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関西代表者祝賀会 末法の「戎」とは御本尊受持

1985.1.20 「広布と人生を語る」第7巻

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1  昨秋の兵庫での世界平和文化祭、ならびに和歌山でのSGI総会の折には、関西の同志の皆さまにたいへんお世話になり、心から感謝申し上げたい。その後もしばらく関西に滞在し、諸行事に出席する予定であったが、急遽、東京へ帰ることとなり、十分に来阪の目的を果たせなかった。
 そこで、今回また関西を訪問させていただいたしだいである。
 どうか、この日を、学会創立五十五周年を祝し、深き意義と思い出を幾重にもきざむ集いとしていただければ幸いである。
 学会は、今年で創立五十五周年を迎えた。五十五年といっても、本格的な広布の活動が展開されたのは、戦後、戸田先生が第二代会長に就任されてからといってよい。その意味では実質、三十四年であり、いわば今日の学会は、青年のごとく、未来に伸びゆく生きいきとした時代になっているといえよう。
2  先日、ある著名な宗教学者と懇談した。その学者は、今日の学会の発展の姿について、次のように語っていた。
 自分はキリスト教はじめ既成宗教、新宗教等を永年にわたり研究、分析してきた。多くの宗教が形骸化し、さまざまな問題をかかえ、行き詰まっているなかにあって、日蓮正宗創価学会の発展は、まさに理想的である。御宗門と学会の関係といい、学会のあり方、社会における幅広い活動といい、他のあらゆる宗派、教団にはみられない絶妙の姿である。よくぞこのような発展ができたものだ、と感嘆していた。
 これもすべて大御本尊への信心の偉大さの証であり、また正法流布が伸展していくようにとの御本仏日蓮大聖人の御仏意の賜であると、私は深く確信している。
3  仏意仏勅たる広宣流布に邁進しゆくわが創価学会が誕生して五十五年。また、戸田先生が戦後の学会再建に立たれてから三十数年。御歴代の御法主上人の御慈悲につつまれながら、かつてなき歴史の壮挙ともいうべき今日の偉大なる広宣流布の発展を遂げることができた。この姿こそ、われらが正しき信心と正しき広布の大道を歩んできた実証といってよい。
 現在は、科学技術の発展や社会制度の充実の恩恵を享受できる時代となった。車もぞんぶんに利用できるし、交通網も発展してきた。電話や郵便をはじめ高度な情報網が自由に活用できる。休日制度も定着しつつあり、時間的な余裕も生まれている。
 これらを考えあわせるとき、私どもの広布への活動が、推進しやすい方向へ、やりやすい方向へと、ますます社会状況がととのってきているとみることができる。
 この観点からも、日本にあっても、世界にあっても、ますます広宣流布の道は洋々と開けゆく時代に入っているとの大確信をもっていただきたい。
4  この関西の地にも、戸田先生は何度も足を運ばれた。そして、皆さんの先輩もよくご存じのごとく、未来の広宣流布のために深いクサビを打たれてきた。私にとっても、この関西の地は、切ってもきれない縁深き地であることは、皆さまもよくご存じのとおりである。
 私はかねてから、関西は広宣流布の活動における、いわば“心臓部”が強く脈動していく必要がある。さもないと、全体の生命は躍動の息吹を失い、健全なる前進ができなくなるからだ。
 もちろん、東京は学会の中心的立場であり、日本の広布の縮図となるべき地である。しかし、中心地であるだけに、さまざまな激しい戦いがあり、あらゆる意味での決戦場が、東京なのである。ゆえに、その活動が健全に、はつらつと行われ、また、全国にみずみずしい脈動を与えていくための“心臓部”となる地が必要となってくる。その意義と役割をもつ国土世間が関西であり、ここに関西の重要な意義があることを、皆さま方はよくよく知っていただきたい。
5  「金剛宝器戒」の意義   
 教行証御書には「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内にあに万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけん」と仰せられている。「金剛」とはダイヤモンドのことであり、仏法では堅固であることの象徴に用いられる。「一度持って後・行者破らんとすれど破れず」と仰せのごとく、絶対に壊れず破れないのである。「宝器」とは宝の器で、「生命」のことといえる。
 つまり、妙法を持つとき、生命が金剛の宝器となり、永遠に壊れることのないことを「金剛宝器戒」というのである。
