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筑豊支部結成25周年記念地区部長会 豊かを心の人生に幸

1985.2.24 「広布と人生を語る」第7巻

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1  十九年ぶりで、ここ筑豊を訪問することができた。皆さま方の元気な姿を拝見でき、これほどうれしいことはない。
 この地にも正信会が荒れ狂って、皆さま方をいじめぬいたことを、私は一生忘れない。
 皆さま方は正しい信心ですべてに勝ったわけである。いかに大御本尊が正しくても、邪信と謗法の心をもった人々には、功徳は絶対にない。いな、大聖人にお叱りをうけるだけである。
 正しい信仰は、日蓮正宗の伝統法義に則り、大聖人の仰せどおりの広宣流布に精進しゆく、清らかな信心の一念にあるのである。ここに「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」との御金言の意義がある。
2  皆さま方のなかには、何かに悩んでおられる人がいるかもしれない。苦しみをもっている人がいるかもしれない。悲しみと戦っている人もいるかもしれない。現実の生活は厳しいものである。
 しかし、私は、ここで声を大にして申し上げたいことは、皆さま方の家々には、御本尊が御安置されているという事実である。御本尊がおわしますことは即日蓮大聖人がおわしますことに等しいといえる。
 また御本尊におしたためのように、日天、月天、持国天、毘沙門天などや文殊菩薩をはじめ諸々の菩薩等、すべての仏・菩薩、諸天善神がましますということである。これほど力強い、これほど強靱な守りをいただける人生は、絶対にありえないのである。
 その根本法である南無妙法蓮華経の御本尊に唱題しぬいていることは、何ものをも乗り越え、何ものをも恐れることのないわが身となっていることを知らねばならない。
 大事なことは、信心の厚薄である。信心の強弱である。飛行機もエンジンが弱ければ飛べない。無線機も弱体であれば遠くまで送信はできない。と同じように、強盛なる信心が、大聖人の仏法の要諦であることを、再確認されたい。
3  十九年ぶりの訪問でもあり、私に会いたいと思っている方々が何千、何万とおられるにちがいない。その方々にくれぐれもよろしくお伝えいただきたい。
 こうした会合で人数をなぜ制限するかといえば、消防法のうえからも、また一人でも事故を起こしたり、ご近所に迷惑をかけたりしてはならないということからである。
 昭和五十五年、第五次中国訪問の帰り、長崎空港から関西、名古屋、静岡、総本山へと向かった途中のことである。関西でも愛知でも数万人の人とお会いした。そのときは早朝から夜遅くまでかかり、私も疲れきったが、来られた方々にもたいへんな迷惑をかけてしまった。なんとも申し訳ない気持ちであった。
 時代の流れとともに、またあまりにも多数のために、けじめをつけていかなければ事故のもとになってしまうことを心配するのである。幹部の方々は心してこの点をご留意願いたいのである。
4  九州の皆さま方のために、全九州の総帥・吉橋副会長がいる。彼は中央大学の出身で、東京でも重要な立場になっていく人材であった。しかし、この九州の地も大切な法戦の地であり、皆さまのために九州で一生を送っていく決心なので、なにとぞよろしくお願い申し上げたい。
 また、北九州の将として、皆さまとともに戦ってきた館野君も中央大学の出身者で、これまた東京にあっても将来を嘱望されてきた一人であった。さらに、このたび第二福岡県長になった佐藤政春君も、早稲田大学を卒業し、大学院でも学んだ優秀な若き人材である。将来を大きく嘱望されている一人であるが、いまだ若く、皆さま方の支えを心からお願いしたいのである。
 とともに、丸岡副会長は、福岡大学の出身で、やはり皆さま方の立派なリーダーである。東京より派遣された幹部とも、これまた一体となって頑張っておられるので、この席をかりて、私からもよろしくお願い申し上げたい。
 ここで私が申し上げたいのは、責任者として東京から派遣された人は、その地で
 生き、その地で終わる決心でなければ、使命は果たせないし、偉大な業績は残せな
 いということである。甘い、単純な考えでの派遣は、往々にして失敗している。これからはその轍をけっしてふまないよう、本部としても考えているしだいである。
5  いかなる地域にあっても、中心部の信心が大事である。機械でも中枢にわずかでも故障があったり、中心軸とギアがうまくかみ合わないことがあれば、全体に大きな影響を与えてしまうものだ。
 と同じように、それぞれの中心者の信心、一念の濁りは、多くの人々を苦しませてしまうことになる。ゆえに、役職についたからといって、それをみずからの信心の強さと錯覚をして、慢心にとらわれ、えらぶったりしてはならない。また、ふざけ半分の言動は断じて戒めていくべきである。
 どこまでも“如来の使い”として、誠実と慈愛あふれる姿であっていただきたい。尊い仏子である妙法の友に対して、こまやかな愛情と情熱をこめて接し、徹底して奉仕していく真心の実践をお願いしたい。
6  “筑豊”とは“豊かな地”を意味しているといえよう。心が豊かな人は幸いである。いくら財産と地位と名誉をもったとしても、心が卑しければ不幸である。
 信心は心も豊かに、生活も豊かに、英知も豊かに、そして地域も豊かにしていく原動力である。名誉即幸福では絶対にない。学歴即幸福でも絶対にない。身なり即幸せでも絶対にないのである。
 御本尊ましますところ、清らかな信心をしぬくところ、即常寂光土なのである。
 常寂光土のところには不幸はない。すべては幸せへと転換していくのである。
 最高の豊かさは、唱題をしゆくところにある。御本尊を信受し、唱題に励みゆく人は、かならずや最高の幸せな境涯となっていけることを確信されたい。
7  大聖人は「一生が間・賢なりし人も一言に身をほろぼすにや」と仰せである。
 どんなに賢人といわれる人も、一言に身をほろぼす場合がある。功成り名を遂げても、わずかな振る舞いで、いっさいを無にしてしまうこともある。
 信心の世界にあっても同様なことがいえる。功徳を受けてすばらしい境涯となっていても、また、多くの人々の尊敬を受けて指導的立場に立っていても、いざというとき信心を崩してしまえば、すべての福運を消してしまうことになる。
 大事なことは、いざというときの一念の姿勢がどうであるかということである。
 一念というものは微妙である。世間のいわれなき中傷・非難、三障四魔の嵐の前に、信心の一念を揺るがせるようなことは、けっしてあってはならない。
8  筑豊の皆さま方は、嵐に耐え、すべてに勝利してきた信仰勇者であられる。私は心から皆さま方をたたえたい。
 どうか、人生の最後の総仕上げの時まで、深き信心と広布に生きぬいていただきたい。そして、多くの人々に慕われ、信頼される模範の存在となって、今世を飾っていただきたい。その人こそ真実の賢者であり、人間としての勝利者なのである。

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