Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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青年代表者研修会 一生涯、不過の信仰を

1985.8.3 「広布と人生を語る」第7巻

前後
1  広宣流布の人材は、いうまでもなく智勇兼備の人であるべきだ。それをふまえたうえで、きょうここに集った青年の代表を二つのグループに分ければ、一方は広宣流布の後継者としての勇者の集まりである。一方の青年研究者グループは、いわゆる知性の世界で、文化と学問のリーダーへと育ちゆく俊逸の集いといえよう。
 ともあれ正法の広宣流布の活動は、行動と知性の両者が相まって進むとき、実り多き前進となることはまちがいないことを自覚されたい。一方のみでは偏頗な活動とならざるをえないので、その点、両者の調和ある精進をお願いしたい。
2  日蓮大聖人の仏法は一生成仏の大法であり、生涯、信心を貫き通していくことが根本なのである。
 長い人生の途上にあって、学問や生活、仕事等で行き詰まることがあるかもしれない。しかし、それは人生や社会の現象面におけることであって、信心の本質的なこととは違うのである。ゆえに、それらの現象に紛動されて、信心まで失ってはならない。絶対に退転をしてはならない。
 もしさまざまな理由で信心まで行き詰まり、信心を失いそうになったらどうしたらよいか。
 そのときは、まず題目を唱えることだ。生命の弱まりで、すぐに五座三座の勤行はできない状況にあるかもしれない。ゆえに、まず唱題に励み、次に方便品・寿量品読誦の勤行へというように、自己を前進させていくことが大事となろう。そして、徐々に信心の確固とした軌道に回帰していくことである。
 こうして再び、信心の大道に回帰しえたときには、かつてない信心の歓喜と成長があるものだ。現実社会、人生のうえでもすばらしい進歩と力強さを身につけていけるのである。
 それにくらべ、信心の行き詰まりから決定的な退転へと堕落していった場合には、その人生は無常の海にただよう根無し草のようなものとなってしまう。かりに社会的な名声をえたとしても、かぎりなき空転の無残な生涯となるといってよい。
3  かずかずの名作を残しながらも悲惨な末期であった著名な作家もいる。たとえ優れた文学を残したということは事実としても、苦悶のなかに逝去しゆく姿であっては、真実の幸福境涯とはいえないだろう。
 まことに実り多き人生を生きゆくためには、人生の実像、現象の本質を鋭く見ぬいていくべきである。そのための根本のカとなるのが信心であり、妙法の英知なのである。人間の幸不幸は、けっして表面的な現象面のみで判断できるものではない。
4  退転者の共通点は、端的にいって、仏道修行の基本である勤行を怠ることである。勤行をしなくなれば生命の浄化もできず、力も出ない。ゆえに根本的には、刹那的な生活の連続となってしまう。そして、しだいに信心の世界から離れようという心が強くなる。また、信心の話を聞くことも、同志に会うことも、いつしかうとましくなる。つまり、広宣流布への学会の前進に遅れてしまうのである。その結果、みずからの活躍の場を失い、生きいきした広布の世界への嫉妬にかられて、批判の心がわく。この悪循環を繰り返して退転へと進んでいくのである。
 単純といえば単純な、また愚かといえばこれほど愚かなことはない、後退と転落のコースなのである。
 ともかくも、仏意仏勅によって広布へと進む創価学会の組織から、けっして離れてはいけない。大聖人が「一生成仏」と仰せのごとく、生涯にわたるたゆみなき信行学の実践を続けていっていただきたい。
5  また、退転者の常として”打算”と”名聞名利”の心によってみずからを滅ぼしていくものである。ゆえに役職上のことや社会的出世などにとらわれたり、毀誉褒貶に心をうばわれてはならない。つねに大御本尊の方向へ、そしてみずからの内奥の生命の宮殿の方向へと一直線に向かっていく、信心の根本軌道を踏みはずすようなことがあってはならない。これまでせっかく積み重ねてきた福運の基盤を、そうした名聞や利害の陥穽に入って崩してしまう愚は、けっしておかしてはならない。
 今世でどんなに成功したように見え、立派そうな姿を見せたとしても、退転という謗法をおかした場合には、苦悩の連続の傾向性をみずからがつくってしまうのである。これほどのわびしき人生はない。どうか皆さんは、尊い人生にあってけっして敗北者になってはならない。
6  皆さんは、今日まで、信心で勝利の人生を築いてきた。どうか十年先、二十年先、そして人生の最終章まで、信心で勝っていただきたい。
 あたら小さな自己の感情や利害にとらわれた心で、これまで築きあげてきた功を無為にしてはならない。不幸の根本的因をつくるようなことがあってはならない。信心の世界、広布のリズムから離れた人生は、もはや糸の切れた凧のようなもので、不幸の大空をただよう以外にないのである。
 「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」と仰せのとおりである。
 皆さんは、学会にあっても、また広布にあっても”宝”のごとき人材である。どうか、みずからを律し、生涯をよく見つめながら、信心と広布と社会での”マラソン”に、たゆみなく精進していただきたい。そして見事に勝利を勝ちとっていただきたいのである。

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