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日蓮大聖人・池田大作

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学術部、女性医学者、青年部、アルゼンチ… 一切は信心の一念に

1986.3.22 「広布と人生を語る」第8巻

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1  毎年、三月十六日の「広宣流布記念の日」を終えると、恩師戸田先生の逝去されたあの日――春うららかな「4・2」のことを思い起こすのである。本年はハレー彗星の来訪のせいか、気候が不順で厳しい寒さが続き、例年にもまして温暖な春の訪れを待ち遠しく思うが、あの忘れえぬ「4・2」は、本年もまためぐり来る。私は深い感慨をいだかざるをえない。
2  戸田第二代会長の人と実践
 戸田先生のことは、小説『人間革命』にも述べてきたが、戸田先生の亡きあと、恩師を知る数人の新聞記者と懇談する機会があった。彼らは戸田先生の広布の偉業実現を誓う深き心境までは知るよしもなかったが、その豊かな人間性に接し、また著書にふれるなかで、さまざまな強い印象を受けていたようだ。ある記者は、「戸田先生はトインビー博士に似ていた」という。他の記者は「中国革命の父・孫文に似ていた」と述懐していた。さらには「松下幸之助氏と似ていた」と語る記者もいた。ともあれ、多彩な側面をもった大指導者であったと思う。
 科学や医学など学問の道、また小説などの文学、さらには華道など、いかなる分野にも師は存在するものだ。しかし、至高の目標である広宣流布の指導者として、青年を薫陶、育成し、民衆を率いて戦った戸田先生の力は、まことに天才的ともいうべき偉大さであり、これほどの指導者は絶後ではないかと思うほどである。
 戸田先生は御本尊、仏法に関してはきわめて峻厳な態度であられたが、ユーモアの感覚にもすぐれていた。話の道理はまことに明快であり、迂遠な理論を排し、すべてにわたり、本質を鋭くついておられた。その教育は独特であり、指導者としての根本的な資質に恵まれた師であったと思う。
3  戸田先生は、哲学、文学、天文学、医学など、いかなる学問であれ三か月あれば修得できる、と話されていたものだ。当時、私は朝な夕な、先生にお仕えするなかで、戸田先生を観察していたが、先生のその言葉は、事実そのとおりであろうと、深く信じざるをえない。
 その透徹した信心の深さ、同志へのあたたかな慈愛の心、広布へ向かう不動の信念、すべてをつつみこむ無限の包容力、そして邪悪と傲慢に対して戦う峻烈な魂――あらゆる要素をあわせもった人生の指導者であった。指導のあり方も、仏法の発想を根幹に、さまざまな価値観、方法、利点を調和させたユニークなものだったと記憶している。
 このようにすばらしき人生の師にめぐり会えたという一点で、私は最高の幸せ者であると確信している。
4  戸田先生は巌のごとき固き信心と信念の方であったが、人々の不幸については、はかりしれない心のあたたかさをもっておられ、涙を浮かべながら、指導、激励されていた姿が忘れられない。
 たとえば子供を亡くした人がいる。すると「ほんとうに、かわいそうに」と、自分のことのように、涙ながらに、とことん激励をされる。また、高齢の方が病気でふせてしまうと、生老病死は避けることのできない人生の理なのだが、そのときの先生のご心配のようすは、そばでみていて”これほどまでに”と思うほどであった。その慈愛の深さ、人間的あたたかさは、いま思い起こしても、心うたれる偉大な人柄であった。
5  それにもかかわらず、戸田先生に無数の中傷・非難があったことも事実である。
 これまでもくり返し論じてきたように、偉業をとげた人の人生は、かならずや、中傷の嵐におそわれ、怒涛のごとき迫害と受難の連続であるものだ。戸田先生は、こうした人生の真理を深く理解され、相次ぐ非難をあたりまえのこととされていた。「難来るを以て安楽と意得可きなり」との御義口伝の一節を、深く拝されていたようである。
 戸田先生が逝去されたのは五十八歳。七十歳、八十歳と長生きされていたら、その後の広布の伸展もいかばかりであったかとも思うが、今日の広布の前進へのクサビはすべて打たれ、願業を成就してのご一生であったのである。
6  御書の拝読は「信」の一字で
 私は、戸田先生から、毎日、一対一で、御者を徹底して教わった。「立正安国論」「観心本尊抄」「開目抄」「三世諸仏総勘文教相廃立」等々、あらゆる御書に及んだ。その意味で、私はほんとうに幸福者であったと思っている。戸田先生の御書の研輩で重要な点は、信心を打ち込んでの教え方であったことである。
