Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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福島県人材グループの合同結成式 無明の生命に妙法の灯

1984.5.14 「広布と人生を語る」第6巻

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1  福島市へは十五年ぶりの訪問であり、郡山市の福島文化会館へは、六年ぶりの訪問である。この機会に思いつくままに懇談的に話をさせていただきたい。
2  百万年前から暗闇に閉ざされた洞窟がある。そこに灯を入れると洞窟の中は、一瞬のうちに明々と照らしだされる。と同じように、永遠に生死を繰り返しゆく、われわれの生命も、真の「生命の因果」を知らぬ場合には、胸中は暗闇の当体であろう。
 その自分というものの本体を知るためには、生命の灯である妙法を持つ以外ないのである。
 自身の生命があたかも暗闇の洞窟のような人類の集まりでは、いつになってもその歴史は六道の世界を繰り返し、永遠にさすらいゆくことになってしまうにちがいない。
 そこで、その生命の洞窟のごとき暗闇に挑戦し、人類救済の大火をともされたのが、末法の御本仏日蓮大聖人であられる。
 ゆえに、この妙法の大火を、仏の使いとして人類にともしていくところに、広宣流布の意義があり、私どもに対する大聖人の御本意があられるのである。
 人間の生命体は、すべてが十界三千の当体である。したがって、自身の生命への真の解決をなしえずして、人々への解決もなしゆくことはできない。
 人間は、より高き価値を求め、また、より幸福の人生の結実を追求していくところに、真の人間らしさがあるといってよい。
 科学も、医学も、教育も、経済などもすべて、それなりの成果を示してきた。しかし、それらの根底となるべき自己の生命それじたいの「因果」、「自分の生命とはいったい何か」という根本命題については、迷妄の歴史が繰り返されてきたといってもよいであろう。
3  大聖人の仏法こそが、生命の実相のうえに、生活のうえに、社会のうえに、人類のうえに、まことに明快なる解決の方途を示された教えである。
 一人の人間の生命の解決は、より多くの人々の幸福への道と方途とを示し、これが全人類へと通じていくのである。それは、地味ではあるが、確実にして正しきあり方であると、私は確信したい。この一歩一歩の歩みが広宣流布の基盤となっていくわけである。
 そこで大聖人の仏法は、わが生命の洞窟を照らし、いかにその胸中を変革し、永遠にして広大なる宇宙のごとき境涯へと生命を整備するかを説いている。この信心という修行によってのみ、現実の人生の胸中に幸への点火がなされ、拡大されていくのである。その一生の幸福のために信心はある。これこそ「一生成仏」の大法なのである。
 この現実の人生を凝視したところに、兵の仏法があるといってよい。現実の生活をはなれたところに、真の信心はありえない、ということを示唆された法といえるかもしれない。
4  多くの思想、宗教がある。「西方十万億土」とか「三十二相八十種好」とか、「天国」とかいった現実離れした理想をめざしたものが多いが、抽象的な観念の世界にすぎない。
 つまり、つねに鋭く、現実と自分の内奥をみつめながら、”善”の方へ”幸”の方へと、日々、人生を向上せしめていくのが、真実の仏法である。
 その原動力が強盛な信心なのである。
 ただし、信心には厚薄があり、また「火の信心」と「水の信心」とがある。私どもは、強盛なる信心とともに水の信心で、一生を貫き飾っていかなければならない。
5  一生成仏、広宣流布の信心
 ともあれ大聖人の妙法の灯をわが生命の洞窟にともすとき、自分の生命の過去から現在、現在から未来へと、すべての生命の状況や生命の傾向性が見えてくるのである。このゆえに、一生涯、灯を消すことなく、人間生命という本源の実体を説き明かした、成仏への絶対まちがいなきこの大法に則った一生を生きぬいていくべきである。
 信心ある人と信心なき人との相違はここにある。信心ある人は、これまで厳しく感じることのなかった宿業を感じ、自身の濁りをも知るようになっていくものだ。人間としてのさまざまな苦悩の波動を引き起こしながら、一つひとつを浄化させていくものである。
