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日蓮大聖人・池田大作

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「新宿の日」記念総会 社会貢献の健全なる自己を

1985.1.15 「広布と人生を語る」第7巻

前後
1  一月十五日は、いわばわが新宿区のお祝いの日でもある。十三年前の約束を忘れずに、成人会で誓いあった同志が、このように、全国からこの日を目標にして集まってこられたことはたいへんにうれしいかぎりである。また、きょう成人式を迎えた人たちには「おめでとう」と祝福の言葉を贈りたい。
 「灯台下暗し」という。(笑い)学会本部を擁する新宿はいわば灯台の下にある存在だが、最近は、活躍や成長も著しく、光り輝いてきたような感じがして、喜びにたえないものである。
 会長、理事長も、多くの副会長も、私も新宿区に在住しているが、われわれは、松岡新宿長のもと、新宿区内では一会員であり、どうか皆さん方が、私たちを広布のため、組織発展のためにぞんぶんに使っていただきたいことを、今後ともよろしくお願いしたい。
 本日は、功労の方々と、また将来に生きゆく多くの若人と語りあうひとときをもつことができ、たいへんにうれしく思う。
2  青春時代は煩悶の時代である。悩み、苦しみ、疑い多き人生の時である。人生をどう生きようかという、“もがき”の時代でもある。それはとうぜんであって、青春時代から、何もかも分かり、すっきりと、洋々と進んでいけることなどはありえない。むしろこの悩み苦しむ青春の混沌こそ、将来飛翔し、大成しゆくための豊かな人生の土壌となっていくことを忘れてはなるまい。
 ゆえに、大事なことは、けっして焦らないことである。たとえば、春にならなければ、どんなに咲かせようと思っても、桜の花は咲かない。菜の花もそうだ。“時”を知ることが大切であり、二十代には二十代としての生き方があることを知らねばならない。
3  青年時代は自身の修行の時代である。異性への目覚め、親との関係に心を悩ますこともあろう。社会に出ても複雑な人間関係や社会の過酷さ、不平等、矛盾などに憤りを覚えることもあろう。純粋であればあるほど、真剣であればあるほど、その思いは深く強いのが青年の特色である。
 そこで大切なことは、何かに直面したとき、悪に妥協し、堕落していくか、反対にその煩悶を、成長と幸福道への飛躍台としていけるかにある。ともかく、すべての環境は、自分自身をみがき、人間修行をしていける場だと自覚することである。
 つねにみずからを鍛えぬこうと決意していったときに、自分自身の土台が堅固となる。
 ともあれ、青春時代の苦悩は、つねに前に向かって努力していけば、時がたつにつれて、解決していくことを忘れてはならない。
 ましてやわれわれは御本尊をたもち、仏子として信心に励んでいるのである。強盛なる信心を貫いていくならば、かならずや“所願満足”の人生として、自分の思っていた以上の境涯と立場で生涯を飾っていけることはまちがいない。それは、もったいなくも御本仏日蓮大聖人がお約束してくださっていることだからである。
 したがって無常なる現実の荒波に流されるのでなく、もがきながらでも、確かなる方向に向かって進みゆく、誉れの青春の日々であっていただきたい。そして、この「一月十五日」をば、いかなる状況にあっても、全員が集いあい、同志とともに大成への誓いを新たに約しあう、自身の原点の日ともしていただきたいのである。
4  妙法で生命の大地を無限に開拓
 信仰の目的は何か――さまざまなとらえ方はあろうが、個人の次元でいえば、肉体的にも精神的にも、また社会的にも、健全にして強靱な自己をつくることである。
 体が丈夫であっても精神が薄弱であれば、立派な人間とはなりえない。さらに色心ともに健康であっても、社会にあって、非常識であれば、ぞんぶんな活躍はできない。それもまた偏頗な人間といわざるをえない。