6  この「金剛宝器戒」については梵網経等に説かれている。金剛宝戒、一心金剛戒ともいう。
 これを釈して伝教大師は「一切衆生の無始の心中に皆性徳本有の金剛宝戒あり、性徳本有の戒の中に本来無作の三身あり(中略)是の性徳本有無作の三身を性徳本有の金剛宝戒と名づけ、円頓の戒体と為す」(一心金剛戒体秘決)と述べている。
 つまり一切の衆生の生命には、本来、性徳本有の無作の三身如来がそなわっており、それを金剛宝器戒というのである。
 「戒」とは、仏法上一般的にいえば、仏道修行をする者が守らなければならない規範とされるものである。爾前経においては、さまざまな戒をもうけてきた。それに対して、妙法蓮華経の五字には、あらゆる万戒の功徳がすべて具わっている。ゆえにこの妙法蓮華経を受持することが、あらゆる戒を持ったことになる。この妙法蓮華経の当体を、末法の御本仏日蓮大聖人は三大秘法の御本尊として顕された。
 したがって、末法今時においては「受持即持戒」、つまり、三大秘法の大御本尊を持つことが即「持戒」となるのである。
 三大秘法の大御本尊を信じ受持することによって、わが胸中に無作三身如来の生命を湧現することができるのであり、それを金剛宝器戒というのである。ここに、いっさいの戒といっさいの因行果徳はふくまれているわけである。
7  かつて戸田先生は“放射能”をたとえに引かれながら話されたことがある。
 放射能は色もなければ、においもない。目にも見えない。しかし、われわれの身体細胞を破壊するなど、たいへんな極悪の力をもっている。
 この“放射能”の原理を、もったいないことだが、「金剛宝器戒」にたとえれば、まったく逆の極善の作用となる。ひとたび御本尊を持ち、題目を唱えた人、また折伏をされ妙法を聞いた人には、南無妙法蓮華経の大慈大悲の“放射能”が、生命に深く入ったといえるのである。
 悪い作用としての放射能は、死の問題につながっていく。一方、南無妙法蓮華経に一度でも縁し、つつまれた生命には、生々世々、成仏への大良薬が働きはじめるのである。
 放射能のもつ力は、化学反応による力の比ではない。核兵器の放射能はいわば悪魔の最極の力である。反対に、宇宙の根本法則である南無妙法蓮華経の力は、無量無辺の大良薬としての力をもった“放射能”といえるかもしれない。
 ゆえに一度でも大御本尊に縁し、生命に入った妙法の“放射能”は、永遠に消しさることのできない「金剛宝器戒」となっているわけである。
8  信心しても、なかには退転していく人もいる。しかし退転し、一時は表面的には妙法の世界から離れたようにみえても、一度、その人の生命に築かれた「金剛宝器戒」は絶対に破れないのである。人生や生活の問題、心の問題等に悩んだ後、ついには、この「金剛宝器戒」の厳たる力用によって、かならず、再び妙法のリズムに入り、仏法の軌道へと戻ってくるのである。
9  人類平和へ妙法弘宣を     
 大聖人の仏法は「下種仏法」である。「下種」すなわち折伏には「聞法下種(下種をうけて法を聞くが、まだ信受しないこと)」と「発心下種(下種をうけて信心を発すること)」がある。
 また、折伏をされて素直に入信する人もいる。これを順縁の衆生という。逆に反対をする人もいる。これを逆縁の衆生、毒鼓の縁ともいう。
 しかし「下種」とは、衆生の生命に仏種を植えたことであり、たとえ信受しなくとも、すでに御本尊の大慈大悲の“放射能”が入ったことになる。
 ゆえに、下種をされた人は、どのような人であれ、順縁・逆縁ともに、かならず発心し成仏の方向へと向かっていくのである。ここに折伏行の重要な意義があり、
 凡夫では計り知れない御本尊の偉大なる御力があることを知らねばならない。
 人類の幸福といい、世界の恒久平和といっても、一人の人間の生命をいかに薫発し、そこに幸福と平和の砦を築いていくかが、すべての前提条件であることはいうまでもない。その意味で、大聖人の仏法以外に、人類の幸福と恒久平和をもたらす大宗教はないと訴えたいのである。
10  以上申し上げた「金剛宝器戒」の厳粛な法理を深く知って、皆さま方はさらに御書を深く拝読していただきたいのである。こうした意義を知って拝読するのとしないのとでは、信心の深さのうえで大きな違いが出てくるからである。
 どうか、御本尊への大確信に立って、日々、信心を深めていただきたい。そして、われらの妙法弘宣の活動こそ、人類にとって無限にして永遠なる平和への変革作業を行っているのだとの誇りをもって進んでいただきたい。もう申し上げて、私の話を終わらせていただく。

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