 わが生命をさらに浄化し、宿命を転換しゆく以外に、人間苦は解決されることはないし、この生命の浄化なくしては、人類が願望する平和への胎動も、人間のもつ業の作用によって破壊されてしまうことを知らねばならないのである。
6  ゆえに信心は、あくまで一生成仏、広宣流布をめざしての「水の信心」でなければならない。県長になったときだけの信心でもない。また圏長、支部長、地区リーダーといった役職になった、その期間だけの燃え立つ信心では、火の信心といわなければならない。
 私どもはつねに「真実の信心とは何か」を明確に実感しゆく「実践の信心」が必要なのである。
 「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(三重秘伝抄)と仰せのごとく、信心はどこまでも強盛でなければならない。信弱きは宿命に負ける。また生きゆく力が弱まるからである。
 弱い心であり、生命であった場合は、自分の宿命に流されたり、怨嫉の生命にふり回されたりする。正しきものを正しくみることができなくなったり、自己本位の論理をつくって、憤感ばかりもつようになってしまうものである。これが信弱く退転しゆく人々の悲しき方程式であることを知っておきたい。
7  悪世末法における妙法の広宣流布は難事中の難事であると経文にある。私どもは大聖人の門下として、正宗の信徒として、大聖人の御通命をそのままに、折伏行に励んでいるわけである。これほど尊いものはない。
 ともかく皆さまは、万年への人類の先駆けであり、妙法広宣への先覚者といってよい。その流布の道はまことに厳しいが、これほど生きがいに満ちた人生の道はない。この妙法流布の人をば、三世の仏・菩薩、諸天善神が厳然と加護しゆくことは経文に明白である。
8  ”人材のスイス”福島たれ
 いま、福島には広布の大舞台ができあがった。地理的にも、南は関東、東京に連なり、北は東北各県へと通じる。また、西は日本海側の新潟方面にも接するなど、ひじょうに意義のある重要な地である。そして、十五年前と比べてみると、人材も質量ともに充実され、うれしいかぎりである。
 十五年前に訪れた土湯でお会いした方々が、いまも健在で活動されていて、ほんとうにうれしかった。その当時、母親の胎内にいた子供は、十五歳の少年となり、頭をなでて激励した子供は青年と育っていた。まったく、月日のたつのは早いものだ。そうした姿を見るにつけ、私は、二十一世紀のために、これからも全力をあげて人材を育て、残していくことが、いかに大切かを痛感した。
 また、福島青年平和文化祭は、歴史に残る文化祭であった。さらに、福島広布の第二章への新体制も検討されているとうかがい、今日までの盤石なる発展を次への飛躍台として、一歩前進の歩みをお願いしたい。
 福島は美しい土地であり、人々の心も清く、明るい。海の幸、山の幸に恵まれた豊かな国土世間である。ここに、私は”人材のスイス”ともいうべき、妙法の国土をさらに築いていただきたいのである。
 きょう、ここに集った皆さまは、次代の広布を担いゆく人材育成グループのメンバーである。妙法の友は、だれ人も地涌の眷属であり、使命のない人はいないが、そのなかでも、皆さまは、いわば”選ばれた存在”である。ゆえに、それ相応の使命、責任、決意というものがなくてほならない。
9  かつてトインビー博士と対談をした折に「選民(選ばれた人)」が話題になったことがある。その功罪は別として、キリスト教徒は自分が神の「選民」であるとの自覚で、世界各地で布教した。また、マルクス主義者も、選民思想に立っての共産主義革命を行ってきた。
 すべての宗教にせよ、思想にせよ、あるいは政治にせよ、経済にせよ、教育、科学にせよ、民衆を救済し、人々を幸福にしていこうとする心情から出たものであったにちがいない。
 しかし、その法理の不完全さのために、また科学や政治、経済といったものが、あまりに分化しすぎたため、本来の人間の世界をいかにすべきかという究極的な原点を見失ってしまったといってよい。
 現在は、哲学不在、宗教不在の時代となり、ますます科学技術、経済などが先行し、「人間とは何か」という根本命題にだれ人も解答を与えてくれない時代になってしまった。ゆえに、私どもは、宗教者の責務として日蓮正宗の大仏法を持って、その解答を与えゆく運動をしているわけである。