 御者を読み、知っている人は数多くいる。だが、御書を拝するのは、信心を深めていくことにあり、それが根本であり、肝要なのである。仏法にあって、三世の仏・菩薩の成道も、究極は妙法に対する「信」の一字で決まるのであり、「開目抄」「観心本尊抄」等の重書を拝しても、その根本は「信心」の一念の重要性を御教示されているといってもよい。
 仏法の世界では、社会的な立場とか、世間的な名誉というものはいっさい関係ない。大聖人の仏法の肝心要はただ、成仏するか否か、である。その点をよくよく銘記していただきたい。
7  「法」のために生ききった人は、福運と大境涯を得ることができる。しかし、社会的なことであれ、組織上のことであれ、自分のために信心、学会を利用した生き方になれば、大きな禍根を残す結果となってしまうものだ。「法」のために生きるか、自分という「人」のために生きるか、その姿勢はわずかな違いのようであるが、その結果としては大きな違いをもたらしてしまうのである。
8  日蓮大聖人の大慈大悲の御姿
 世間においても、また私どもも、ともすれば大聖人が生涯御健勝で、格幅豊かな威風堂々たる御姿のまま過ごされたかのごとく想像しがちである。しかし、大聖人が身延に御入山されたのは聖寿五十三歳の御時であり、当時とすればかなりの御高齢であられた。
 御入山じたい、「三度国をいさむるに用いずば」と仰せのように、ある意味では失意の気持ちをいだいての身延御入山であった。そして、山深き身延の沢の 「手の広さ程の平かなる処」に庵室を結ばれた。土地の広さは「一町ばかり間の候に」といわれている御書もある。そこに弟子たちとともに「をうちきりて・かりそめにあじち庵室をつくりて候」という状態であられた。
 しかし四年ほどたつうちに、柱は朽ち、壁は落ちるありさまで、とうとう「十二のはしら四方にかふべげ・四方のかべは・一たうれ」と、再建するほかなくなってしまった。そこで「なくして・がくしやうども学生共をせめ・食なくして・ゆきをもちて命をたすけて」とあるように、助ける人手も食糧もないなかを、弟子たちを励まされつつ修復されたのである。
 そうした身延での御生活は「庵室は七尺・雪は一丈・四壁は冰を壁とし」とあるように、たとえていえば現在の冷蔵庫の中にあるような寒さであり、雪が深くて訪ねて来る人もいない。あまりの寒さで「頭は剃る事なければうづらの如し、衣は冰にとぢられて鴦鴛おしの羽を冰の結べるが如し」という、まことにもったいない御様子であった。そうした極寒のなか、食するものも乏しく「雪を盛りて飯と観じ」、すなわち白く積もった雪を白米と思って食されたと述べられている。
 こうしたなか、健康も害され、弘安元年には「日蓮下痢去年十二月卅日事起り今年六月三日四日日日に度をまし月月に倍増す」と、約半年間にわたって下痢を病まれたことが記されている。そして四条金吾へのこのお手紙では”あなたから頂戴した良薬のおかげですっかり回復しました”と、門下である金吾に対しても、あくまで真摯に、丁重な礼を述べられている。まことに尊い御姿であると拝する――。
 現在の私たちの暮らしからは想像もできないような言語に絶する環境のなかで、大聖人は、われわれ末法の一切衆生のために、御自身の魂であり生命の御当体である御本尊を建立され、遺してくださったわけである。
9  戸田先生は、こうした御本仏の大慈大悲の御姿を涙とともに語るのが常であった。すなわち、御本仏の人間としての外用の御姿、仏界所具の人界の御姿を拝するとき、「御本仏がこういう御苦労をされたのだ。門下であるわれわれも何があっても辛抱していかなければならない」と、くり返し言われていた。
 また「大聖人の大慈大悲を世界に宣揚しなければならない。大聖人ほどの仏様は断じて他にいらっしゃらない」とも指導されていた。
 ともあれわれわれは、このすばらしき末法の御本仏日蓮大聖人を信じ、その永遠不滅の仏法を行じ、弘めているわけである。これ以上の栄光の人生は絶対にないのである。
 その偉大なる大法を広宣流布するために出来たのが創価学会である。その幹部であり、指導者である皆さま方は、使命深き立場にふさわしい信念と自覚がなければならない。それを忘れて、世間一般となんら変わらない人生であったならば、何のために信心したのか、その根本の目的まで見失ったことになる。
 それぞれさまざまなご苦労はあると思うが、どうか、末法万年の大法である大聖人の仏法を奉じ、近くは戸田先生という偉大な指導者のもとに連なった広布の同志として、深き使命のうえに、これからも日々さっそうと信行学の実践に精進していっていただきたい。

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