Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

秋田県最高会議 願ったこの地で創造と前進を

1985.5.18 「広布と人生を語る」第7巻

前後
1  三年前は白い雪におおわれた秋田であったが、今回はさわやかな緑の秋田を訪れることができた。
 この地をはじめ東北は、全体的に旧習も深く、広布の活動にあってもさまざまな困難がある。そのなかを、数十年間、草創の同志の強盛なる信心と異体同心の団結で、これだけの大発展の見事な基盤を築いてこられたことに、最大の敬意をはらいたい。
 さぞや大御本尊も讃嘆くださるにちがいないし、皆さまの功徳もいかに大きいことかと確信する。
 東北は曾根副会長を中心に、本部とも直結し、これまでの土台の上に新たな幸の城を築いていただきたい。
2  本日は、この席を借りて少々、所感を述べておきたい。
 今回の夕張での炭鉱事故にさいし、亡くなられた方々の追善の唱題を、ねんごろにさせていただいた。これまでも、信心の強弱は別として、御本尊に縁した方々が不慮の事故で亡くなられる場合があった。その報を聞くたびに胸が痛み、追善の唱題をしてきた。それが仏法者としての責務であると思っている。
 御本尊にとっては、信心している人はもとより、信心していない人もみな仏子である。ゆえにすべての人を救いたいとの御心が、御本尊の大慈大悲であられる。
 私たちもまた、退転者や不慮の事故等の報に接したとき、“なんとか信心に目覚めてほしい”と悩み、激励するなど、信心しているがゆえに心配をし、苦労をし、悩むことが多々ある。その、広宣流布、信心につながった心配、苦労、悩みは、その人の胸中に、菩薩の心が薫発されていることになっているのである。これほど尊いことはない。
 菩薩の心は強いものではあるが、悲観的になったり、わびしくなったり、暗い心に落ち込んでしまえば、せっかくの尊い菩薩の心が崩れてしまうものだ。ゆえに、つねに勇猛心をふるいおこしていきたい。
 また、事故にあった人も、信心でかならず変毒為薬できるのである。また退転しても、ひとたび御本尊に縁した人は、御本尊との強い縁によってかならず救われていくのである。生命は永遠であり、それが大聖人の仏法の御力である、との強い確信をもっていただきたい。
3  それぞれの国や土地には、特有の伝統と人情があり、とくに地方では、義理、人情が善悪は別にして人間関係における大切な要素となっている。
 信心をしていないから、あるいは退転状態にあるからとの理由で、親戚や友人、近隣の人々との人間関係を断ち切ることは大きな誤りである。もちろん謗法など、信心のうえにおいては、厳しい峻別、けじめをつけることは大事である。しかし、信心上のことと、世法上の人間関係とは別問題である。「信心」とか「組織」ということで、義理、人情をないがしろにしたり、非常識になって非社会的な関係となってはけっしてならない。
 人々を救うべき仏法を実践するわれわれが、人々との交わりを断絶のほうへと向けてしまうような行動は、仏法の精神を失っていくことであるし、絶対にあってはならないと思う。この点にくれぐれも留意していただきたい。
 秋田は新たな小松寿一県長のもと、副県長が県長を支えながら着実に発展を遂げている。秋田は学会草創の根っこの存在の地であり、歴史も深く、功労者も多い。
 学会は時代の流れ、社会の前進と相まって進み、むしろ時代を先取りし、先手を打ちながらきたところに、今日の大発展の姿がある。それゆえに、これからも、ジェット機がぐんぐんと上昇していくがごとく、日々、新たなる信心と確信で進んでいかねばならない。
 その意味で、今日までの土台は土台として、先輩は新しい、若い人々を大切にし、自分以上に成長し、活躍していけるよう心がけてほしい。
 先輩にとっても、後輩が成長した分だけ、育てた人の功徳となっていくのである。それを古い考えにとらわれたり、やきもちから感情的になったり、後輩の成長に怨嫉したりしていくことは、信心の道でもないし、仏法のあり方でもない。
4  「然れば日蓮賤身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり」との御金言がある。
 秋田の地は雪が多いとか、新幹線も通らず、発展から取り残されているとか、あるいは都会に出ていったほうがよいなどといった気持ちで、広布と信心の情熱を失ってはいけない。
 皆さんにとっては秋田の地が、広布の国土世間である。どうか、みずからの願い、誓いによって「この秋田の地に来れり」との気概で、「楽土・秋田の建設」をめざして、信心強盛に、歓喜の信心で新たな時代を開いていってほしい。
 信心は奥底の一念の姿勢できまる。環境条件の厳しさや、古い考えにとらわれて、潔い前進の心を失ってしまえば、功徳の信心とはならないし、地域の発展もない。“みずからが願ってきた国土だ。よし前に進もう”と発心するか、あるいは“こ
 んな環境では無理だ”と後退するか、いずれも一念のもち方である。
 もちろん生活や地域にあっては国土世間に応じた聡明な判断や行動は必要となるが、信心の世界は、迷いでなく、つねに創造と前進の姿勢を失ってはならない。
5  「梵音声と申すは仏の第一の相なり、小王・大王・転輪王等・此の相を一分備へたるゆへに此の王の一言に国も破れ国も治まるなり」との御文がある。
 仏法における梵音声の深義からいえば、南無妙法蓮華経こそ大梵音声であり、御本尊に南無申し上げたわれらの音声もまた、梵音声の一分に通じるのである。大事なときになればなるほど、信心の確信に立った一言が、人々の境涯と確信を深め、さらに広布の道を開き、苦難を打ち破って自分自身の功徳を増していくのである。
 悪いことがあればあるほど、苦難に向かえば向かうほど「大悪をこれば大善きたる」との確信をもって、明快なる信心の指導をお願いしたい。
6  最後に、各地の会場提供者の方々に、地域の広布の拠点として会場を提供してくださっていることに、本部として最大の感謝を申し上げたい。経済面とか家庭的にもさまざまなご迷惑をおかけしているが、使用させていただくブロックの方々は、提供者の真心に応えて掃除をしたり、提供者に気をつかわせないよう配慮をお願いしたい。

1
1