Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回山形県総会 桜梅桃李の人生を

1983.4.18 「広布と人生を語る」第4巻

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1  皆さま方は末法の御本仏であられる日蓮大聖人の仏子である。そして大聖人の御遺命のままに折伏を行じ、広宣流布を成就しようとの、もっとも尊い人生を歩んでおられる地涌の同志である。その仏子を誹謗する人には仏罰ありとは、御書に照らして明らかである。その強き確信に立って、誇り高くすばらしき人生を悔いなく生きていただきたい。
 御本尊の左右の御肩に「若悩乱者頭破七分」(若し悩乱せん者は頭七分に破れん)、「有供養者福過十号」(供養する有らん者は福十号に過ぐ)とおしたためである。
 「頭破作七分」とは「心破作七分」ともいう。不信、誹謗の人は、割れた器のようなもので、福運も、幸せも漏れ、流れてしまう。一方、妙法を信受し、御本尊を讚嘆し供養する人は「福十号に過ぐ」と。十号とは、釈尊のそなえた十の尊称であり、この釈尊の命にそなわる偉大な功徳よりも、御本尊を信受する功徳がはるかに大きいとの仰せなのである。
 この日蓮正宗の御本尊を受持し、信行する以外に、永遠にわたる幸福、成仏の因はもはやない。末法万年尽未来際にわたる御本仏は、日蓮大聖人であられ、その根本たる御本尊を持った私どもは、久遠において誓願をしていま生まれきたり、広宣流布へとその誓いを果たしゆく活動をしているのである。
2  山形へは九年ぶりの訪問となった。一日も早く山形の友のもとへとの思いをいだきながら、新潟から列車の旅をした。車窓には、山々の残雪のなかにも、青い水の流れ、木々の緑が広がっていた。黄色いレンギョウの花も、雪柳も、水仙も、桜も、自然を彩って、生きいきと咲き薫っていた。
 それらを眺めながら「桜梅桃李の己己の当体を改めずして……」との御聖訓を思い起こしていた。
 この御文は、われわれの生き方の根本的姿を御教示くださっている。
 桜は桜のままに咲き、みずからの使命に生きている。梅も、桃も、李もそうだ。
 われわれ一人ひとりの人間も同じでなくてはならない。一人ひとりが個性をもっている。また人格をもち、尊い生命をもった存在である。ゆえに、あくまでも自分らしく、主体性をもって生きていけばよいのである。
 自分にしかない使命、生き方があるものだ。あの人のようでなければならないということはないのである。
 桜には桜としての生命と因縁がある。梅も桃も李も同じくそれぞれその生命となった因縁があるだろう。と同じく、信心の眼よりみれば、自分自身のこの世に生まれた使命と、それぞれの因縁があるといってよい。それを、それぞれ心から楽しく自覚できるのが、この妙法である。
 妙法の信心の力によって自分のなかにある仏界を湧現させていくことが、人生にとって根本の幸せなのである。
 皆さんのなかには、東京などの大都会にいる人々をうらやましく思っている人もあるかもしれない。また、はなばなしい職場で働き、大きい家に住みたいと思っている人もいるかもしれない。
 しかし、澄んだ空気、月の輝き、星辰のまたたき、朝空にうかぶ蔵王をはじめ、かすかに白い鎧を着た美しい山々の自然は、とうてい東京ではみられない。とともに人生の幸福境涯というものは、その国土世間、その職場、その家々の大小で決まるものではない。
 他のものはよく見えるのが、人間の常である。山形におられる方々は、大都会に生きることが幸せそうに見えるかもしれないが、大都市の人々は、山形のこの美しき自然環境にあこがれる。ゆえに、その地域にあって、目先の次元に惑わされることなく、要は己の力を存分に発揮し、使命を果たしていくことである。
 ある文人が「見るもよし、見ざるもよし、されど我は咲くなり」とうたったが、私どもの行動はすべて御本尊がお見通しである。ともあれ、桜梅桃李の原理のごとく、だれ人が見ていようが見ていまいが、あくまでも妙法につつまれて自分らしく生きていくことが大事なのである。
3  上田総合長ならびに武田県長を守り支えていただき、人情味の深いこの山形を「大山形」へと築いていっていただきたい。私も心から応援申し上げたい。
 そして、この山形の天地に信心の魂を刻むべきである。さらに、”信心の本家“として、子々孫々にまで栄えゆく幸福の源泉となりゆく人生をかざっていただきたいと心から願っている。

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