 精神的にも肉体的にも健全なる生命をもち、社会へと連なって、世界と人類に貢献していける自分自身をつくるというところに、信仰の目的はある。
 いわば青年とは、まだ耕されていない人生の“未開地”といってよい。ゆえに自分で自身が分からない場合も多い。社会経験も乏しく、複雑な人間関係、異性関係についても、未来の見通しや確かなる帰結はなかなか分からない場合もある。
 また“未開地”であるということは、多くの可能性をはらんでいるということでもある。たとえば、なかには、ミカンに適した土地もあろう。お茶だけに適した大地であるかもしれない。その“未開地”をどのように開拓するかで、未来の沃土は決まってくるといってよい。ここに、生命開拓の信心が重要となってくるのである。
5  妙法は宇宙大の広さと無限の力を秘めた大法である。ゆえに妙法を持ち唱題しゆくとき、“未開地”のごとき生命は、大宇宙へとつながった一念によって、開拓され、養分を与えられていくのである。そして、この生命の大地は、何の種子を植えても、かならず芽を出し、枝葉を広げ、人生の果実を実らせていけるのである。
 妙法の功徳は、自分の生命を開拓することだけにとどまらない。一家はもちろん、後輩も同僚も、また先祖代々まで、実を結び、花を薫らせていけるのである。信心が深まれば深まるほど、そのありがたさが実感できるのである。
6  社会というものは、ともすれば人の不幸のうえに自分の幸福を築こうとしたり、また人を押しのけてでも自分が偉くなろう、という残酷な面をもっている。
 そうしたなかで、仏法の慈悲を根本としながら、多くの未来に生きゆく青年たちをあたたかく誠実に、そして真剣に育成しているのが創価学会である。
 この仏法の人間錬磨の世界をけっして軽んじてはならない。侮辱してはならない。なぜならば、しょせん、それは、自分自身の成長と真の幸福への道を閉ざすことになり、最後にかならず後悔するにちがいないからである。
 長い人生にあって、傲慢な人は、最後は苦しみ、後悔するものだ。皆さんはその轍をけっして踏んではならない。
7  現代の日本は、娯楽やスポーツがかつてない隆盛を示している。それらの娯楽やスポーツを楽しむこともけっこうであると私は思う。しかし人生の鍛練と進歩を忘れたところには、むなしさしか残らない。一見、華やかで、楽しいようであっても、その裏面の心は、なんとなく寂しさがただよってしまうものである。
 しかも、大事な青春時代を、ただ刹的な楽しみを追ってむなしく送るか。確固たるものをもたずして、はかなく送るか。また未来のために充実と確かなる人生の基盤を築きゆく日々であるか。そこに、一生涯の勝敗の分かれ道が、しだいしだいに決まっていくことを忘れてはならない。
 充実の“精神的年輪”“生命的年輪”を重ねていったところに、人間としての勝利があることを忘れてはならない。
8  仏法でも「遊楽」を説いている。「娯楽」「戯楽」という言葉も法華経にある。
 しかし、「楽法」というように、その「楽」には、楽う、すなわち「願う」という意義も存している。「願う」とは、究極するところ、最高最善、無量無辺の崩れざる境涯を感得するために大御本尊に祈っていくことになるのである。ここにのみ真の「所願満足」の人生はつくられ、真の「遊楽」と「歓喜」の人生が確立されるのである。
9  諸葛孔明の至誠の生涯に学ぶ 
 われわれは、広宣流布という壮大な目的をもっている。「諸孔明」が漢王室の血を引く劉備玄徳を支えて、天下三分の計をもって立ち上がったのは、二十七歳の時であった。
 当時、中国では魏の曹操が覇権をふるい、まさに中国全土を支配せんとしていた。横暴な曹操による支配が実現すれば、民衆は苦しみに沈むことになる。そこで彼が考えたのは、魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)による天下三分の計であった。地理的には、魏は華北一帯、呉は揚子江流域、蜀は、今の四川省をそれぞれ占めていた。
