Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「3・16」記念婦人・青年部の合同研修… 信心こそ無上道の栄冠

1986.2.26 「広布と人生を語る」第8巻

前後
1  日々自らの仏道修行に励み、多くの人たちを立派に指導し、成長させている皆さまの活動は、先駆者の誇りでもあるし、また今世における福運も、じつに深いものがあろう。この研修会が楽しいものであるよう祈ってやまない。
 ◆広布と信心の大道    
 仏道修行がわれわれの道である。世間的にも“道”といえば、医道とか柔道、剣道、華道、茶道というように、さまざまな道がある。だが、われわれの道は一生成仏、広宣流布への大道である。信心こそ三世永遠の幸福を築きゆく、深遠にして確実なる無上道なのである。
 先日、創価学園出身で医学の道を歩む友の留学にさいし、私は、「道は、須臾も離るべからず。離るべきは道に非ざるなり」との『中庸』の一節を書き贈った。
 たとえば、東京から京都へ行く場合も道を誤れば、目的の京都に着くことはできない。と同じように、永遠の幸福へ到達するためには、また日日、幸福のリズムにのっとった人生のためには、妙法の道を、離れることなく歩みつづける以外にないのである。
 われわれは、永遠の幸福への道、日蓮大聖人の仏法の本義の道、日蓮正宗の正しき法義と広宣流布への“信”“行”“学”の正しき歩みと展開においては、絶対に誤りがあってはならない。
 戸田先生は「私の生命よりも大事な広宣流布への学会の組織」といわれていたが、“信心”と“広布”と“成仏”への大道を誤りなく歩みゆくために、学会の組織がある。ここに広布の組織の重要性があることを知ってほしい。
 ◆迫害と人生       
 妙法広布の大道には、苦難の嵐は必定である。
 われわれは、全人類を、三世永遠にわたり、平和と成仏へと導きゆく先駆者として、また仏子として法戦を展開している。
 かつて私は創価大学で「迫害と人生」と題し講演したことがある。そのとき、人生においてなにごとかを成し遂げるには、競い起こる迫害を乗り越えてゆかなければならないと述べたが、それは歴史と社会のあらゆる事象に通ずる原理と思う。
 歴史をみても、事をなしゆく労作業には、大なり小なり、かならず迫害の風雪があり、生命に及ぶほどの苦難があるものだ。それが古今東西の歴史の姿であることを知っておかなければならない。
 たとえば、浄土宗の開祖・法然は、説いた教えは仏法破壊の邪義であり、正法正義を信奉する私どもは根本的に異なる立場にあるが、一面、一宗一派を確立するために、どれだけの迫害を受けたか。その晩年には既成仏教からの反発と陰謀のなか、弟子が後鳥羽上皇の女官と通じたとの疑から、その弟子は死罪、八十歳を前に
 した法然自身も土佐(高知県)、つづいて讃岐(香川県)へ遠流となり、多くの弟子が死罪、流罪となっている。
 また時代はくだって明治二十五年に始まる大本教は、政府・軍部と対立し、大正十年と昭和十年に大弾圧を受けている。また、幕末に成立した天理教もかずかずの迫害を受け、教祖がわずか十年余りの間に十八回の拘留処分を受けたことは有名なことだ。
 その他、多くの宗派、とくに日蓮正系においても多々、迫害を受けた例があるが、今回は時間のつごうで略させていただく。
 教義は根本的に違っても、こうした彼らの戦いは死闘であったといってよい。いかなる宗派であれ、死闘なくして大きな前進はありえない。
 ましてや、末法の御本仏日蓮大聖人の御遺命たる広宣流布の戦いは、限りない苦難との死闘の連続であると、深く銘記すべきである。安易に功徳ばかりを追い、平穏無事に何の痛みもなく信心に励んでも、偉大なる作業はなしえないのである。
 この大切な原理原則を忘れ、大聖人の仏法の本義、そして学会の伝統精神が、時とともに薄れていくことを、私は深く懸念している。
 それだけに、きょうは、地域の第一線を走り、広布の沃野を先駆されている婦人部の代表の皆さま方にお会いでき、学会伝統の精神を確認しあえることを、心からうれしく思う。また感謝の気持ちでいっぱいである。これからも皆さま方とともに、皆さまをだれよりも大切にしながら前進していく決意である。
 ◆革命家の生涯に学ぶ     
 哲学者、経済学者であり、革命家でもあったマルクスは、私どもと主義主張は異なるが、一応、歴史に残る先駆者の一人といってよいと思う。
 彼もまた、祖国プロシアをはじめフランス、ベルギーと各国を追われ、放浪と苦難の人生を歩まざるをえなかった。最後はロンドンに落ち着いたが、終生無国籍の亡命者であったのは、有名な事実である。また経済苦に悩み、七人の子供のうち三人を亡くしている。ひどいときには、その子供の棺桶を買うお金もなかったという。
 彼自身も、肖像画にみられるような頑健そうな風貌とはうらはらに、結核に侵され、とくに後半生は病気の連続であった。肝臓障害、肋膜炎、歯痛、眼炎、痔疾、また不眠などに悩まされたといわれる。
 彼は、そうしたあらゆる逆境のなかを生ききって、『共産党宣言』を著し『資本論』を残し、ひとつの礎を築いたわけである。
 また、女性の革命家として忘れられないのは、ポーランド生まれのローザ・ルクセンブルクであろう。彼女もまた、革命の大義を貫いた不屈の闘士の一人といってよい。
