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’83欧州夏季研修会 勤行の意義と姿勢について

1983.6.16 「広布と人生を語る」第5巻

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1  各国のメンバーからしばしば寄せられる質問に「なぜ勤行するのか」、また「どういう意義があるのか」というのがある。そこで今日は勤行の意義と姿勢について、少々、所感を述べておきたい。
 「勤行」は、日蓮正宗の仏道修行の基本であり、御本仏日蓮大聖人御自ら、本門戒壇の大御本尊を御図顕なされ、その御本尊に、方便、寿量品の読経・唱題をされた。以来、勤行・唱題は正宗の信仰実践の根本であり、伝統となっている。
 なにゆえ、方便品と寿量品を読誦するかというとについては、日寛上人の「当流行事抄」に、所破・借文、所破・所用に立て分け、その意義を詳しく述べられているが、それは略させていただきたい。
2  勤行で方便品、寿量品を読誦するのは、方便・寿量品は、八方法蔵といわれる釈尊の説法の最高峰の法門であり、全経典の宝であり、魂ともいうべき経文であり、そこには「空仮中の三諦」「法報応の三身」「三世常住の生命」「十界論」「煩悩即菩提」の法理など、宇宙と生命にわたるいっさいの法理が説き明かされているからである。
 ゆえに、日々の方便・寿量品の読誦にはその内容を知ると知らざるとにかかわらず、意識するにせよ無意識にせよ、自身と宇宙にわたるすべての法理を確認し躍動せしめていく儀式になっていると、私には思えてならない。すなわち、大御本尊の妙用によってわが胸中の法理と宇宙の法理との冥合がなされ、交差の確認ともなり、凡夫であるわれわれの生命にすばらしき光を当てていく儀式ではなかろうか。
 そして読経のあとの唱題こそ、それらの法理を最大限に躍動させ、絢爛と開花させ、放射させることができる根本法であり、その力用となっていくわけである。
3  すなわち、すべての根本は南無妙法蓮華経という「題目」にあることはいうまでもない。したがって、まったく正しき日々、まったく確実な日々、まったく無限にわたるリズミカルな生命と生活しゆくためには、この勤行と唱題をおいてないのである。これこそ、皆さまが実行し、実践し、体得し、体験した現実の姿ではなかろうか。ゆえに私どもは日蓮正宗の信徒としてあくまでも、この伝統法義に準じていくことが大切なのである。
 たしかに妙法を知らない人も多いし、妙法を知りながら信心することともなく、また批判する人もいる。御書には、正法誹謗の罪は極悪であると説かれている。しかし皆さまはその御本尊を信じ行じておられる尊い方々である。いまだ数十億の人々が、この妙法を知らないことは残念なことだ。
4  このように、日蓮正宗創価学会の一員として信仰をするうえにあっては、正宗の伝統法義である五座三座の勤行の実践が肝要である。ただここで申し上げておきたいことは、正しき仏道修行は一生涯、この五座三座の儀式を持続することにあることはとうぜんであるが、さまざまな理由によって五座三座ができない場合があるかもしれない。そうした場合について、きょうは率直に語っておきたいと思う。
 たとえば、五座三座の勤行を一日でも欠かしたときに罪悪感を感じたり、なんとなく寂しさを感じる人もいるにちがいない。とうぜん、勤行も唱題も、すべてが自分自身のためであるから、正しい勤行の儀式の永続は、自分のためのものとして確認してもらいたいが、病に倒れたときとか、旅行先でとか、あるいは多忙なときもあるにちがいない。その場合は、方便品と寿量品の自我偈の読誦と唱題で終わる場合もあるだろう。さまざまな理由でやむをえず、唱題だけの場合もあるかもしれない。ただなによりも大事なことは、水のごとき流れの持続なのである。
 往々にして五座三座の勤行を一時、休むと、罪悪感から絶望的になって、そのまま勤行せず、退転の方向へ流されていく人があるものだ。しかし、退転したり、ましてや誹謗することにくらべれば、たとえ題目のみであげていくことが、いかにすぐれているかを知らねばならないとは私は思う。ただし、時間があるのにそれを自己弁護の理由にして五座三座の勤行をしないことは、自分の損となることを忘れてはならないだろう。
 生涯にわたる信心であるがゆえに、五座三座の勤行、あるときは方便・自我偈、唱題だけの勤行、あるときは唱題だけのときでも確実なる日々の、絶え間ない御本尊への祈りと信行の振る舞いだけは、絶対に失ってはならない。
 五年間、五座三座の勤行を実践しても、そのあと退転してしまったならば成仏できない。生涯、御本尊に南無しゆく姿勢が成仏の根本であり、そのときどきの状況によって、方便・自我偈・唱題だけの勤行、あるいは唱題だけであっても、ただひたすらに正しき修行である五座三座をめざしゆくことが、大切ではないかと思う。
5  ともあれ、わが身の常楽我浄の境涯の体得は、信心即勤行以外にないのであり、すべて自分自身のためであることを確認されたい。
 確かな、順調な生活、豊かな生命力の源泉も御本尊への信心の姿勢にあり、したがって、日々、空白をつくるようなことは、自分自身のために損であると申し上げておきたい。勤行であれ、仏道修行であれ、いっさいの日常の生活であれ、いっさいの社会的活動であれ、その定めゆく一念が、建設に、幸せに、成功に、健康に、無事安穏に、長寿に、との祈りをこめた出発であるときに、はじめてその祈りが通じ、すばらしい結果と現証となって現れることを確信していかねばならない。未来への強き一念に立っての信心の祈りであっていただきたい。

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