10  ところで孔明は、早くして母(九歳のとき)と父(十二歳のとき)を亡くし、一家は離散している。親を早く失った子供の苦悩は筆舌に尽くせないものがあろう。
 しかし、それが大きく子供を育てることがある。親のいない人に、偉大な人物が出ているのも、その良き例である。諸孔明もまたその一人であった。
 諸君のなかにも、早く親を亡くした人がいるかもしれないが、苦しさにけっして負けてはならない。その苦悩を、得がたき若き日の財産として、大きく成長していただきたい。
11  彼は、劉備のもとで、二十七歳より五十四歳で亡くなるまで、漢室の再興のために、また蜀の国のために、身を削り、血の涙を流して戦った。
 やがて劉備は病に倒れる。しかし、その子劉禅を王として、彼はさらに戦いぬいた。彼の活躍によって、蜀の国は安定していった。
 しかも、なにごとも安定を得ると、保守化し、しだいにみずみずしい前進の息吹は失われていくもので、そこから堕落と衰退の道が始まる。
 しかも、魏の国はさらに力を増し、蜀の国をねらっていた。孔明はそれを見ぬいていた。自分の存命中に、先手を打って討っておかなければ、かならず魏の国は蜀を討ち滅ぼすにちがいないとの洞察のうえから、彼は、多大な犠牲を覚悟のうえで、魏の国を討つ決意をするのである。
 しかし、蜀の多くの重臣たちは、現実の安定に甘んじ戦をきらっていた。
 孔明の決意は固かった。この出陣にあたって、王・劉禅に奉った決意の書が、有名な「出師の表」である。この表は、孔明の国を憂える真情を吐露した名文で、読む人をして涙させずにはおかないといわれている。
12  その文中に、「宮中府中一体たり」との有名な言葉がある。宮中とは皇帝の側近、府中とは政府官僚のことで、先帝・劉備亡きあと蜀は危急存亡の時にあり、宮中と府中が一体となって事に当たらなくてはならないことを訴えたものである。
 戸田先生もこの文をたいへんに好きであられた。今でいえば目的に向かって、指導者と民衆とが一体となって、その目的を達成しゆく道理をいっているわけである。
 また、孔明は、「賢臣に親しみ、小人を遠ざけしは、これ先漢の興隆せし所以にして、小人に親しみ、賢臣を遠ざけしは、これ後漢の傾頽せる所以なり」と述べている。
 すなわち、前漢が栄えたのは皇帝が賢臣を近づけて用い、口先が巧みでこびへつらう阿諛便佞の小人を遠ざけていたからだ。後漢が滅びたのは、賢臣を遠ざけ、小人と親しくし用いたからだと述べて、若き未熟な劉禅に帝王の道を説く。
 これは指導者としてもっとも心しなければならない点である。歴史が教えることには、つねに尊い真実があることを学ばねばならないと思う。
13  孔明の魏討伐の出兵に対して、多くの人は反対した。
 だが“今こそ、その時である”と決意していた孔明は“座して滅びを待つよりむしろ討つべし”として、討伐の軍を中原へと進め、「五丈原」の決戦へと至るのである。
 彼は、この五丈原で魏の大将軍仲達と対決した。戦いには幾度か勝ちを収めたが、運拙く、孔明は病に臥し、ついに五丈原で倒れてしまう。孔明は自分の死後についても作戦を授け、このエピソードは「死せる孔明、生ける仲達を走らす」との言葉で伝えられている。
 この孔明の赤誠を偲んで歌ったのが、土井晩翆の「星落秋風五丈原」である。
 この歌は、戸田先生が好まれた。それは、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布へのご自身の不惜身命の胸中を、この歌に託されていたのである。総本山を外護しながらの、苦悩の連続の法戦にあって、その苦心孤忠の思いが、相通じるものがあったにちがいないと私は思っている。この歌を聞くたびに私は、今もって、粛然とさせられるのである。
14  ともあれ、この広宣流布への戦いも今や未曾有の広がりを見せている。日蓮正宗創価学会のこの発展を、だれ人が予測したであろうか。
 私どもは、戸田先生の志を継ぎ、御本仏日蓮大聖人の御遺命を奉じての広宣流布への前進を、けっして安逸に堕することなく、どこまでも戦いぬいていきたいものである。
