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渋谷兄弟会、全国高校会の合同記念研修会… 広宣流布運動こそ最極

1986.3.30 「広布と人生を語る」第8巻

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1  昭和四十八年の結成以来十三年間、「渋谷兄弟会」の諸君は、健気に、また雄々しく「信」「行」「学」に励み、立派に成長されてきたことをほんとうにうれしく思う。「光陰矢のごとし」というが、年を経るのは早いもので、当時の初々しかった諸君も、今は三十代、四十代。「後悔先に立たず」というが、これからも、しっかり信・行・学にいそしみ、見事に人生を飾っていただきたい。
 結成当日、全員が御書を持参し、教学研究発表会も行われたことを思い出す。御書はつねに拝していくことが大切である。
 私は今「聖愚問答抄」を拝読しているが、この御書は、日蓮大聖人と凡夫である愚者との問答形式で、愚者が法華一乗に帰していく次第が述べられ、権実相対の義が明かされるとともに、三世、永遠にわたる深遠な生命哲理が説かれている。私自身、これまでに何度も拝してきた御書であるが、今改めて拝読し、多くのことを学ばせていただいている。どうか諸君も「聖愚問答抄」の拝読をしていただきたい。
2  ここで「広布の運動」の意義について申し上げたい。
 今、社会には、たとえば「小さな親切運動」から「緑を守る運動」「河川をきれいにする運動」「地域社会を明るくする運動」といったぐあいにさまざまな運動がある。さらに青少年の育成、種々の文化・平和運動など、じつに多種多様の運動が行われている。
 動物の行動はほとんどがエサを求めて動くというように本能的欲求のためである。ただ人間だけが、社会のため、隣人のため、人類のため、また自分自身の価値を求めて行動できるのである。
 その意味で、前述のように、社会にはそれぞれの主義、目的、価値に基づいて、地域や人類貢献の多くの運動があるが、そのなかにあって最高の運動が「広宣流布の運動」、すなわち妙法を弘め、生命を慈しみ、守りながら、社会と人間の永遠なる蘇生と開花をしていく運動なのである。これこそ無上にして永遠なる仏法に則った最極の人間性の運動であり、これほど尊く価値ある人生の活動はないのである。ゆえに、たとえ苦労があったとしても、自身もまた悔いなき、充実と所願満足の生涯を歩みゆけるのであり、ここに日蓮正宗創価学会の広布の運動の深い意義があることを確信していただきたい。
3  組織は人間から出発し人間に帰着する
 次に、広布の 「組織」の意義、目的について申し上げたい。
 「組織」というのは、その大小はあっても、どのような国家、社会、また会社や団体にもあるものだ。
 信心の世界にあっても、自らの信・行・学を確立させ、誤りなき人生と信心の道を歩みゆくための基準となるものが必要である。それが私どもの組織である。つまり、学会の組織は、広宣流布の目的を達成するため、そして自身の人間的成長、信心の向上と深化のための組織なのである。
 ゆえに組織は人間から出発し、人間で有終の美を飾っていかねばならないし、他方、組織を嫌う人がいるが、その人は自分自身にとらわれて空転し、伸びていけないものだ。
4  広布における指導者の要件としてもっとも大事なのは、包容力、明朗さ、信頼性、指導力、深い見識等である。
 諸君は深い信心に立ち、これらの特質をそなえた立派な広布の指導者になっていただきたい。その立派な指導者が多くなればなるほど広宣流布の裾野は広がり、「本末究竟等」の原理で、深く広い流れになっていくのである。
 御書に「麻畝の性」と仰せである。麻畝とは麻畑のことで、麻はまっすぐに伸びるが、蓬は曲がりがちである。しかし麻畑にはえる蓬は、麻に支えられてまっすぐに伸びることができるというたとえである。
 また「悪人に親近すれば自然に十度に二度・三度・其の教に随ひ以て行くほどに終に悪人になるなり」との御文がある。悪人に親近していけば、善人であっても、悪人の言に、二度、三度としたがうようになり、最後は悪人になってしまう、というのである。
 どうか渋谷兄弟会の諸君は、今後もともどもに錬磨しあい、立派に成長していただきたい。そしてそれぞれの地域、それぞれの組織にあって、見事な指導者としての活躍を心からお願いしたい。
5  信心、人生の勝利者たれ
 また私は諸君に、”仏法は勝負”であり、信心、人生の勝利者をめざしてほしいと申し上げたい。発足の当時は、二十代の若々しい、春のような希望に満ちていた諸君も、いまや人生の半ばを迎えている。あるいは将来に希望が兄いだせず、あきらめの心にとらわれた人もいるかもしれない。
