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全国代表者研修会 実践こそ人生の要諦

1984.8.8 「広布と人生を語る」第6巻

前後
1  学会の広宣流布への活動も、上半期を終え、下半期の活動に入っている。広布の活動は、何があっても休むことはできないし、それがわれわれの使命の道でもある。現在は、総本山での夏季講習会、各地の研修会も行われており、みずからの成長と研鑽に励む妙法の同志への、なんらかの助けにもなればと思い、少々、懇談的にお話をさせていただきたい。
 秋谷会長も、さる六日、元気な姿で退院をし、安心もした。御法主日顕上人からは御慈悲と御祈念をいただき、深く感謝申し上げるしだいである。また全国の同志の方々には、ご心配をおかけ申しわけなく思っている。
 学会の上半期の前進は、じつにめざましいものがあった。各県にあっても、未曾有の興隆の歴史を築かれ、なかでも県長、県婦人部長の努力と成長はすばらしいものがあり、立派にその責任を果たしてこられた。ほんとうにうれしく思っている。
 また秋谷会長を中心に鉄の団結をしている副会長も、いつ会長に就任してもよいぐらいの実力と貫祿と見識をそなえる立派な成長の姿を示され、私は陰なから喜びにたえないものである。
 とくに、この数年来の学会の大推進力となった青年部の成長と活躍は、これまた前代未聞の業績を残した。将来の広宣流布の人材群として、頼もしいかぎりである。
 また、婦人部の地道な、忍耐強い努力は、大御本尊から絶大なる称讃をたまわることはまちがいないと確信されたい。
2  ここで、本日はダンテの『神曲』と並んで、世界の哲学的文学の最高峰ともいうべきゲーテの『ファウスト』を通し、日頃から考えていることを、少々申し上げておきたい。過日の「伸一会」のさいに申し上げたかったが、時間の都合でできなかったので、とくに次代の創価学会を担いゆく青年部諸君に訴えておきたいのである。
 仏法は即一切法である。一切法に通達解了し、妙法の次元からすべてを生かしきっていくのが私どもの立場である。ゆえに、学会の幹部の方々は、一流の優れた文学などにも親しく接し、教養を高め、見識をみがいていっていただきたい。
 『ファウスト』は、戯曲の形をとった文学だが、ゲーテはその完成まで、じつに六十年という歳月を費やしている。途中で二十年ほどは、他の仕事に忙殺されて手をつけなかった時期があるが、それにしても、たいへんな持続力の結晶といってよい。
 その意味からいば、私もまだ五十六歳である。皆さま方も若い。だからこそ私どもは、すべてを“これからだ”と受け止めていく、つねに若々しい姿勢でありたいものだ。
3  “人間とは何か”との深みと高みを追求
 『ファウスト』は、序曲を含めて、大網は「悲劇・第一部」と「悲劇・第二部」から成っている。ファウストは、実在の人物の名前である。少しいかがわしいところはあったが、医学、芸術、数学、哲学を究めていた学者であり、魂を悪魔に打ったといわれていた。ゲーテ以前にも、イギリスのマーローなどがこの伝統的な人物を作品化しているが、そのファウスト伝統を本格的に取り上げ、掘り下げ、見事な芸術性と哲学性を輪郭を与えたのが、ゲーテの『ファウスト』である。
 おそらく、主人公のファウスト博士の精神の遍歴には、ゲーテの胸中の思いのいっさいが託されていた、と私は思う。
 ゲーテの描くファウスト博士は、五十歳を超え、すべての学問を究め尽くしたが、その結果、彼が知りえたことは、「われわれは、何も知ることができないということだけ」だったという有名な言葉がある。
 ソクラテスの「無知の知」にもみられるように、大学者というものは、つねに謙虚である。私も世界を旅して、トインビー、ルネ・ユイグ、デュボス博士らの多くの大学者とお会いしてきたが、それらの人々に共通していることは謙虚さである。
