虚栄の心によって自ら不幸をまねき、人生を破壊していくのが常である。
 逆に、たとえロべたであっても、誠実でまじめな信心を貫き、真心のうえから語り、行動していく人は、最終的に自分を「さいわい」で飾っていくことができる。人からも尊敬されていくものである。
 短い一節であるが、目に見えない「心」「一念」が、どれほど大切なものか、また人生の幸、不幸を決定していくか、その要諦を御教示された御文であると思う。
 要するに、仏法の世界においては、口のうまさとか、小利口な要領のよい生き方は、まったく必要のないことであり、無縁なのである。そのことを皆さまは賢明にかつ鋭く見ぬいていただきたい。
6  ヤングミセスの皆さま方には、日々、さまざまな悩みやご苦労があるにちがいない。しかし、どこまでも信心根本に、ご主人を守り、支えながら、お子さんを立派に育てていただきたい。そのうえに立って、「法」のために、また悩める人々のために尽くしていただきたい。やはり自分の幸福のみを追求する行き方だけでは、エゴとなるし、自らも成長できないからである。
 その平凡と思える日々の生活、行動のなかにのみ、真実の幸福は築かれていくのである。それを忘れた行き方は、大地から足がはなれ、空中を歩いていこうとするようなむなしい生き方である。独りよがりで、心もとない、不確かなものであり、実像の幸福を築いていくことはできない。結局は行き詰まり、不幸の人生へと流されてしまうであろう。
 その意味において、どうか、どこまでも自分らしく、どこまでもわが家らしく、一歩また一歩と幸福と充実の世界を心に大きく広げながら、所願満足の朗らかな人生を生きぬいていっていただきたい。

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