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全国代表者記念懇談会 開創七有年、創立六十周年の山へ

1985.5.8 「広布と人生を語る」第7巻

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1  皆さん方は、広布を推進しゆく指導者であり、信心においても、また人格、指導力等すべての面にわたって完成へと向かっている大切な学会の幹部である。今回の「5・3」記念勤行会はもとより、さまざまな会合における勤行のさいの中心的立場にある。
 その意味からも、中心者としての勤行のあり方についていうならば、勤行の姿勢は、どこまでも欣然として、若々しい朗々とした音声で、あとに続く数多くの地涌の友に、勇気と希望を与えゆくような勤行でなければならない。かりにも皆がねむ気をもよおすような、また後ろのほうに引きずられていくような、終わったあと疲れを覚えるような勤行であってはならない。
 勤行は、御本尊に向かって南無し奉り、あたかも白馬が天空を駆けるがごとく、仏界の宝塔へと入っていく儀式である。また、最高にして永遠不滅の大法を讃嘆しゆく儀式であり、妙法の大良薬をくまなく自らの生命に入れ、人々の生命を大良薬に浴せしめる儀式である。
 ゆえに、信心の基本となる勤行の姿勢をおろそかにしてはならないし、けっして惰性に流されてもいけない。
2  各県における県本部長(県総合長)と県長との関係については、運営上のいっさいの指揮、責任はとうぜん県長にある。そのうえで県本部長、総合長は、信心全般に及ぶ責任ある立場といってよいし、先輩として多面にわたる総合的責任をもって活躍していく存在である。県長はその先輩のもと、新鮮味あふれる若き指導者として、県全体の広布推進の全責任を担っていく立場にある。その関係性を阿吽の呼吸で理解しあって、たがいに遠慮のない広布の指導をお願いしたい。
 広布の活動や信心については、遠慮は絶対にあってはならない。そのうえで、妙法は協調、調和の法であり、幹部の協調、団結こそ全体の大いなる発展への力となることを忘れず、たがいの立場をよくよく理解しあって、各地域の広布を前進の軌道へと乗せていっていただきたい。
 指導者が疲れていたり、頭の働きが固くなってしまうと、次代を担う青年たちの成長を妨げることになる。若々しく、はつらつと広布の指揮をとり、青年たちを無限に伸ばし、活躍させていけるようなみずみずしい指導者であってもらいたい。
3  五年後の総本山大石寺の開創七百年の大佳節が、学会創立六十周年、また私どもの恩師である戸田先生の三十三回忌と一致することに、まことに仏法の不思議を感じる。
 第二祖日興上人が末法万年にわたる本国土妙の意義をこめられ、総本山大石寺を開創されて七百年という大佳節に、総本山外護の仏意仏勅を受けて誕生した創価学会の記念すべき重要な時が符号するということは、もったいなくも令法久住の総本山大石寺と同じ方程式で、創価学会が永遠に崩れない盤石の基礎ができ上がったことにも通じていくと確信する。
 その不思議な時が符号するこの時代にめぐりあわせた喜びを生命にきざみ、開創七百年を立派にお迎えしたい。さらにいちだんと強い決意で創立六十周年をめざし前進していこう。
4  ある探検家がトラの習性について話していた。他の多くの動物は食物を取りあいむさぼり食うものであるが、トラという動物は子が食べ物を食べているときは親は少し離れて見ているものであり、また親のトラが食べ物を食べているときは子供のトラは少し離れて見ているという習性をもっているという。その探検家は、トラほど紳士的な動物はいない、と語っていた。
 これは動物である畜生界の話であるが、私たちもいやしい人間にだけはけっしてなってはならない。たがいに尊重しあい、礼儀正しく、人間として立派な自立心をもつことが大切である。
 組織にあっても“なんとかなるだろう”といった、なれあいやいいかげんな態度は、絶対にあってはならない。同志の車だからといって乗せてもらうのがあたりまえのように思ったり、またなれあいゆえに起こる問題で、会員に迷惑をかけるようなことは断じて慎まなければならない。
 礼をふむべきはふみ、けじめをつけるべきはつけていかなければ、一時は便宣的によくても、長い目でみれば結局、信頼されず、自分も傷ついてしまうものである。つねに人間として礼をわきまえ、独立独歩というか、人間としての自立のうえに立った立派な人格で、組織が陥りやすい弊害を防いでいくことが大切である。
