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「4・2」記念各部代表者勤行会 信心の「心根」措き人に

1986.4.1 「広布と人生を語る」第8巻

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1  御本尊の大慈大悲の御力と、正しい広宣流布の実践と信心のあり方を、さまざまな点から教えてくださったのが恩師戸田先生である。今日の、未曾有の広布伸展の原動力は、戸田先生の指導にあり、とともに、全幹部の方々、さらに第一線で活躍されているすべての学会員が、信心で広布大願に立ち上がったことにある。
 これこそ、全学会員の力であり、全員の功績であるし、その功徳はすべての人々にかおっていくにちがいない。ゆえに私は、皆さま方がいよいよ生命の威光勢力を増しながら、広布の大道を、健康で福運の道を、また人生の勝利の道を開き、歩みゆかれんことを、日々、御本尊に祈念しているしだいである。
2  微妙にして、しかもいっさいを決定づけていく人間の「心」のあり方について、所感を申し上げたい。「心」の問題は、仏法においても、もっとも重要なテーマとして、さまざまに、また深く論じられている。
 御書を拝してもいたるところで「心こそ大切なれ」等と、くり返し強調されている。また「一念三千」「一心三観」「総在一念」等々、「心」の甚深の法理を書きとどめられている。
 仏法で説く、この「心」とは、いわゆる唯心論的な、物質に相対する存在としての「心」ではない。「色心不二」の当体としての生命それじたいという意味である。
 かつて戸田先生は、青年がいわゆるウソをついたりした場合、「その卑しい心が私は憎い」と嘆き、厳しく叱られていたものである。極端な表現かもしれないが「キッネではあるまいし」とも怒られた。「青年ではないか。これから伸びていくべき若き青年が、人にウソをつくなんて、あまりにも悲しい心ではないか」と厳愛の指導をされていた。
 「心」にはじつにさまざまな姿があるものだ。この話のような、卑しい心がある。また、気高き心、豊かな心がある。寂しい心もあれば、朗らかな心もある。謙虚な心、求道の心がある一方、傲慢な心、増上慢の心、畜生の心もあるなど、まことに心ほど無限に変化し、微妙にして多様なすがたを現じるものはない。
3  そうした変化する心の「根」に何があるか、すなわち「心根」が善いかどうかがもっとも大切である。
 戸田先生もよく「心根が大切だ」と教えられていた。指導にあっても、一人ひとりの「心の根」を鋭く洞察、把握し、その人に応じた的確な指導をしていくことが大切であることを教えられたのである。
 信心の「心根」が善いか悪いか。それが大事である。今日の盤石な広宣流布の基盤を永年にわたり築き、尊き礎となってこられた方々もみな、心根が清らかで、心が強く、まじめな方々ばかりであった。
 そもそも、この正法を持ち、正法を弘め、さらに広宣流布への実践を生涯持続しつづけていくことは、立派な心根の人でなければできるものではないともいえよう。
 そうした方々こそ一生成仏への確かなるコースに入る資格がある人である。また見事にゴールインできる人であると思う。やはり、お会いして、「心根」の善い方だなと思う人は、つねに成長しているものだ。ふだんから安心であるし、いざというときに頼れる存在でもある。そうした人に真実の「不退の人」もいるものである。
4  逆に何十年と信心をしながらも、何かの縁で紛動され退転していく人がいる。そうした人々は心の根にあった慢心の心、卑しき心、名聞や名利の心、怨嫉の心等の濁った心が出てきたといわざるをえない場合が多い。
 なんとなく、心の根が腐敗しているような、なんとなく慢心や疑いの心におかされているような、また不安感等が奥底に巣くっているように感じる人は、やはり不安定なものであり、信用できない。
 これからは「心の時代」である。時代というものは、さまざまに変遷していく。今は「物の時代」は終わり、「心の時代」 へ入ったといわれている。それは「仏法の時代」 への序章といってよい。われわれはその時代の先駆を切っているのである。
 その意味でも、根本となる御本尊への「信心の強き心」の「一念」を、けっして濁らせてはいけない。なかには、世間のさまざまな現象や縁に紛動されて信心の心を退してしまう人もいる。役職上のことで高い立場になれたとか、なれなかった等の、いたって低い次元のことにとらわれて、慢心になったり、感情的になって信心の心を濁らせる人もいる。
 もしそうであれば、せっかく築きかけた三世永遠にわたる成仏への大道に向かう「心」を自ら破壊してしまうことになる。他のいかなるものとも比較すべくもない財宝を失ってしまう、これほど無価値なことはない。ゆえに「信心の心」だけは、どこまでも清く、強くあっていただきたいのである。
5  ”陰の人”を守り激励
 これも恩師が、つね日ごろ強調されていた大切な指針であるが、”陰の人”を徹底して守り、あたたかく激励してゆくことが重要である。
 広布の人材のなかには、活動の舞台の中央で、華々しく、またさっそうと活躍するメンバーがいる。こうした人々も、広布の前進に不可欠な、リーダーの役割を担いゆく人々である。人の心の常として、だれもが舞台の正面で活躍したいと願うものだ。しかし、陰で支える人があっての組織である。ゆえにリーダーが、陰の人をあたたかく包容し、心を配りながら、陰で戦う一人ひとりを徹底して激励しぬくことが大切なのである。
 むろん、ときとして配慮が行き届かなかったり、包容の心を忘れてしまう場合があるのも凡夫の常である。だからこそ、私は、この点を強く訴えておきたいのである。
6  とくに、広布の牙城を厳然と守る会館管理者の皆さま方には、あたたかな感謝の心で接していただきたい。
 会館管理の業務は、早朝から深夜まで、ほんとうに大変な仕事である。管理者の方々のことを思うたびに、なんとか休暇もとっていただき、ゆっくりと心身を休めてもらいたいと私は心から念じざるをえない。
 たまには各幹部が、代わりに会館を守り、真心で管理者の方々をねぎらってほしいと思う。ましてや、われわれの代わりに広布の牙城を守ってくださる管理者を叱ったり、軽蔑するようなことは、けっしてあってはならない。どこまでも管理者をあたたかく見守り、心を配りながら、管理者が会合にも出席できるよう、また組織にあってもぞんぶんに力を発揮していけるよう、役職等についても十分な配慮をしていただきたい。
7  学会の伝統は、指導主義である。あくまで信心のうえから、誤った謗法の道を進まぬよう厳格な指導をすることもあれば、激励したり、こまごまとした注意とかもとうぜんあるだろうが、自分の感情で叱責するようなことがあってはならない。ましてや自分の立場を利用しての叱咤や、会員を見下すような態度は論外である。私どもは、こうした卑しい、畜生のような心に、けっして染まってはいけない。
 今日の輝かしい広布の前進は、清らかにしてあたたかな同志の団結と、「心」の絆があって初めて、実現したものであるからだ。
 反対に、心の汚れた邪な幹部が、退転と堕落のすがたと行動をもっていかに広布の推進を妨げてきたことか。幹部の方々は、この点をよくよく銘記していただきたい。
 本日申し上げた諸点を胸に刻んで、心清らかにして、陰の人をあたたかく激励しゆくリーダーになっていただきたいことをかさねて要望するものである。

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