Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回SGIスイス総会 妙法は永遠に中道

1983.6.11 「広布と人生を語る」第5巻

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1  私が少年時代に感銘深く胸に刻んだ、アメリカの鉄鋼王カーネギーの言葉がある。
 それは「人生は、朝起きて仕事にでかける。夕刻には仕事を終えて帰宅し、夕食をとり、やがて床につく。これが一日のリズムである。そのリズムのなかでも、もっとも価値ある、深き人生をつくるもの、それは夕食後から床に入るまでの二、三時間を、どのように過ごしたかで決まる」というものである。
 カーネギーがもっとも大切とした夕刻からの二、三時間は、われわれの立場でいえば、信心活動の時間にあたっている。人生を深く決定づける、その“黄金の時間”を、われわれは福運をつむために、宿命の打開のため、法のため、社会のため、平和のため、広布のために費やしている。これほど尊い、有意義な時間の活用はない。その日々の積み重ねが、いかにすばらしき人生の建設をもたらし、価値創造となっているかを、強く確信しての、信心持続の日々であってほしい。
2  われわれの信奉している妙法は永遠に中道である。仏法は勝れた色心不二論を説き、唯心論、唯物論を止揚する法門を明かしている。この仏法中道の生き方に、確実にして正しき人生の道があるのである。
 いかに一生懸命、信心に励んでいる姿があったとしても、生活、仕事に功徳の実証がなくしては意味がない。信心と生活、学会活動と仕事が車の両輪のごとく進んでいくところに、中道の歩みがあることを忘れてはならない。
 石と石を打てば火が出る。石のなかに火があるとは思えない。しかし、打てば火が出ることは、石の中に火がある道理になる。
 日蓮大聖人は、われわれの生命のなかには、無限なる福運も、偉大なる生命力も存在すると仰せである。ふだんは、それらは冥伏して、知ることができないかもしれない。だが石と石を打てば火が出るように、御本尊に題目を唱えるとき、境智冥合の御本尊の功力によって、わが生命から最高にして無限の力が現れてくる。これが人界所具の仏界の涌現なのである。
 石を打つとき、力が弱ければ火は出ない。信弱く、強き祈りのない形式的な唱題には、所願の成就はないのである。
3  南無妙法蓮華経の御本尊は、いっさいの宗教、思想、哲学の根本中の根本であり、宇宙の根源の法である。ゆえに、御本尊への深き信に立った唱題、大聖人の仰せどおりの勇気ある実践に、想像もできない功徳の実証、人生勝利の証があることはまちがいないと確信されたい。
 だが、木も一年や二年では大木にならない。子供も、すぐには大人にならない。
 五年、十年、二十年と歳月を経て、木が大木へと成長していくがごとく、信心もまた持続が大事なのである。持続なくして、大いなる功徳の花は咲かないことを知らねばならない。
 仏法の偉大さは、厳然たる「因果の理法」にあり、現証が明確に示されることにある。深き祈りなくして、福運の人生も、罪障消滅もない。強き信心なくして所願満足の人生はない。自分自身に、また生活のなかに、あるいは仕事のうえに、偉大なる御本尊の功徳を実感できるような信心でなければならない。
 どれほど日蓮正宗の仏法が偉大であるか、また、仏法の実践によっていかにすばらしき人生を生きていけるものなのかを実証する、妥協なき信仰実践であっていただきたい。

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