 彼女は経済学者としても有名であるが、その反戦と革命の信条のゆえに、幾度も入獄している。とくに第一次世界大戦の折には、徹底して戦争反対を訴え、四年三か月の大戦期間中、三年四か月を牢獄で送っている。その獄中で彼女は「自分はおそらく市街戦か、牢獄かで死ぬであろう」と友人への手紙にしるしたが、そのとおり、最後は反革命軍の兵士に虐殺され、遺体はベルリンの運河に投げ込まれた。
 こうしたマルクスやルクセンブルクを支えた思想は、三世にわたる生命を説ききった“内道”の仏法からみれば、“外道”に属する考えにすぎない。にもかかわらず、これだけの生命力と使命感、そして信念に貫かれた人生を全うしている。
 いわんや、私どもは御本仏日蓮大聖人の直系の門下である。妙法を奉ずる私たちが、ささいなことに紛動されたり、初心を失って名聞名利に走ったとすれば、これほど恥ずかしく、また法を下げた行動はないのである。
 ゆえに皆さまは、いかなる苦難も莞爾として受け止めながら、どうか信念の人生をみごとに完結させていただきたい。
 ◆忍辱は寂光土なり     
 「御義口伝」のなかに、次の一節がある。
 それは「御義口伝に云く本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱の力を以て弘通するを娑婆と云うなり、忍辱は寂光土なり此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり娑婆とは堪忍世界と云うなり云云」(御書全集七七一ページ)との御聖訓である。
 すなわち末法において、本化地涌の菩薩が、三大秘法の南無妙法蓮華経を「大忍辱の力」をもって弘通していくところを、修羅世界というのである、との御断言である。
 そして「忍辱は寂光土なり」と仰せになっている。つまり「寂光土」といっても、他のどこにあるのでもない。何があっても、正法正義を弘めきっていく信心の「忍辱」の実践のなかにある、苦難と戦っていく一念のなかにこそある、との深き御指南なのである。私どもはこの仰せを絶対に忘れてはならない。
 さらに「忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり」の御文について申し上げれば、大忍辱の心とはすなわち大慈悲の心であり、それを釈迦牟尼仏という。釈迦牟尼仏とは、いうまでもなく、別しては文底下種の教主釈尊・日蓮大聖人であられる。大聖人こそ大忍辱の心でいっさいの障魔に耐え、三大秘法を建立してくださった末法の御本仏なのである。また総じては大聖人の門下として、私どもが忍辱の心で折伏・弘教に前進していくところに顕現する仏界の力用であり、真実の崩されざる幸福境涯なのである。
 「娑婆とは堪忍世界と云うなり」と仰せのように、この現実の世界は苦難を「堪忍」し、耐え忍ばねばならない世界である。これには、凡夫においてはさまざまな煩悩や悪業によって起こる苦しみ耐えねばならないという意義がある。また仏・菩薩の立場からは衆生を救うために労をいとわず、また「瞋恚」、いかり・恨みの心を起こさずに、障魔に耐えて弘教していくという意義がある。
 私どもは地涌の菩薩の眷属として、いかなる苦難があろうとも、どんな侮辱を受け、中傷・非難を受けようとも、怒ることなく、また恨みの心をいだくことなく、慈悲の心で悠々と正法正義を弘めきっていかなければならない。
 その不断の実践のなかにのみ、「仏界」という“仏の世界”“仏の境界”が、かならずやそなわってくることを確信していっていただきたいのである。
 とくに婦人部の皆さま方は毎日、ほんとうにたいへんな労苦があると思う。子供の教育もある。ご主人の世話もある。生活そのものもさまざまな労苦の連続かもしれない。そのうえで日々あたたかく、組織の一人ひとりに心をくだき、面倒をみてくださっている。まことに「堪忍世界」と仰せのとおり、耐え忍ぶことばかりかもしれない。
 しかし大聖人は、皆さま方のその尊い広布への実践のなかにこそ、寂光土があり、仏界がある、永遠にわたり崩れざる真実の幸福がある、と仰せである。どうか、この御本仏の御指南を深くかみしめていくことのできる一生であっていただきたい。
 ◆真実の幸福       
 財宝があるから幸福とは絶対にいえない。権力があるから幸福ともいえない。また有名人かならずしも幸福とは限らない。
 立派な家に暮らし、子供をいわゆる有名校に入学させ、財を成し、美しく着飾ろうとも、そうしたことじたいは、幻のごとくうつろう「仮諦」の領域であり、無常の仮の生活姿である。ゆえに、そうしたものをうらやむ必要もなければ、自分の生活に比較させる必要もない。
 崩れざる「本覚寤」の幸福は、人間としての正しき大道、信心の正道を生涯にわたって貫き通していける自己自身の“境涯”のなかにしかないのである。外面の環境ではなく、そうした強盛なる信心の境涯のなかにのみ、三世にわたっての真実の幸福が躍如としてくることを知っていただきたい。
 皆さまが日々、広宣流布をめざし、信心即生活、仏法即社会の原理を生ききっていく一念、一心のなかにこそ、人生の“幸福”はダイヤモンドのごとく、永遠の光彩を放っていくことを確信していただきたい。

1
1