5  この十数年間、さまざまな意味で、皆さまに苦労をかけた。しかし、広宣流布の前進には、かならず「三障四魔」の出現があるものなのである。これは仏法上の法理である。ゆえに、つねに成仏と広布のためには、それを乗りきっていく深き覚悟をもたねばならない。
 たとえば、体内には、病気を治す働きもあれば、病原菌などの縁に応じて病気を引き起こす因も存在する。ゆえに、いくら栄養等に気を配り、さまざまな健康法を実践しても、病魔に負ければ病気になる。死にたくないと思っていても、死魔の出現はとめられない。また悪事を避けたいと思っても、その人のもつ煩悩に引きずられ、いわゆる煩悩魔の働きで不幸になる場合もある。
 要するに「魔」とは思いもしなかったところに存在し、またさまざまに蠢動してわれわれを苦しめるものである。いかに注意深くしても完璧を期そうと思っても、魔の働きはつねに現れるものであり、それが「魔」の本質なのである。つまり、それらを強盛なる信心によって乗り越え、大きく変毒為薬していくかどうかが、広宣流布を無限に開いていく方途となることを再確認していただきたい。
 しかし、とくに信心の世界においては長い試行錯誤を経ながらも“最後はかならず正義は勝つ”との確信を絶対に忘れてはならない。これが仏法であり、信仰なのである。
6  いかに広宣流布の展開と繁栄があったとしても、幹部であるわれわれはこれで自らの指導力は十分であると考えることは誤りである。組織の拡大、発展をみて、それが自らの力によるとの錯覚を起こしてはならない。むしろますます自らの信心と人格をみがいていくべきである。
 つまり、信心の確認と自分自身の進歩のためには、御書を開き、深く拝読することを忘れてはならない。会員への激励、指導をするさいにも、御書の御文を拝しながらの指導を、強くお願いしたいのである。
 御書の拝読を忘れた指導、実践は、しぜんのうちに観念論になったり、我見になったりしていく場合がある。心して自らの行動が空転にならないよう戒めあいたいものである。
 要するに、御書にはいっさいの問題解決への方途と、信心の極理が述べられていることを銘記されたい。
7  顕謗法抄に「菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無れ悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ、何を以ての故に是れ悪象等は唯能く身を壊りて心を壊る事能わず、悪知識は二倶に壊るが故に、悪象のごときは唯一身を壊る悪知識は無量の身無量の善心を壊る、悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては三趣に至る」と涅槃経の一節が引かれている。
 悪知識ほど恐ろしいものはない。悪知識は、身も心も破壊し、生命を地獄へと導いていくのである。
 たとえば、信心していても交通事故で亡くなる人や、同じようにさまざまな事故で亡くなる人もいる。しかしこの経文のごとく、身は破れても、信心さえあれば心は破られていない。したがって、追善供養すれば、成仏の方向へと入っていけることは疑いないのである。
 しかしそれに反し、悪知識に信心を破られてしまえば、身も心も破れ、三悪道、堕地獄の生命となってしまう、との恐ろしき悪知識の本質を見ぬかれた御書と拝するのである。
8  また報恩抄には「謗法の人人も国に充満せり、日蓮が大義も強くせめかかる修羅と帝釈と仏と魔王との合戦にも・をとるべからず、金光明経に云く「時に鄰国の怨敵是くの如き念を興さん当に四兵を具して彼の国土を壊るべし」等云云、又云く「時に王見已つて即四兵を厳いて彼の国に発向し討罰を為んと欲す我等爾の時に当に眷属けんぞく無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」等云云」との御金言がある。
 これからも、いかなる困難に遭遇したとしても、強盛なる信心さえあれば「我等爾の時に当に眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し」、すなわち目には見えないようであるが、しぜんに諸天善神がさまざまな働きとなって、広布に生きゆくわれわれを守り、「彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」、つまり勝利しゆくことは絶対にまちがいないとの御文と拝するのである。どうか、この御文を深く体して、晴ればれと、また次の山をめざして精進をお願いしたい。

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