10  先日、ある著名な数学者の夫人から、世界の多くの学者、文化人との対話集をおくられた。その本のなかにイギリスの神学者モーリスワイルス氏との対話があった。なぜ多くの青年たちが教会に魅力をもたなくなったのかとの質問に、その神学者は、いくつかの理由を述べながら、結論として「(教会が)あまりにも教条主義的なために、現実社会との対応の仕方で失敗している」と率直に語っていた。教義上のことは別として、私はまことに勇気ある発言と思った。
11  これに対して日蓮正宗創価学会には、多くの青年たちが集っている。それは魅力があるからだ。魅力のないところには、けっして青年は集まらない。すなわち、日蓮大聖人の仏法が、青年たちに納得と理解とを与えられるすばらしき大法であるからである。
 若い人は、つねに生きがいを求めている。納得させてくれるものを求めている。魅力あるものを求めている。とともに、より良き社会と、より良き時代を志向していく本性をもっている。ゆえに、それにこたえうる教義と指導力が、必要となってくるわけである。それにこたえうるのが、日蓮大聖人のこの大法なのである。
12  そのあらわれのひとつが文化祭である。いわゆる文化祭の開催に功徳があるわけではない。平和運動の昇華としての文化祭をなしとげていく道程において、御書を拝し、唱題をし、互いに人間としての錬磨をしていくところに、大きな価値が生ずるわけである。懸命な練習はそれなりに自分自身との戦いである。
 また、文化祭を見た多くの人々が、その根底に仏法があり、信仰があるという認識をすること、それじたいが、社会へのひとつの大きな折伏となる。そこに仏法と社会とを結ぶひとつの流れがあることを知らねばならない。
 人生の規範となるべき思想、哲学、宗教が消えていくことは、いわば人類の闇の時代を迎えるようなものである。
 しかし、その混迷の闇を暁に変えていくのが私どもの使命である。いかに苦しくても、道は遠くても、これが大聖人の御連命であり、地涌の使命である。この使命に生きる選ばれた人々が皆さま方であることを、よくよく自覚していただきたい。
13  社会にあっても、さまざまな分野で”選ばれる”ということはある。それはそれなりの意義があるにちがいない。しかし、一般社会の次元の”選ばれる”という意義と、仏法の次元からみた”選ばれる”という意義は、その深さと内容において大きな差がある。一般社会の現象は、無常であり、仏法の誉れは、常住であるからだ。
 私どもは、多くの歴史に残る選ばれた著名な人を知っている。しかし、彼らがいまもなお私どもに深い人生の示唆を与えてくれているかどうかは別問題である。
 これに比べて、正法の信心の世界の人々は、当初は世間の人々にまったく知られていなかった。たとえば「四条金吾」「熟原の三烈士」「上野賢人」等々、その当時は無名であった人々が、妙法の世界に生ききったという証として、選ばれた人として、いまや永遠にその誉れの名が輝いていることを忘れてはならない。
 すなわち、信心を極めた人は、そのときはささやかな無名の存在ではあるが、時を経るにしたがって、その栄光は、ますます輝きわたっていくのが、妙法の世界の原理であることを忘れてはならない。いまはともあれ、皆さまの存在もまた、同じくそれなりの功徳の実証が、後世に称讃されゆくことを強く確信していただきたいのである。
14  信心は”観念”ではない。”体得”である。”体得”には、御書のとおりの実践が必要となる。ゆえに御書に説かれているさまざまな御聖訓を、そのまま信心のうえで色読できるようにならなければ、深い信心とはいえないのである。つまり、広布への実践のなかで私どもは「異体同心」ということも知り、感じとることができる。また、「同体異心」とは、「師子心中の虫」とは、「提婆達多」とは、「三障四魔」とは、ということも、現実の上で鋭く見極め、実感できるようになっていかねばならない。
 ”観念”はどこまでいっても”観念”である。現実に「三類の強敵」の嵐があったときに、自分は自分、御書は御書として、遠くにみることは、もはや真の信心ではなく、”観念”であったことになる。
 すなわち、「賢者はよろこび愚者は退く」である。皆さまは、一つひとつの法門をみずからが鋭く”体得”しゆく人であっていただきたい。そこにのみ大聖人のおほめがあるからである。