 全部ではないが、わが国の学者のなかには、この謙虚さが足りず、したがって優れた後輩も育たないという傾向がみられるのは、たいへん残念なことだ。
4  なぜ、私が『ファウスト』に言及するかといえば、過日の『戦争と平和』のときも申し上げたが、もし、ゲーテが日蓮大聖人の仏法を知っていたらどうであるか、との思いを禁じえないからである。悪魔メフィストフェレスとの契約、戦いを通して“人間とは何か”という深みと高みを追求していく大手腕をみると、もし、ゲーテほどの天才が真実の仏法を知っていれば、ヨーロッパの思想の流れも変わったのではないかとさえ思えてならない。
 『ファウスト』の内容は簡単に要約できないが、せんじつめれば、第一に、美、宗教、政治々が、人間と人生にとっていかなる意味をもつのか。第二に、男子の生き方はどうあるべきか、その二点を抽出することができると思う。
5  『ファウスト』は戯曲であり、対話で成り立っている。次元は違うが、「立正安国論」等の諸御書も対話形式で述べられていることと思いあわせると、まことに興味深い。ソクラテスも対話である。これは、簡単のようでひじょうに大切なことであり、創価学会の座談会も、この方式にのっとっているのである。なぜなら、人間とは人と人との間であり、人間を人間たらしむのは対話といってもよいからだ。ゲーテも、そのことを知悉していたにちがいないと私は思う。
 『ファウスト』の私の好きな言葉に「要塞もいらぬ。城壁もいらぬ。頼ることのできるのは自分だけだ。あくまでも持ちこたえられる不落の城、それは男子の鋼鉄の胸にあるのみだ」とある。
 次元は違うが、それを仏法の序文としてとらえれば、「頼ることのできるのは自分だけだ」とは、私どもの立場からいえば、信心の金剛不壊の一念ともいえるであろう。その信心の一念が御本尊に感応道交し、無限の生命力が湧現し、功徳がわが胸中に積まれていくのである。ゆえに、絶対に退転してはならないのである。
6  また、次に「無感覚ということに、私は幸福を求めはしない。戦慄というのは、人生の最上の宝だ。世の中はめったにこの感情の人に許さなくなったが、心の底から揺さぶられてこそ、飛なものを深く悟ることができるのだ」とあるが、まことに鋭い洞察と私はみたい。
 「戦慄」が「人生の最上の宝」だという。私どもの立場からいえば、三障四魔、三類の強敵に対する姿勢といえまいか。難に直面したときの戦慄の走るような緊迫感、不退の姿勢のなかでこそ、「無上宝珠」を手にすることができるのである。これこそ「開目抄」の御精神であると申し上げておきたい。
 また、「自然の前に、一個独立の男子として立つことができたら、人間としてほんとうの生きがいを感ずることができるだろうに」ともある。
 人生には宿命があり、運命がある。その流れのなかで、独立した男子として毅然として立つことだ。尊い妙法の当体として、自身のために、広布のために誰がなんといおうと戦いぬくことだ。そこに男の生き方の精髄がある。ここには女性もおられるが「変成男子」ということで(笑い)、ご了承いただきたい。
7  私ども、とくに青年は、いわゆる「八風」に侵されてはならない。わが信心と信念の道を進んでいかなければならない。ゲーテの言いたいことの真意も、そこに通ずるのではなかろうか。
 トインビー博士は「自分は学問の人間であり、あなたは実践者であり、あなたは実践者だ。実践者に何もいうことはない。勇敢に進んでいってください」といわれた。
 ともかく、ファウストに託したゲーテの心情は、学者の机上の世界とは無縁なのである。
 私は、ある指揮者のいった「事業を左右せよ、事業に左右されるな」という言葉が好きである。ファウストも、人類の夢として、自分の“城”をつくりたいという念願をもっていた。そして「どんな大事業でも、それを完成するには千本の手を動かす一つの精神があれば足りるのだ」とも言っている。