 とうぜん、体も疲れやすくなる。社会の複雑な事情にも馴れ、いわゆる”倦怠”が始まる。単調な生活や家庭に飽き、社会のさまざまな誘惑に負けてしまい、価値なき後退の日々を送る場合も少なくない。
 また、家庭にあって、奥さんや子供に引きずられて、やっと生きているような人もいるかもしれない。(笑い)社会的にも、諸君の年代は、人生の大きな曲がり角ともいえる。
 だが”仏法は勝負”である。絶対に負けてはならない。これは根本は法のうえの勝負をいうが、仏法は即一切法である。社会、人生、生活のすべてに通じていくのである。ゆえに、病気に負けてはいけない。職場にあっても、人生にあっても勝ちぬいていただきたい。人生は勝たないとみじめである。そのいっさいの勝利の原動力は唱題である。唱題で苦難を乗りきり、輝く勝利の人生であっていただきたいと、心から念願してやまない。
 負けるのは、奥さんと子供にだけでよい。(笑い)この次元では”負けるが勝ち”なのである。(笑い)だが、社会や人生行路にあっては、そうはいかない。どうか勝利の人生であっていただきたい。
 その根本は、信心である。信心を捨て、名聞名利に走って一時は勝ったような姿をみせても、それはほんとうの勝利ではない。いわば線香花火のような一時的な勝利であり、ホタル火のようにはかないものだ。
 どうか、諸君は、これからの人生において、”つねに生きいきと””朗らかに”また”たくましく”生きぬいてほしい。仏法の世界は、現実の世界を離れてはありえない。この現実の社会にあって、何があっても、難を乗り越える勇気ある信心をもって、朗らかに生きぬいていただきたい。
6  渋谷兄弟会のメンバーも子供をもつ年代にいたっている。諸君の息子さんや娘さんも成長し、やがて大学にも入り、結婚することにもなる。
 それにしても、近来の結婚式はまことに派手になり、華美になっていることを耳にする。
 それはそれとして、ある青年部のカップルが、二人だけで正宗寺院に赴き、簡素な結婚式を終えたとの話を聞いた。これがいいとはかならずしもいえないが、私はその二人の行動に感服した。また、別の青年は、親しい友人だけを招いて、会費制で質素な結婚の祝いの席を設けたということも聞いている。
 ともかく心からの祝福が大事であって、華美であることが幸せな結婚式とはいえない。兄弟会の方々は質素な結婚式も心から祝ってあげられるような、形式にとらわれない納得性のある行き方であってほしい。
 御書を拝すると日蓮大聖人は、大慈大悲をもって、人生や生活の、まことに細かなところまで斟酌され、こまごまと信徒を指導、激励されている。次元は異なるが、私どもも生活の細部にわたる心こまやかな指導、激励が大切であり、ここに真実の人間性の発露があることを確認しあっておきたいと思う。
7  三世にわたる真実の幸福道
 人生における「生」「老」「病」「死」の姿と、三世にわたる真実の幸福ということについて申し上げたい。
 信心していても、病気になることもあれば、思わぬ事故にあうこともある。また、若くして亡くなることもある。まさに「老少不定」(老いも若きも死期は定まっていないこと)である。
 とうぜん、一人ひとりの宿業の違い等もあるが、信心を根本としたとき、それはすべて転重軽受、宿命転換となっていることを知ってほしい。生・老・病・死の実相は自然の理である。「健康になろう」また「生きよう」と御本尊に祈りながら亡くなっていくこと、それじたいに深い深い三世にわたる意義があるのである。
 ゆえに、妙法を信受した諸君は、たとえ病苦や経済苦など人生のさまざまな苦悩にあったとしても、それによって、信心を紛動されたり、信心の根本目的を見失ってはならない。また、妙法の友が、そのような苦しみに悩んでいるからといって、その人の信心が弱いとか、まちがっているといった、軽々しい判断はできないのである。宿業の浅深も、信心の強弱と幸・不幸の現象の関係も、凡夫の浅はかな眼では絶対にわかるものではないからである。
 大事なことは、これからの人生をどう生き、現実の困難の道をどう開いていくかである。そのための信心であり、ここに本因妙の仏法の精神にのっとった生き方がある。また、そのように励ましてあげることが大切である。
8  また、大聖人の仏法は「下種仏法」である。全人類の幸福のために、南無妙法蓮華経の仏種を、人々の生命に植えていく活動である。ここに、すべての人々の永遠なる幸福の基盤を築いていく”根本の因”がある。その意味で、地涌の友であり、賢明なる広布のリーダーである諸君は、悩める人々に、幸福の因を教え、大きく包容し、激励していく、人間性豊かな一人ひとりであっていただきたい。
 皆さま方の人生が朗らかで楽しくあれ、そして、なにものをも乗り越えゆく勇気と希望の生涯であれ、と心から願っている。

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