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岩手県記念代表者会議 心の一法より国土世間も生ず

1985.5.20 「広布と人生を語る」第7巻

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1  十三年ぶりに盛岡を訪れることができ、まことにうれしい。この岩手県も、組織的にも、人材の面などにおいても、第一期の広布の土台は完全にできあがったと思う。これからは、第二期の岩手広布の新たな人材の城の建設をお願いしたい。
2  本日は、この席を借りて、所感を少々述べておきたい。
 信心しても病気になる人もいる。また、さまざまな事故にあう人もいる。それぞれの境遇と境涯においても、千差万別の姿がある。
 人生には、画一的な境遇というものはない。さらに人生は、つねに順調というわけにはいかないだろうし、宿命の違いも個々においてまったく違いがある。そこで妙法を信受したわれわれの姿もまた、千差万別の姿といってよい。
 この千差万別の人間のなかにあって、千差万別の現証を示していくところに、同じような境遇と境涯の人々に深く納得せしめゆく、信心の証明者となっていけるわけである。
 したがって、千差万別の境遇であるがゆえに、それぞれに応じて、千差万別の同じ悩みで迷いつつ生きゆく人々をば救済できるにちがいない。それじたい、偉大な仏の使者なのである。ゆえに、その自分の境遇を信心のうえからみれば、喜びとしなければならないと私は思う。
3  岩手の地にも、尊い仏子をいじめぬいた障魔の嵐があった。広宣流布に進みゆくなかには、かならずそれを妨害せんとする働きがあるものである。
 そのなかで、人々を救う菩薩の使命をもつ私どもは、その卑劣な魔というものの本質を鋭く見ぬいていかねばならない。つねに勇猛であり、つねに精進していかなければならない。それ以外に広宣流布はありえないし、信深き智慧ある指導者とはいえない。
 報恩抄に「眷属けんぞく無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」と、金光明経の一節が引かれている。正法護持の人を諸天がかならず加護していくということである。
 「薬叉」とは「勇健」と訳し、生命の勢い、すさまじさを示すのである。
 宇宙に遍満する薬叉諸神が、それぞれ形を隠して正法信行の者をかならず守るのである。
 強盛なる信心をもって進みゆくならば、さまざまな策略、妨害、法難があったとしても、この経文のごとく、ついには正義の人は勝ち、謗者はしぜんに降伏していくものである。これは私の体験からもいえることである。
4  「心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり」との仰せがある。
 非情界の国土世間も、南無妙法蓮華経という一法から出来したものである。ゆえに、妙法を唱え、行じゆく私どもの一念の働きが、国土世間にも影響を及ぼしていけるのである。
 岩手という国土も、東北という国土も、広げて日本も、世界といっても、じつに人間の心と絶対のかかわりあいがあるのである。ゆえに私どもは、強き一念に、この国土世間の繁栄があることを知らねばならない。
 信心の一念というものは目に見えない。しかしこの信心の一念は、かならず現実の姿、行動となり、おのずから現実の国土世間へと広がり現れていくものである。
 ともあれ、仏法は勝負である。みずから住する国土において勝たねばならない。
 ここに妙法の根本精神がある。他教はみな、観念論なのである。立正をもって安国を願うところに、私どもの信心の一念がある。
5  「謗法と申す罪をば我れもしらず人も失とも思はず・但仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に・此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」との御文もある。
 謗法については、自分が謗法をおかしているかどうかわからない場合もある。また他の人をみても、その人が謗法をおかしていることがわからないこともある。仏法を学び、信心している姿を示しているときは、とくにそうである。しかし、信心は姿や形ではない。奥底の一念の姿勢いかんなのである。
 その人が信心の本筋を忘れ、広宣流布を根底とした信心の姿でなく、名聞名利、野心に走った場合には、たとえ表面的にはすぐれているようにみえても、すでに信心の世界から堕ちているのである。
6  世間の人が、われわれ大聖人の門下を中傷・非難し、信心の妨げをなすとき、その人は実証として「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」の御文どおりになっていくのである。
 信心の世界にあっても、つねに人々の心を攪乱していくような人に対しては、厳重に注意していかねばならない。それは、みずからの信心を破り、人の信心をも破っていく謗法の姿勢であるからである。
 その意味で信心は、数年とか役職のみでは決まらなくなってくる場合もある。よくよくたがいに注意しあいたいものである。
 近年あった元幹部たちや正信会の連中たちの策動は、まず信がなくなり、勤行をせず、まじめな人々を一歩一歩安易な堕落の方向へと引きずりこんでいったものである。
 これからも、あの幹部が退転していったかというような場合があるかもしれない。しかし、けっしてそれに従ってはならないし、本門戒壇の大御本尊への清浄な信心と、広宣流布への仏意仏勅をこうむった信心の道を、踏みはずしてはならないのである。

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