Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

海外、中部の合同研修会 色心共に広布に生きる王者に

1985.8.2 「広布と人生を語る」第7巻

前後
1  本日、ここには世界各国のリーダーも来ておられるので、少々、所感を述べておきたい。
 本門戒壇の大御本尊は一閻浮提総与の御本尊であり、全世界の民衆救済のための大御本尊であられる。
 大御本尊の偉大なる力用によって今日では、SGIとしては百十数か国にメンバーを擁するまでになり、各国で地涌の友が大仏法を学び、行じていることはたいへんにすばらしいことである。日蓮大聖人もどれほどか御称讃のことと確信する。
2  大聖人の御遺命である広宣流布への活動は、言語や風俗、習慣、文化等の違いもあり、たいへんな道のりかもしれない。しかし“ガンジスの大河も一滴より”との原理のごとく、皆さん方の活躍によって、未来の大発展への確かな基礎と道程が築きあげられたのである。
 もちろん広宣流布の成就は御仏意によるものであるが、法を弘めゆくのは地涌の眷属の使命である。「地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」と仰せである。ここに、各国にあって御本尊を信受し、題目を唱え、正法を弘めている友がいることは、広宣流布にとってひじょうに重要な意義をもっているのである。
 私は、海外の妙法の友の無事安穏とますますの活躍を、また世界の平和を心から祈り念じている。
3  創価学会にあっても、残念なことに、みずからの感情、名聞名利、エゴのために退転していった人もいる。各国にあっては、けっしてそのようなことがあってはならないと念願している。
 御書に説かれているように、仏法流布の途上には、大なり小なり障魔はあるものだ。また、凡夫の集まりである私どもの世界には、たしかに感情や我見からのさまざまな藤もあるかもしれない。しかし、大切なことは、あくまでも正しい信心、正しい指導で、全世界の人々が異体同心の信心を貫いていくことである。あくまでも詐親を排し、策を排し、正しい信心と正しい人生を歩んでいかねばならない。
 これから大きく広がりゆく海外にあって各国のリーダーは、その根本方軌ともいうべき信心の正しい姿勢を忘れないでいただきたい。
 とくにリーダーの方々には多くの苦労もあることを、私はよく熟知しているつもりである。しかし、これからの五十年先、百年先、さらには五百年先を志向したときに、その出発の原点に立った使命ある皆さま方に、正しき信心の自覚と責任ある指導を心からお願いしたい。
 全世界の妙法の友が総本山にまします大御本尊を根幹に正しい信心を貫き通して、仲よく前進していくことが、その国の立正安国となるし、それによって全世界の立正安国にとっても大いなる前進がなされることを知らねばならない。
 ともあれ、メンバーの数はたとえ少なくとも、妙法の祈りは無量無辺であることを深く確信し、誤りなき妙法の大道を歩みつづけていっていただきたい。
4  “信心をしていても、病気などの悩みに苦しめられるのか”と疑問に思う人がいるかもしれない。
 私が若き日に拝し、胸に深くきざまれている御文に「本門寿量の慧眼開けて見れば本来本有の病痛苦悩なりと明らめたりつて自受用報身の智慧なり」との御文がある。
 「本門寿量の眼」とは、文底から拝すれば、とうぜん御本仏日蓮大聖人の慧眼であられる。また、御本尊を信受したわれわれの信心の眼という意義にも通じよう。
 この“妙法の眼”“信心の眼”を開いて生命の実相を見るとき、「本来本有の病痛苦悩なり」と明らかに知見できるのである。
 すなわち、現実の人生には、病弱であるとか、深き精神的苦悩の連続とか、色心の不調和とかの病痛があろう。また経済や仕事上の困苦等々、千差万別の苦悩がある。それが人生、社会の実相である。
 われわれの生命も十界三千の当体であり、これらの宿命的ともいうべき「病痛苦悩」は、生命に本然的にそなわっているものである。この一点を明らかに如実に知見していくのが、“仏界の智慧”なのである。この智慧を開くものこそ信心であることを知っていただきたい。
 真実の仏法は、現実生活を逃避したところにあるのではない。いわゆる感傷的、精神主義的なものではないし、天国とか西方極楽を夢みるような非現実的なものでもない。あくまでも、現実の生活と社会と自分自身の人生のなかに息づいていくものである。
5  コップの水にインクをたらせば水は青く色づくが、大海に少々のインクを混ぜても、大海の中で色は消え去ってしまう。と同じように、大事なことは、自分自身がどれだけ深い境涯を築き、生命を浄化していくかである。病魔を見おろしていけるような生命の境涯を自身のなかに確立していけるかである。
 現実の苦悩は、けっしてなくなるものではない。それに流されて不幸の大海に沈むのではなく、それを乗り越えて楽しんでいけるようになることが大事なのである。煩悩即菩提で、一切の苦悩を幸せへの土台として、成仏へと転じていく転換点が、信心であることを知っていただきたい。
 「妙とは開く義なり」「妙とは蘇生の義なり」と仰せのごとく、信心によって一切の苦悩も不幸も、幸せへ、喜びへ、希望へと開き、蘇生させていくことができることを確信していただきたい。これが以信代によって、みずからの胸中に開かれた本有の“智慧”なのである。
6  法華経常不軽菩薩品に説かれた威音王仏について、御義口伝に「威とは色法なり音とは心法なり王とは色心不二を王と云うなり」と仰せである。「色心不二を王と云うなり」とあるように、われわれの生命の当体、心王である「我」は色心不二である。
 結論して考えるに、色心ともに生涯、妙法を信受し、広布に生きぬく生命それじたいが、人間王者の真髄であると拝せるのである。
 肉体があればとうぜん苦痛を感じるものだ。しかし、肉体といっても詮ずるところは一念三千の一念に収まるのである。「我」それじたいが仏界の生命になっていれば、いわゆる苦悩、苦痛は、ありえないともいえよう。永遠に遊戯できうる「我」の傾向性をかため、永遠ならしめるものが御本尊であり、信仰なのである。
 要するに法華経の経文上の舎利弗をはじめ如来の記別を受けた多くの仏弟子は、ぜんぶ妙法の法力によって、この大宇宙の仏界に融合し、やがて時を感じて何千万年か先に出てくるのかもしれない。
 今、末法は地涌の菩薩の眷属の出現する時である。広宣流布に殉じた皆さん方の父母や兄姉もまた、同じく仏界に融合し遊戯していることは、経文に照らしまちがいないのである。その融合した「我」が、いずこの国に、いつごろ誕生し、再び広宣流布のために活躍していくかは、これまたみずからの意思によって自在であり、自由に成しうるとも考えられるのである。
 ゆえに、病痛や苦悩があったとしても、正法の信心に生きぬき、この正しき信心を一生貫いていくことが大切なのである。
7  信心を根幹として、広宣流布にあって、社会、人生のうえに、どれだけの功を積んでいくか。これが、因果倶時の理法によって、未来の幸せと発展への因となっていくのである。その根本の功としての因を積んでいけるのは、もはや末法においては大聖人の仏法による以外にない。ゆえに、今後の生涯にあって、いかなる大難があったとしても、それに紛動されて信心をなくし“栄え”の因を失っていくようなことがあってはならない。
 自行化他にわたる唱題の実践に邁進し、正しき信心の軌道を進んでいる皆さんは、じつはたいへんな功を積んでおられるのである。それを深く確信し、現実の苦悩のなかで、いさぎよく信心に励み、一生成仏の見事なる人生を飾っていただきたい。

1
1