 私どもの立場からいえば、一念三千の信心であり、祈りしか、究極的にはないということだ。
8  国土を変革しゆく無二の仏法 
 ファウストは、観念論者ではなく、現実主義者である。彼は、為政者とての栄光と苦労も体験する。現代の省庁をいくつも束ねたような為政の責任者として、民衆のために堅固で安全な社会をつくりたい、と念願していた。
 「おれは、何百万人のために土地を開くのだ。安全ではないが、働いて自由に暮らしてゆける土地だ」と。
 私どもは、皆さま方の真心の浄財をもって、各地に寺院をつくり、会館をつくり、研修道場をつくっている。それは、とりもなおさず、皆が心ゆくまで仏道修行をし、広宣流布のために「自由に暮らしてゆける土地」を建設していることになるのである。これこそ、広布の大きな未来をつくた、堅固しゆくための礎なのである。
9  法華経寿量品には「本因」「本果」「本国土」が明かされている。とくに「国土世間」が明らかにされたところに、法華経の本門の卓越性があるのである。他の宗教や哲学は、“西方娯楽浄土”とか“神の国”とか夢のような世界を描き、現実の「国土」から逃避し、捨て去る教えである。
 それに対し、この人類の生きている現実の「国土世間」「娑婆世界」をどう代えていくか――ここに哲学や宗教の要諦がある。
 法華経にはこの現実解を「三界は安きこと無し猶火宅の如し」と説いている。先日も、核戦争のもたらす悲劇を描いたテレビ映画を見たが、すでに、米ソ両大国の核兵器の保有量は、広島型原爆の百五十万倍であるという。まさに「火宅の如し」である。人類の幸福を実現するには、この火宅のごとき「娑婆世界」から逃げたり、避けたりしては絶対にならないのである。
10  ファウストは『バイブル』の要句である「はじめに言葉ありき」を翻訳しようとして、そうではないのだ、と大操作を行っている。「はじめに意志ありき」――こう言い換えてもどこか違う。「はじめに力ありき」――まだ満足できない。そして最後に「はじめに行為ありき」として、ようやく、ファウストは安心し、納得するのである。
 言葉でもなく、意志でもなく、力でもない。行為なのだ――ここに、東洋的な演繹性ともいうべき、詩人の天才的な直感があったように思えてならない。ゲーテは、このファウストを通して行為、実践こそ根本だと訴えたのである。私どもも実践を第一義としているが、このゲーテ深い洞察を見逃してはならないのであろう。ともかく、八十歳になっても、なお、かくしゃくとして満々たる生命力をたたえていたというゲーテの姿は、ひとつの範を示しているといってよい。
11  幸福は戦い取るもの      
 ファウストは、また、こうも言っている。
 「おれは、この精神に一身をささげる。知恵の最後の結論はこういうことになる、自由も生活も、日ごとにこれを闘い取ってこそ、これを享受するに値する人間といえのるだ」と。
 自由も生活も、日ごとに闘い取る――私どもの立場でいえば、信心による功徳の積み重ねである。それは結局、勤行・唱題の地道な実践につきるといってよい。真実の幸福というのは、遠くにあるものではない。みずからが戦い取るものである。信心もまた、同じである。
12  ゲーテのいわんとしていることは、分々の段階ではあるが、仏法の領域、人間の本性の極致の領域に近づいているといってよい。その点で、私はダンテより、ゲーテに、より深いのを見るのである。
 ゲーテは、「人間」を深く洞察したうえで、現実を鋭くとらえ、宗教に入り、美を追求する。
 また、ファウストを誘惑してよいか、との悪魔の申し出に対して、神に、次のように答えさせている。
 「善き人間は、よしんば暗い衝動に動かされても、正しい道を忘れてはいないものだ」と。