 新宿は、どこよりも楽しく、どこよりも信頼しあい励ましあっていく、世界第一の、“新宿家族”であっていただきたいと念願し、本日のあいさつとしたい。
15  ”覚悟の人”に御本尊の加護
 足立区第四回懇談会
 昭和60年1月18日
 本日はご繁多の折、このようにお集まりいただき、心から感謝申し上げたい。会館は信心を錬磨しゆく広宣流布の道場でもあるし、この席を借りて、少々、信心指導をさせていただきたい。
 足立は、東京のなかでも大田区と並ぶ、王者のごとき区であるといってよい。学会の草創期から“下町の気骨”ともいうべき信念と情熱をもって、模範の法戦を展開し、全東京の原動力となるとともに、ひとつの広布の縮図ともいうべき国土世間となっている。その功徳は計り知れなく大きいことを確信されたい。
16  こちらへ向かう車中で戸田先生の指導を思い起こした。それは、昭和三十年一月十六日の中央大学講堂での第三回男子部総会のことである。
 席上、戸田先生は、“広宣流布”と“死後の生命”について講演をしてくださった。記憶の薄れたところもあるが、そのときの先生の話の趣旨をくみ、そこから敷延して話を展開させていただきたいと思う。
17  もとより広宣流布は御仏意によるものである。それはそれとして、ご自身の決意として、このとき戸田先生は「二十五年以内を一つの目標としよう」と言われた。
 そして先生は「今私は五十六歳。二十五年後といえば、八十一歳になる。そこで、それまでは生きておれないだろうから、他の仏国土にでも行って折伏し、広宣流布を進めたい。この地球上(娑婆世界)での広宣流布は、青年部の諸君に託したい」と語られた。
 この話に、広布への誓いを新たにしたことを鮮明におぼえている。
 またあるときは「二十五年間でひとつの広宣流布の基礎をつくっておかないと、数百年後になってしまうかもしれない。その確信で進んでもらいたい」とも言われていた。
 その広布の様相のひとつとして、先生は、あそこの会社の守衛さんも学会員だ、この店の店員さんも学会員だ、といった具合に、芸術家、大学の教授、会社の社長もいれば政治家もいる。作家も、医者もいる。どこへ行っても学会員がいる。妙法を受持した同志が活躍している――このような広がりを社会にもったときに、ひとつの広宣流布の基礎ができあがったといえる、と話されていた。
18  今まさに、こうした様相を、日本の各地で見ることができる。そして世界の各国にも広がりつつある。飛行機に乗っても、新幹線に乗っても、山奥に行っても、離島を訪れても、行く先々の思わぬところで同志とお会いする。こんなところにも、信仰者が、学会員がおられると思うと、驚きとともにありがたいかぎりである。
 ここに私は、三十年前に先生が「二十五年以内に」といわれた意義と、妙法広布の確かなる結実を見る思いがするのである。
 その時から二十五年後といえば、昭和五十五年にあたる。
 私は私として、つねにこの先生のいわれた「二十五年以内に」という責務を日夜忘れることができなかった。
 そして、皆さま方のお力によって昭和五十五年前後には、広布の流れは大いなる上げ潮となって、このひとつの構想は果たしえたと、私は実感した。私がこの前年、第三代の会長を勇退した理由のひとつがここにもあったと申し上げておきたい。
19  後輩の育成が未来を決定    
 また先生は、青年の薫育のために、よく吉田松陰の話をされた。今の青年諸君にとっては、若干、古い話かもしれないが、明治生まれの先生としてはとうぜんのことであった。
 ともあれ大教育者でもあられた先生は、青年の育成にあたっては稀有の指導者であった。戸田先生から、若き日に直接、薫陶を受けた人たちが、今日あらゆる分野で活躍していることをみてもおわかりのとおりである。
 次の時代を託す青年たちをいかに育てていくかが最大の課題である。いかなる会社であれ、いかなる団体であれ、いかなる国であれ、いかなる組織であれ、これこそ最重要の課題であるといってよい。
