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日蓮大聖人・池田大作

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新潟県記念勤行会 「生老病死」超克の人生

1983.4.16 「広布と人生を語る」第4巻

前後
1  「仏法と申すは勝負をさきとし」との御聖訓があるが、仏法実践の重要な一つの実証は「勝負」にある。
 人生、社会においては、さまざまな場面で、勝ち負けというものがある。たとえば、小学校の運動会での勝者、敗者、中学、高校でも勉強や受験の競争がある。まだ社会では、商売上の戦いもあれば、会社での出世の争いもある。というように、万般にわたって「勝負」が厳しい現実の実相である。
 なかでも、人生において最大の課題は「生」「老」「病」「死」をどう超克していくかにある。だれ人も避けえない、この「四苦」の解決をめざしたのが仏法である。生・老・病・死の苦悩とともにめぐりゆく「諸行無常の人生」を「常楽我浄の人生」へとどう転じていくか、その根本解決の大法が、日蓮正宗の大御本尊であられる。
 「生」――生活する。生きていく。そこには、さまざまな苦悩がある。それに勝つか、負けるかである。最近は、生命力の脆弱さのゆえか、苦悩の重みに耐えきれず、自殺に走ったり、無気力の人生、自暴自棄の人生におちいっている姿が多いように思う。それでは負けの人生である。
 これに対して、苦悩に力強く立ち向かい、みずからの充実感と喜びを深めながら、人々にも社会にも貢献しゆく人生、そして、多くの人々の信頼と称讃を得た人生||そこに「生」のうえでの勝利の人生がある。その原動力こそ南無妙法蓮華経なのである。
 「老」――老いもまた、人生の必然である。だが、そこにも種々の姿がある。名誉や地位もありながら無残の生涯を終える人、子供や孫にわれ寂しい老後をおくる人、嫁との藤に日々悩み多き人等、これは「老」における敗北である。
2  私も各地を訪れて、数おおくの年配者にお会いするが、信心を立派に貫き通してこられた方々は、皆、功徳につつまれた姿を示しておられる。なんともいえない品格、福々しさ、人間的深みなど、あたかも月の光のような美しい姿を見る思いがうる。そこには輝くばかりの「老」の勝利がある。
 「病」――病気にもまた勝敗がある。みずからも苦しみぬき、家族やまわりの人々にも苦悩と不幸をもたらす人がいる。負けの病である。反対に、見舞いに行った人に「王者のごとき病だな」と思わせる人がいる。「かえってこちらが激励された」「人間的にも深みがでてきた」といわれる人もいる。こうした姿は「病」のうえの勝利といえよう。
 「死」――安らかな臨終であるか、苦しみの臨終であるか。これこそ「死」における勝負であるといってよい。死は一生の総決算であり、来世への出発点である。
 その意味では「死」において勝てるか負けるかこそ、人生の根本問題といってよい。
 これら「生老病死」に勝ちゆく道は、勇気ある信心にしかないことをよくよく銘記されたい。
3  また「極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず」との御金言のとおり、いかなる環境にあっても、広宣流布と一生成仏へ進みゆく日々の着実なる仏道修行が大切である。
 楽な仏道修行はありえない。観念の仏道修行もありえない。厳しい現実社会のなかで広宣流布に向かいゆく仏道修行こそ、その功徳は大なのである。
 三十年前、この新潟の地で、今日の偉大な発展がなされるとは、だれ人も思わなかったにちがいない。これからも毎日、唱題に励み、広布への努力を重ねていくところに、また偉大なる妙法の力によって、未来に想像を絶する発展がなされることを確信していただきたい。
 世はますますエゴの充満しゆく時代に入ったとともに、正邪の基準も失われ、乱世の時代になってしまっている。ゆえに、正法を正義として明確に証明しゆく方途は、勝つ以外にない。
4  社会のさまざまな分野に、そこで第一人者といわれる人々がいる。しかし、ある分野で第一人者であるからといって、生命の根本命題の解決の方途を知っているわけではない。妙法のみが、それを解決した唯一のほうである。ゆえに、妙法を受持したわれわれは、社会現象に左右されることなく、根本的大道のこの妙法の道だけは大確信をもって進んでいくべきである。この南無妙法蓮華経という大法則には、だれ人たりともかなうわけはないのである。
 あとは信心の厚薄いかんである。そこにいっさい万般にわたる人生の勝敗がかかっていることわ知らねばならない。信心の勝利こそ、この社会、人生におけるすべての勝利の根本であることを深く確信し、さらに、それを実証し人々に教えていく使命感に立った一人ひとりであっていただきたい。

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