 生命の傾向性の流れをいっているのである。大事なことは、誠実にして強盛なる信心である。強くして確固たる信心の姿勢があるときには、たとえ「暗い衝動」に動かされるような状況に陥ったとしても、きちっと人生の正道を歩みゆけるものだ。
 ゆえに、信心即生活、信心即社会、そして永遠なる宇宙大の幸福に連なった道を、自分らしく、堂々と紛動されずに生ききることがもっとも重要であると訴えておきたい。
13  真実と誠実の言動に力    
 次に「演説」の問題について述べてみたい。
 さきに述べたように、「人間」は“人の間”と書くごとく、人と人との関係性が、人生の基本である。その関係性のなかで、主義主張を訴え、どのように納得させ、導いていくかということは、広布のリーダーである皆さんにとってもたいへんな重要な課題であろう。
 ファウストは言う。「掛値なしの成功を求めたまえ。鈴ふり鳴らす馬鹿者になっては困る。頭と誠実な心とさえあれば、技巧に弄さなくとも、演説はおのずからできる。本気にもを言うつもりなら、言葉などを飾る必要があるか」と。
 仏法では「無作」と説かれているが、自分を売りこもうなどという低次元な策は、必要ないのである。
 真実こそ人の心をうつものだ。真実を訴えることに何の飾りもいらない。
 先日、ロサンゼルス・オリンピックで金メダルに輝いた体操の具志堅選手は「自分の点数を知らなかった。自分らしい演技をしてきた」と語っていた。演説と体操の違いこそあれ、「頭と誠実な心とさえあれば……」とのゲーテの言葉に通ずるものがあるといえまいか。
 ある新聞記者の話によると、世間の多くの人々は「成仏」ということばイメージを、「ミイラ」とダブらせているという。私どの仏法のうえの常識と世間の常識には、まだ、それほどの落差がある。それを埋めるのは大変な労作業であり、そこに私どもの弘教の言論活動の意義があるのである。
 「本気にものを言うつもりなら……」とのファウストの味わい深い言葉は、名利にはしる政治家の演説などとは次元を異した私どもの言論のあり方を示唆しているといってよい。
14  ゲーテの人生観は、ファウストの次の言葉にも、よく示されている。
 「もし私がのんびりと寝椅子に手足でものばしたら、もう私もおしまいだ。もしまた君(悪魔)が甘い言葉でだまして、私をぬくぬくと収まりかえらせたり、あるいは、享楽に耽らせてたぶらかすことができたら――それは私の百年眼だ」とある。
 偉大な仕事を残しゆく場合には、この決心は当然のことといってよい。
 これこそ「月月・日日につより給へ」との御聖訓にも合致するし、学会精神に通ずるものだ。いつの次代にあっても、大偉業を成し遂げた人々に共通するものであろう。多くの場合、人生の挫折は、己心の魔との妥協の産物といってよい。
 私も長い間の信心で、多くの退転者の姿をみてきた。そこに共通するものは、①名聞名利 ②怨嫉 ③増上漫 である。結局、自分自身に、その原因があることを知ることができる。大法に随順するのでなく、自己本位であり、自身をたくみに正当化しようとしているにすぎない。修羅の生命である。
 学会の世界は、清らかで、楽しい。それをねたみや寂しさから、自己正当化のために、あらゆる策を使って壊そうとする。これは、大聖人の次代も、また今日も原理は同じである。
15  さらに「停滞したら最後、私は奴隷の身だ」「やすむことなく活動してこそ男子なのだ」とも、ファウストは言っている。
 いま、私は、これらの言葉に対して、かつて総本山第六十五世日淳上人が仰せになられた「休むのなら墓場に行ってから休め」とのお言葉を懐かしく思い起こす。
 戸田先生も感銘を深くされていた。広布の活動は、一面、それほどの持続と忍耐を要する活動なのだ。
 また、ファウストは言う。「全人類に課せられたものを、私は自分の内にある自我でもって味わおう、自分の精神でもって最高最深のものを敢えてつかみ、人類の幸福を悲哀をもこの胸に積みかさね、こうして自分の自我をば人類の自我にまで拡大しよう」と。