 いわんや広宣流布という前代未聞の大偉業めざし、全人類に仏の“慈悲”と“法”を弘め、恒久の平和を実現せんとする学会にあっては、ことさら大切であることはいうまでもない。
20  ところで吉田松陰のもとに二人の逸材がいた。久坂玄瑞と高杉晋作であり、この二人は松陰門下の両柱といわれていた。
 二人の弟子の性格は正反対であった。しかし玄瑞は晋作を「彼こそ逸材なり」と認め、晋作もまた「久坂玄瑞こそ逸材なり」と尊敬し、信頼していた。
 ふつうであれば“おれの方が”という慢心が働くものである。あるいは“なんだあいつは”と心の奥に軽の心をもつものである。これが醜い人間世界の常といってよいだろう。
 しかし、門下生は、師のもとに純粋だった。松陰門下に多くの人材がいたが、この双璧を軸として、維新回天の大偉業へと進んでいったといってよい。
21  しかし、師・松陰も、玄瑞も晋作も、維新の大業を見届けることはなかった。松陰は維新の八年前に、三十歳(数え年)で刑死している。また玄瑞は二十五歳(同)の若さで、晋作は二十九歳(同)で、志半ばにして倒れている。彼らは、維新回天の種を蒔き革命の源流となったが、革命の大輪の花をながめてはいないし、その果実も味わってはいない。
 だが、彼らの志は、多くの志士たちに受け継がれ、維新の大業へと、時代を推進していったわけである。
 そこに仏法で説く「生死不二」にも似かよったものを私は感ずる。偉大な仕事を成し遂げんとする“執念の一念”というものは、死してもなお、時代の歯車を回転させていくということを学びとっていただきたい。
22  次元は異なるが、広布の法戦においても、その途上で、多くの妙法の友が亡くなっている。こうした方々の、広宣流布への大志と活躍のうえに、今日の未曾有の発展があることを、われわれはけっして忘れてはならない。
 戸田先生は「大楠公」の歌が好きであったが、そこに歌われた楠木正成、また二十代で討ち死にした正行の死が、時代を超えて人々の胸を打つのも、永遠なるものをはらんだひとつの一念の所作であるからであろうか。
 生命の年輪は、ただ年齢によって刻まれるものではない。どれほど深く人生を生きたかで決まるものであり、それこそが永遠なる生命の輝きとなることを知ってほしい。
23  要するに“覚悟”を決めた人生が大事である。これこそ信仰者の姿勢でなくてはならない。一般的にも覚悟の人は強い。そこでは、悩みや悲しみも半減するし、さらにすべての苦難を乗りきっていこうとする勇気がわいてくるものである。
 かりに信心しても、縁に紛動されゆく人は、覚悟の人とはいえない。勤行さえしていれば、すべてがよくなるであろうと思うことも、深い覚悟の信心とはいえない。偶然や僥倖のみを追ったり、人を頼ったり、浅い考えで才のみに生きようとする人も、これまた覚悟なきもろい人生といわざるをえないであろう。
 “覚悟”とは、あらゆる人生の局面にあって、あくまでみずからの力と意志で、難局を開き、希望の光をつかみとっていこうとする強き一念のことである。
 この強き一念をもって、大御本尊に祈っていくところに、ほんとうの“覚悟”の姿があると思うのである。
 “この職場で第一人者に”“この地域を立派に”“わが家を幸せに”、主人が亡くなっても“よしかならずわが家を立派に”等々、つねに前向きに雄雄しく進みゆく姿勢こそ、覚悟の人生の姿であると私は思うのである。
 そうした覚悟の人をば、大御本尊は諸天善神に命じ、さらにお護りくださるのである。
24  常に謙虚に求道心を忘れるな 
 “組織”の大切さを教えてくださったのも戸田先生である。創価学会の組織は、広宣流布という目的達成への不可欠の手段でもある。
 個人個人の信心にあっても、たがいに切磋磨していく組織がないと、どうしても独りよがりとなり、「我見」におちいったり、「懈怠」におちいったりして、前進と向上がなくなってしまう。
 大聖人は謗法を何よりも戒められている。しかし、一人では“謗法になっている”とは、なかなか気づかない。人に指摘されてはじめてわかることが多いものだ。
