Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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’83欧州夏季研修会 妙法の流布は人類の願望

1983.6.19 「広布と人生を語る」第5巻

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1  日本人と海外の広布について所感を述べたい。
 この大宇宙には、生命の存在の可能性がある惑星は、何千億個もあるかもしれないというのが、ひとつの常識となってきている。その大宇宙から見るならば、地球の存在はあまりにも小さい。国家間の戦争やまた社会でさまざまな事件を起こすことは、まことに愚かでむなしいものである。一面、賢いようにみえながら、また反面、悲惨を繰り返していく愚かさを、人間は本性としてもっている。そうした人間のもつ不幸なる「業」「宿命」を打開し、永遠なる幸福と平和世界を築かれんとして、日蓮大聖人の御出現があったのである。
 御本仏日蓮大聖人が日本に御聖誕されたのは、日本が大乗仏教の機根の国であるがゆえと、また邪智謗法の国であるがゆえである。そして、折伏逆化の大功力を御教示されんがために、まず日本から民衆救済の法戦を開始された。日蓮大聖人の日本国での御聖誕によって、一閻浮提すなわち世界への妙法流布における中心の地は、日本であることはとうぜんである。さらに、一応、この大乗仏教の機根をもっていた日本人が、妙法を信じ、世界広布への使命をおびていることもまたしぜんである。
2  歴史的にみても、一つの国に現れた宗教、思想が、その発祥の国から多くの国々へ流布されていった。――キリスト教もそうであるし、イスラム教もそうであるし、また釈尊の仏教もそうであった。芸術面からみてもまた同じである。外国の文学、さらには音楽、絵画などが日本にも流入され、また教えをうけに外国に行った例もたくさんある。
 あらゆるものの伝播はひとつの広がりをみせながら、必然性の歴史をもってきた。いわんや今日においては、国際化の時代となり、いちだんとその傾向性が強くなってきたことはとうぜんであるといってよい。
 そのように考えていった場合、日蓮大聖人の大法もまた、永遠にして普遍性の仏法であるがゆえに、全世界へと流布していくことは、水が低きへ流れるがごとき自然の流れであろう。
3  仏法の世界への流布において、日本人がその先駆の役を果してきたことは、必然のことであった。各国の広布の草創期にあって筆舌に尽くしがたい労苦に耐え、妙法流布の基盤と方向性をつくってきたのは、各地に住む日本人の方々であった。その先駆の不惜の活躍があったからこそ、今日の各国の妙法流布があるのである。
 妙法の流布は、他国の文化の破壊とか、日本の宗教の強制といったことでは絶対ない。ゆえに、幸せへの根本法を教えてくれた日本人のメンバーを、その国の人々を守り、その国の幸福と繁栄のために、御本尊のほうへ導いていこうとの姿勢があるかぎり、大切にしていくことは、人間としてとうぜんの道であると思う。
4  われわれの行動は、政治の次元でも、経済の次元でも、利害の次元でもけっしてない。人類の根本的な覚醒は久遠においても妙法、現在においても妙法、未来においても妙法、そして地球上においても妙法、大宇宙に広げてもその根本法は妙法であるがゆえに、この三世にわたる生命という次元の差別なき大法を教えあうという立場をけっして忘れてはならない。
 ゆえに、この地球上においても妙法を広げゆくことがもっとも重要な課題であると信じ、私どもは広宣流布に励んでいるのである。そこには民族の差別もないことを忘れてはならないと思う。
 「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」と、日興上人の遺誡置文にも御教示されているとおり、われわれ在家の立場にあっても、この御精神をよくよく銘記し、信心強き人を見習い、教えを受けていこうとの謙虚さを忘れないでいただきたい。
5  信心における大切な課題は、自分自身の成仏である。すなわち自分自身の幸福の建設にある。自分自身の人格の完成にある。とともに、みずからの宿命打開の戦いである。そのために、つねに信心を深めていくことが肝要となる。さらに広宣流布のために、妙法の友がたがいに励ましあいながら、異体同心の戒めを忘れずに前進していくことが、重要な要件となってくる。
 そこでは、国の違いや人種の違いはいっさい関係ないこととなるだろう。ただし、その国の風習、文化、国法を重んじていくことは、その国に生きていく市民としてとうぜんのことである。
6  また、日本人の方々は、早く仏法を知り、教えてきたからといって、けっして慢心になってはならない。あくまでもその国の方々の幸せのため、繁栄のため、平和のため、宿命打開のために、御本尊へ、御本尊へと向かわせていく、この一点を忘れてはならない。
 その日本人がたがいに不仲になれば、おのずからその国の方々に悪影響をおよぼすことになると自覚しなければならない。そして、あくまでも、いかなる国の人々であれ、その人格を尊敬し、自尊心をたがいに傷つけることなく、信心という一点をともどもに深めゆく思念を、つねにみずみずしくもっていただきたい。
 人種の違いとか、組織上の役職の違いとか、社会的地位の違いということは、根本である信心の次元からみるならば、それは低次元のことがらであるといっても過言ではない。その低次元のことがらにとらわれて、自分を複雑にしたり、感情的になることは自分自身の損となり、まことに愚かなことと気づかねばならないだろう。この複雑な社会と人間関係のなかにあって、つねにすっきりせしめゆく一念の深さこそ信心であるからである。
7  「折伏・弘教」こそ、日蓮正宗の仏法の生命であり、仏道修行である。信行学の関係から述べると、教学が大切であることはとうぜなであるが、ここで戒めておかねばならないことは、信心こそ「行」「学」の根本であり、「信」と「行」を失った「学」には功徳はありえない。
 六万蔵の経を諳んじながら、信心なきゆえ、地獄に堕ちた提婆達多の例もあるように、恐るべきは不信であり、正しい「信」を失った教学はじつにむなしい。
 要するに、信心の実践なき教学におちいり「我れ賢し」と思わん人は増上慢であり、これこそ大聖人の御精神に反するものである。
8  大聖人の仏法は、どこまでも「信」が根本である。その「信」が根本となって「行」「学」がある。「行」「学」はまた「信」を深め、推進しゆくものでなくてはならない。その「信」の具体的方軌は、おのずから行学に進みゆくことにあらわれるとともに、広宣流布の目標に、つねにみずみずしく進んでいく回転の力となっていくのである。
 「折伏・弘教」ができないと嘆く人がいるが、折伏・弘教は、経文に照らしても、けっして簡単なものではない。だからこそ、折伏には大功徳があるのである。大変でない修行はありえないのである。
 ただ、大切なことは、折伏・弘教に励んでいる人を心から尊敬し、心から讃嘆する一念があったとき、折伏・弘教の道は開けるものである。それは弘教こそ如来の使いの事の行為であるからである。
 また、自身のために折伏・弘教はなしゆくものである。ゆえにあくまでも誠実に確信をもち、心ひろびろと唱題をしながら、人をつつみゆく大きな慈愛の仏道修行であっていただきたい。
9  イタリアもイギリスも、ドイツもスペインなども、めざましい発展をしてきている。ヨーロッパの機軸の歴史をもったフランスのメンバーは、山崎議長を中心として、さらにその栄光の道を進んでほしい。理屈のみに流されて、根本的目標である信心を深化していくことをけっして忘れないでほしい。

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