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金城会全国代表者会議 信心と人生の栄光の完結を

1986.2.22 「広布と人生を語る」第8巻

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1  陰に陽に、広宣流布の大道を厳護されてきた金城会の皆さまに、深甚の敬意を表し、感謝申し上げたい。いまも勤行をしましたが、皆さま方に無量無辺の威光が増し、栄光のご一家となられるよう、深くご祈念させていただいた。
 私どもの人生は、なにごとにあっても完結させることが大切である。書物も、完結のない本は意味がないし、映画やテレビでも、完結のない中途半端なものは無意味といわざるをえない。
 人生もまた同じである。ましてや、いっさいの根幹となる信心にあってほ、完結させゆくことがもっとも重要なことなのである。私は、皆さまの信心と人生の、栄光の完結の生涯を心から願っている。
2  ここで「遠藤左衛門尉御書」(御書1336㌻)を拝し申し上げたい。
 この御書をいただいた遠藤左衛門尉については、不詳なことが多い。四条金吾や富木常忍が多くの御抄を頂戴しているのにくらべ、御書全集で五行ほどの短い、この御抄二編が残っているのみである。数多い弟子檀那のなかでも無名の一人といってよいと思う。
 次元は異なるが、わが学会においても、まことに多くの無名の方々が、広宣流布の法戦に励み、正法護持のために戦っておられる。
 現在、私は『忘れ得ぬ同志』を執筆している。そこに登場するのは一般には無名かもしれないが、学会の世界では知られた人となっている。私としては、全同志の思い出を残していきたいが、それは無理である。代表の方々の生涯をつづり、顕彰しゆくことで、無数の無名の同志の方々の功労をたたえ、すべてをつつみながら、広布の足跡を残していく決心である。その点、どうかご了承願いたいと思う。
3  大聖人は、佐渡にあって遠藤殿の外護があったがゆえに、命を永らえることもできたし、御赦免にあずかることもできた。それを思うと、大聖人の御一代の聖業と功徳は、貴殿の外護のたまものである、とも仰せられている。そして、梵天、帝釈の御使いか、と述べられ、霊山への契約としてこの墨付きをさしあげるので、霊山では、日蓮、日蓮と呼びなさい、そのときは迎えに行きましょう、とまで仰せくださっている。
 この御書を拝して思うことは、ほんとうに真心から、広布のために活躍しておられる無名の同志の方々のことをけっして忘れてはならない、そういう方々をこそ真実の広布の功労者として、宣揚し、激励していかなければならないということである。
4  現在、このように、広布の道が大きく開けてきた。その陰には、けっして華やかな表舞台に出ることなく、黙々と活躍してきた無数の信心の勇者がおられる。その反面、名聞名利にとらわれて、広布の第一線での苦労を避け、汗水を流すことなく、要領よく活動し、なにかにつけて表に立っては自己を偉く見せようとする人もいる。
 そうした人々は、有名になったり、なにかの立場を得たりすることを功徳のように考え、組織において日夜、苦労を重ね、愚直なまでに地道に活躍をしている方々を脾睨し、見下していくものだ。そのような浅はかな”有名人”が今までにもいたことはご存じのとおりである。また、これからもあるかもしれない。
 しかし彼らは、いわゆる世渡りがうまいというべきであって、深き信心と人生の完結への正しき軌跡、行路にのっとってはいない。あるものは名聞名利の卑しき心根であり、なにより我慢偏執の心である。
 「我慢」とは、我尊しとおごる”慢心”であり、「偏執」とは偏った考えに執着していく心である。御書の仰せに従わず、広宣流布の正しき軌道から外れた我慢偏執の心こそ、信心の最大の敵である。
 表面のみ信心ありげな姿の中途半端な生き方では、一時はよいように見えても最後は、成仏という生命の完結を得ることなく、苦しみの境涯になっていくことを知っていただきたい。
 どうかそれぞれの地域にあって、広宣流布の大道を凛々しく厳護していっていただきたい。全国の同志にくれぐれもよろしくお伝えください。

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