 ゆえに私は、組織を大切にし、組織に感謝できるようでなければならないと思っている。それは正しき信心と広宣流布のための組織であるからである。
25  しかし、組織といっても、人間と人間とのつながりである。そこには良い人もいるだろうし、癖のある人もいるかもしれない。その意味から、感情的になったり、気がさす場合もあるかもしれない。だが、もっと高次元な、目的観を明確にとらえ直し、それからの低次元で複雑な感情を超克していくことが肝要である。
 また、組織の“長”たる人は、人々をリードしていける“力”をもたなければならない。
 “力”といっても、人間的魅力、包容力、誠実さ、確信、さらに教学力、指導力等々、さまざまなものがある。それらの力をどうつけていくか、そのために“長”は、人々以上にそれなりの努力と精進を忘れてはならないのである。
 “長”になることは、より多くの同志の方々の幸せを推進していける立場、また、そうしていくべき立場である。だが、“長”になったというだけでは、人々から尊敬される資格を得たわけではない。
 一応、人々はついてくるであろう。また、指導も求めてくるにちがいない。さらに、話をすれば、拍手も送ってくれるであろう。だからといって、それは同志の善意によるものであって、けっして自分が“えらく”なったと錯覚しては絶対にならない。すべてこれは大御本尊からいただいた功徳の姿であり、使命であると、感謝を忘れぬ謙虚の人でなくてはならない。
26  これまでも幹部のなかには、役職に対して託された力を自分の力であるかのように錯覚し慢心におちいった人もいる。そうした慢心、驕慢の人は、人々から嫌われ、結局、妙法の世界にいられなくなっている。ゆえに“長”は、どこまでも謙虚であるべきであり、多くの後輩のために尽くしていこうという姿勢を忘れてはならない。
 ましてや役職の権威をカサにきて、後輩の信心を窮屈にさせたり、怖い感じを与えていくことは大きなまちがいである。
27  慢心にとらわれた瞬間から前進は止まり、後退してしまっている。つねに“求道心”をもちつづけることだ。
 爾前経には「楽法梵志」の修行が説かれている。「楽法梵志」は釈尊の因位の修行の姿であるが、「楽法」とは「法」を「楽」う、法を求めるという意義である。
 と同じく、私どもは日々、向上しゆくために、つねに法を求めゆく求道という心こそ、信心の証であることを忘れてはならない。学会組織のうえで幹部になればなるほど、この心の姿勢が大切なのである。
 ともあれ、慢心の人、我見の人、名聞名利の人は、仏法に反する人といわざるをえない。
28  今日の学会は、草創の人たちの、あらゆる中傷・非難に耐え、わが身を犠牲にしながらの法戦によって築き上げられたものだ。
 新しい人たちが、その苦闘の歴史も、創造の労苦も知らず、築き上げられたものの上に乗っかって、あたかも自分たちの力で作りあげたかのごとく思う慢心の人になってはいけない。もしそうなれば、そこから自己自身の実質の破滅が始まることを、後世のために強く戒めておきたい。
29  正しい信心、人生への激励を
 さらに指導者は、的確な判断力と鋭敏な行動力をもたねばならない。時代というものは刻々と変化していくものである。人の心というものも瞬間瞬間に変化し、進んでいくものである。ゆえにリーダーは、その複雑な動きのなかにあって、いかにして多くの人々を幸せへの道に導き、勝利の方向へもっていくかが問われるのである。
 生活も、商売も、法戦も、良い時もあれば悪い時もある。良いからといって油断をしてはならない。悪くなった時は、それなりに的確な手を打っていくならば、衰微の方向を食いとめることもできるのである。
 すべて、指導者の力量にかかっていることを自覚されたい。
30  指導者の発言は、あくまでも真摯にして、責任のあるものでなくてはいけない。全責任をもっての指導でなくてはならない。
