Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカ広布二十八周年記念集会 幸福は自分自身の権利

1984.2.13 「広布と人生を語る」第6巻

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3  仏法は道理である。子供が大きくなるのにも、また木々が大木と育っていくのにも年月が必要である。と同じように、御本尊の功徳は、きょう、あすとは、すぐに大きな変化はみられないかもしれない。しかし、一生成仏で、かならず一生の間には、所願は完成されるのである。日々の勤行についても、日々、勤行している人と、そうでない人とは、ふだんのときは差がないようにみえても、いざというときには明快に差が現れるものである。
4  勤行で読経する方便品・寿量品と唱題の関係については、日寛上人は、方便・寿量は助行、題目は正行とされ、「塩酢の米麺の味を助くるが如し」(当流行事抄)とたとえられた。
 これを車社会のアメリカ人にわかりやすいようにたとえれば、次のようにいえるかもしれない。ここに車があるとする。車のボディだけでは動かない。動かすエンジンなどがなければならないし、さらに動力源としてのガソリンが必要となる。つまり、ボディを方便品にたとえれば、エンジンなどの機械は寿量品にたとえられないだろうか。また、燃料であるガソリンは、いっさいの根源力である唱題と、とらえられるかもしれない。
 しかし、正しく運転する人がいないと、正しく車は動かない。運転を誤ると事故を起こしてしまう。正しい信心をしてこそ、幸福という目的地に到達することができる。この正しい運転のために必要な知識が「教学」といえるかもしれない。
 その車を運転することじたいは「自行」である。そして幸せの山に向かい、多くの人々を乗せてあげようとの慈愛のもとに「折伏行」に励む。これが、妙法を根本とした、最高の人生のあり方であり、日蓮正宗創価学会の歩みなのである。
5  車は走らないと価値はない。人生も生きぬいて幸せになっていくところに意味がある。社会で生きていくのであれば、社会に何らかの貢献をしていくのが人生の道である。いま、信心しゆく私たちの行為は、すなわち折伏・弘教をなすことにより、運転は上手になっていく。同じ道理で題目を数多く唱える人、また人々のために妙法を教え、弘めていく人は、充実した人生を生きぬくことができるのである。すなわち因果の理法で自分の宿命を打開しながら、絶対的幸福境涯の一念を限りなく固く強めていくことができる。
 生命は、信じても信じなくても、永遠であり、それは信心を深めていくなかで実感していくにちがいない。その永劫なる生命からみれば一生は、あたかも長い人生における一日のようなものかもしれない。大聖人も「一生成仏」と仰せのごとく、永遠の生命における一日一日にあたる一生を、妙法とともに生きぬいていくことが重要である。
6  南無妙法蓮華経は、不老不死の法である。現実の姿のうえでは「成住壊空」「生老病死」で、生死流転の相をみせるが、その本源の生命じたいをみるときは、老いもなく、死もないのである。すなわち、信心でここそ永遠の活性化が得られ、そのときは、この存在はつねにみずみずしく、願いのままに、あるときは「生」となり、あるときは「死」となる。たとえ「死」の相を現じたとしてもその姿は、常住不変の法楽の一念を確立できるのである。
 すなわち唱題によって磨かれ、強固にされた一念の生命は、生々世々、ゆがんだ悪に紛動されることなく、つねに活力豊かに、みずみずしい躍動をもって永遠に続きゆくのである。その生命の「我」の活性化という躍動のゆえに、三悪道、四悪趣にけっして堕ちることなく、幸福に満ちた、また確信に満ちみちた人生が繰り返されていくのである。唱題も、折伏行も、あたかも人工衛生をきちんと宇宙の軌道に乗せていくごとく、永遠にわたる幸せの軌道へと導いてくれるのである。
 したがって、信心はすべて自分自身の幸福に帰着する。ゆえに自分自身のために、勇気と希望をもって、信心の大道を歩みぬいていただきたい。

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