 この言葉は、いろいろなとらえ方があろうが、仏が個々の生命に仏界を湧現させていこうとされる大慈悲の姿にも通じているとはいえまいか。
 ともあれ、私どもの「我」は、御本尊を拝し、宇宙根源の法と冥合しゆくことにより、宇宙大の「我」となっていくのである。これこそ真実の「我」であり、潔い人生を生きゆくための発条なのである。
16  弁論について、ファウストは、助手に対しても厳しく戒めている。「弁論の力で人を動かすには……」との質問にファウストは答える。
 「それは、君が心から感じていて、自然と肺腑から迸り、低力のある興味でもって、すべての聴衆の心をぐいぐい引っ張るのでなければ、君のいう目的は達せられまいね」と。
 どんな話も、自分のものにしていなければ、訴える力をもたない。学会の強さは、信仰のうえに立って、「低力のある興味」を、つねに民衆に提起してきた点にある。「聴衆の心をぐいぐい引っ張る」――ともかく、学会がこれまで前進してきた根本には、“確信ある雄弁”“仏法体得の体験”があったことを忘れてはならない。
 さらに、ファウストは助手に「古文書、それが一口飲んだだけで、永久に渇きをとめる神聖な泉なのかね。自分のたましいから泉が湧き出すのでなければ、身心をさわやかにすることはできない」とも述べている。
 つまり、いかに御書を暗記したとしても、それがすべてではないのである。大聖人の「行学は信心よりをこるべく候」との御聖訓が胸に迫って、痛感されてならない。「たましいから泉が湧き出す」ような信心のほとばしりがなく、知識という次元のみで御書を拝していくならば、それは空転になってしまう。
 大聖人の訪問は「事の一念三千」の法文であるがゆえに、結局は自分自身の一念に帰結していることを忘れてはならない。
17  ファウストの魂の遍歴は、ついに、仏法の「自行化他」の精神に通ずるような高みに昇っていく。「第一部」は悪魔との契約と戦い、「第二部」は人間として何をすべきかの探求といえるが、悪魔に自分の身を賭しての探求のすえに得た結論は、「人間の幸福は、他者のために働いていくなかにのみある」ということであった。
 汝自身を追い求め、理想の国土をつくろうとしたファウストは、ついに盲目となって死んでいく。彼は、自分自身の理想の国土をつくっていると思っていたが、その理想の国土は、その実、悪魔の仕業によって、ファウスト自身の墓をつくっていることを知らなかったのである。悪魔は墓よりファウストの魂を盗み取ろうとしたが奪うことができず、天から天使が降りてきて、その魂を守り抜いていったという意味を記憶している。
 記憶によるもので若干の筋道の違いがあるかもしれないがご了承いただきたい。
18  『ファウスト』は、ある意味ではゲーテ自身が名づけたように「悲劇」といえるかもしれない。
 次元は低いとはいえ、仏と魔との戦いを、ほうふつとさせる。悪魔に負けてはならない。同じ悲劇を繰り返してはならない。私どもの、広布への理想郷の建設においては、同じ轍を踏んではけっしてならない。
 そのためには、よくよく現実を凝視し、一人ひとりが「以信代」の力をもって、聡明と団結の凱歌を築いていかなければならないと思うのである。
 総本山では壮年部の講習会が、またきたる十二日には、宮城の第二回の平和希望祭がある。さらに全国各地で各部の研修が予定されている。
 それらのすべての行事が、大成功、無事故で終了することを祈りたい。
 また、担当者や役員の方々が、猛暑のなか汗みどろになりながらも、全力をあげて、この夏の講習会や研修会に携わっていることに対し、心から感謝申し上げたい。また、心から「ご苦労さま」と申し上げ、本日の研修会での話を終わりたい。

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