 いわゆる、いいかげんとか、ふざけ半分の発言であってはならない。人人に安心感と納得、確信を与えていくのが、信心の指導である。ユーモアも時に必要だが、その人の心をふみにじるような発言はけっしてあってはならない。ユーモアとふざけ半分は根本的に違うものである。
31  よく戸田先生がおっしゃっていたが、私どもは信心の指導者である。また、学会は広宣流布をめざし、信心を教える団体である。ゆえに生命力を強めていくことによって、病気もよくなるとの励ましは、とうぜんのことである。また正しき信心のあり方や、信心を強めていくことによって、あらゆる点で最大の効果が生まれるという、確信ある指導はとうぜんのことである。
 しかし、私どもは医者ではない。病気にかかった場合は、それなりの専門医に診てもらう方が早道の場合もある。また事業の経営についても同様だ。相談を受けても、私どもは万能ではない。
 信心の指導は完璧に行わねばならないが、事業を発展させたり経営の仕方を教えてくれる方がいれば、とうぜん、その人に相談をしていくべきである。
32  事業では背伸びをしたり、見栄をはったりすることは禁物である。何かあった場合は、早目に信頼できる人に相談をすることだ。
 とくに、“金銭貸借の厳禁”は、学会の変わらざる方針である。金銭の問題で、同志を苦しめ、負担をかけることは、厳に戒めていただきたい。人々の生活を苦しめたりしては絶対にならない。
 ともあれ、私どもは、あくまで信心の指導者であるとのケジメをつけながら、病気や事業などで悩む同志に対して、正しい信心のあり方、正しい生活のあり方、正しい人生のあり方の激励を全力でお願いしたい。
33  浄頗梨じょうはりの鏡は自分自身
 「仏法には自分観、人生観、社会観、宇宙観のすべてが包含されている」と戸田先生は教えてくださった。
 自分というものは、わかるようでわからないものだ。自分がわからないからこそ、無理を生じたり、思わぬ破滅を招いたりする。
 信心こそ、自分を映し出す鏡を磨く作業である。ゆえに御本尊に南無し、信心の鍛練の持続によって、自分がおのずからわかってくるものだ。
34  仏法は道理である。道理にはずれたことを、いくら願っても叶うものではない。
 その道理に立って、自身を錬磨していったときに自分というものがみえてくるし、低次元の悩みに動かされない自己がつくられていくのである。
 また、御書に「一切法とは一切皆是れ仏法なり」、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」と、御教示されている。
 仏法を深く体得していくことは、すなわち一切法に通じていくことになる。一切法に通じていくことは、これまた、正しい社会観に通じていくことになるのである。
 われわれは、いくら信仰したといっても社会の一員である。社会の中に生き、生活をしているものである。その社会で信心をしているから何をやってもよいということは、絶対に許されない。社会規範に逆らって、犯罪など絶対に犯してはならないわけである。
35  社会は、さまざまな次元で厳しい競争の世界である。そこには、栄枯盛衰もあり、社会の仕組みや宿命からもたらされる、ままならぬ苦しき現実生活もある。その中では、人間は小さな存在にみえるかもしれないが、妙法を信受したとき、生命の「我」は、広大無辺なる大宇宙へと連なり、宇宙のリズムとともに律動していけるのである。
 ゆえに、初座の勤行のとき、大日天、大月天、大明星天等に法味を送ることによって、諸天の加護を受けることができるのである。「宇宙即我」の壮大な仏法であり、日夜、その仏法を信じ行じて人生を歩んでいることを誇りに思っていきたい。
36  さて釈尊の教えのなかに「閻魔大王」のことが説かれている。釈尊の教えのなかでも、衆生の機根に応じて説かれた低い小乗教であるが、大聖人もしばしば御書に引かれている。
 大王は光明院というところに住む。そこには「浄頗梨鏡」と呼ばれる鏡があり、別名を「業鏡」ともいわれている。亡者がやってくると、この鏡の前に座らせて、大王が「お前は前世で悪いことをしたか」と問う。とうぜん、亡者は全員が「悪いことはしていない」と答える。