15  ”知識”は即”幸福”につながるとはいえない。とうぜん、知識は大切である。しかし、知識のみを偏重したときは、人生の目的を誤ることになる。幸福の大法を追求することにこそ、真の人生の価値もあり、知識も生かされていくことを知らねばならない。
 第二代会長の戸田先生が、よく話しておられた。ある人が、長崎に医学の研究に行った。そして研究の成果として、行李三杯のノートがあった。ところが、帰途、大波にあい、船が沈没して、そのノートをぜんぶ流失してしまった。その人は、ノートがなくなると同時に何も残らず、頭の中は空っぽで、勉学はなんの役にもたたなくなってしまった、と笑いながら話しておられた。
 おおいに知識を追究しながらも、その知識を生かしきっていける、人生円満の幸福の基盤となる信心を、皆さまは持っていただきたい。
16  正宗の根本軌道に則った信心
 ともかく信心は、自分自身が心から納得できるものでなくてはならない。スッキリした姿勢の信心が、より自己を価値あらしめ、より自身を成長せしめゆく活力となっていくからである。往々にして中年になっていくと、世事に流され、社会的名誉に流され、しだいに信心が濁っていく場合があるようだ。一生成仏のうえからも、そうした我慢偏執によって、信心を濁らせるようなことがあってはならない。
 飛行機が、最終的に着陸する滑走路へのコースをまちがえては大変である。人生も、信心も、また同じである。みずからの心につくった雲や霧のために、自分自身の人生の確かな軌道を、自分から見失ってしまうことは、まことに愚かという以外ない。
 わが日蓮正宗の、根本中の根本は、ご存じのとおり、本門戒壇の大御本尊であられる。その大御本尊と日蓮大聖人以来の血脈を代々受け継がれる御法主上人がおいでになり、七百年にわたる伝統法義が厳然とある。この正宗の根本軌道に則った信心こそが、正しき信心であり、無量の功徳があるわけである。
 みずからの信心の濁りや驕慢から、その根本軌道を失ってはならない。正信会が、そのひとつの最たる例といってよい。
 このようなことは過去にもあった。現在もあった。未来もまた、あるかもしれないが、よくよく正しき信心を、見失ってほならないのである。
17  大聖人の御遺命である広布をめざすわれわれは、正しい信心を根本にした「異体同心」でなければならない。これは大聖人の仰せであるからだ。今日の正法の大興隆も、御法主上人のご慈悲はもとより、多くの純粋でまじめな信徒、学会員によって築かれてきたのである。
 それを知らず、また忘れて、組織上の次元のみでとらえたり、役職上の問題だけでとらえたり、人間関係の好き嫌いの次元で心を乱したりして、広布への軌道を見失ってはけっしてならない。それでは、たとえいくら役職があり、信心があるようにみえても、人々に迷惑をかけるだけであって、大聖人の仏法からはずれた人となってしまっているというべきである。
18  ところで、いま、未来部の人たちや青年部のメンバーが、若くして自身の胸中に明々と妙法の灯をともして、この人生を生きゆかんとしていることはすばらしいことである。それは、百万年前の暗い洞窟にいま初めて灯をともしたのではない――つまり、中年や年配者になってからの、生命の心の曇りや暗さを知ってから、ともした灯ではない。若い時代から、胸中に明々と灯をともし、この一生を飾っていけることはすばらしい意義があると知っていただきたいのである。私たちは、この若くして妙法とともに生き、妙法を広げゆく人たちを守り育てていきたい、と祈るような気持ちで念願する。
 少年、中二南等部、学生部、青年部のメンバーは、最初から妙法の灯のもとで育ってきたようなものである。中年や年配者になって、生命の暗さ、心の曇りによって、信心が見えなくならないよう戒めておきたい。
 最後に、なにごとがあっても、本門戒壇の大御本尊を根本としての、すっきりした信心で、この一生をつき進んでいただきたい。そして、だれ人がなんといおうが、この大法を広宣流布しゆく労作業を、みずからの最高の誉れとして展開しぬいていただきたい。傍観者であってはならない。傍観者には信心の真髄の喜びは得られない。
 皆さま方に限りない期待をこめて、本日の私の指導を終わりたい。

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