 ところが、この鏡は九面をなしていて、亡者が生前になしたことごとくの業を映し出してしまうというのである。そのため、どんなウソをついてもすぐにばれてしまい、裁かれて地獄に堕とされるというのである。
 この話から、戸田先生は、「浄頗梨の鏡」とは、現在でいえば、自分自身の実相を見つめることと考えられる、とよくいわれていた。つまり、いま実在する自分と、その自分を取りまく環境のなかに、過去のいっさいの姿が明確に浮き彫りにされている。これを浄頗梨の鏡として表現したのにちがいないといわれていた。
 しからば、この自分を「どのようにしていけばよいのか」「どのように良き方向に転換させていけばよいのか」ということが課題となってくる。そこに仏法の存在意義がある。
37  大乗仏教は、三世にわたる因果を説いている。そこには近因近果もあれば、遠因遠果もある。さまざまな因果関係の連続がある。
 人間がさまざまな姿に生まれ、さまざまな所に生まれ、さまざまな性格をもっていることについても、その人の過去世からの「性慾」つまり、性分と欲望がまちまちであるから、全員がまちまちの結果の姿等になるとも説いている。
 今日のように複雑な社会にあっては、単純な因果論は、信じがたいという人もあろうし、納得もできない人も多いようである。
 たしかに、あまり因果の理法だけに縛られた存在として自分を考えていくと、ただそれのみにとらわれてしまい、人は力強い進歩ができなくなってしまうであろう。
38  久遠の生命の宮殿開く根本法 
 釈尊の仏法で説かれている長遠な期間にわたる歴劫修行においては、過去世の宿業を一生に一つずつ消していくという教えであった。それでは、凡夫は宿命の転換など、ほど遠いものになってしまうであろう。
 そこで日蓮大聖人の仏法では「五百塵点劫の当初」すなわち「久遠元初」をあらわされ「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」とお説きになっておられる。
 いわゆる釈尊の仏法に説かれている「常の因果」、つまり業因業果とか、過去世の報いとかいったものをたたき破って、凡夫のわれわれが、その身、その姿のままで仏になる道、いっさいの罪業を消しゆく道、いっさいの福徳を積みゆく道を示してくださった。その「法」が、久遠元初の南無妙法蓮華経なのである。
39  日蓮大聖人は、一切の法を生み、所作を生みゆく根本の「法」、すなわち「はたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」の本体の法である南無妙法蓮華経を、御本尊として御図顕なされたのである。
 その御本尊に南無しゆくときに、御本尊の絶大な功力により、久遠の仏の生命を開かせていただき、いっさいの過去世からの因果の連鎖を、すべて超克、転換していけるわけである。
 ともあれ、大聖人の仏法は、今世で、この一生でいっさいの宿命転換をなし、生々世々、仏の境界につつまれながら、常楽我浄の生命の連続を生きていくことができると教えてくださっているのである。
 ゆえに、今世の信心において、多少の難があるとか、多少の宿命のために生活が苦しいとかということは、三世永遠からみるならば、あまりにも小さいものであると心得て精進していくべきである。小さい悩みに左右されることは愚かである。法を弘め、人を救わんとの大きな悩みに立った場合には、小さい悩みにとらわれ、流されることはない。そこに信心で鍛えられた幸の境涯が感得できるのである。
40  どうか東京の王者ともいうべき足立は、田中区本部長を中心に、永遠の歴史をきざみゆく広布の法戦へ、潔い精進をお願いしたい。
 そして「常勝の足立たれ」と念願し、私の話とさせていただく。

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