Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

3月度本部幹部会 「立正安国」の御精神のままに

1983.3.18 「広布と人生を語る」第4巻

前後
1  盂蘭盆御書に仰せの「悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり、善の中の大善も又又かくのごとし」との御聖訓は、一族の”栄え“と”滅び“の道を御教示くださった重要な御文である。「悪の中の大悪」とは謗法である。「善の中の大善」とは妙法に生きぬくことである。
 「大悪の人」は、自身のみでなく、子孫七代までもその罪はおよぶ。三悪道、四悪趣への道である。だが「大善の人」には、子孫七代までも功徳はおよび、栄えていくと仰せなのである。
 皆さん方は、現在はどのような境遇であっても、子孫七代まで栄えに栄えゆく「根本の功」をつんでおられる方々である。どうかその確信と希望をもち、学会の指導のままに一生成仏への正しき信心の道を勇んで歩みゆかれんことを念願してやまない。
2  次いで、大聖人の御化導は「立正安国論」に始まり「立正安国論」に終わるというように、破邪顕正の折伏行の実践のうえに仏国土を建設していくことである。現実社会の基盤に立って、人間そのものはもちろん、民衆、国土の次元まで鋭く見通しながら、正法を根本にそれらを生きいきと蘇生させ、平和にして安穏な社会を建設していこうとの「立正安国」の原理は、既成仏教にはなかったものであり、ここに大聖人の仏法と他宗教の根本的相違がある。
 「立正」とは「破邪」と同義である。「正」とは「正法」であり、「邪」とは一往、当時の法然の念仏宗であるが、再往はいっさいの邪教である。
 また「立正」の「正」には「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」の三箇の秘法を含む。
 「正」とは「妙」であり、妙法蓮華経である。つまり「本門の本尊」である。ゆえに「立正」とは本門の本尊を立てるということ。本門の本尊を根本として「立正」の意義が成り立つのである。
3  つぎに「本門の題目」に約すとき、「題目」は「信」と「行」に分けられる。
 「行の始めはこれ信心なり、信心の終わりはこれ行なり」(「立正安国論文段」)と日寛上人は仰せである。唱題・実践は御本尊への信心からはじまる。そして信心の帰着するところは唱題・実践である。つまり、御本尊を信受し、正しく信行の実践をし、仏法中道の道を歩みゆかねばならないのである。
 また「正境」である御本尊に縁した信心であるがゆえに、信心は「正」となり、正しき信心であるがゆえにその行は「正」となるのである。したがって、題目の修行が「正」となるわけだ。
 「立」とは「行」を立てるとの意であり、御本尊の御使いとして、広布にどう行動したか、ここに「立」の深き意味があることを知っていただきたい。
 さらに「本門の戒壇」に約していえば「正」の字は「一の止まる所」の意である。この「一」とは閻浮第一の御本尊であり、一大事の秘法である本門の本尊を意味
 する。「止」とは止住の義と仰せのように、御本尊の止住のところである。つまり、戒壇のことである。「本門の本尊」を安置したてまつり、根本として尊崇していくことが「立正」となるのである。
4  次に「安国」について申し上げれば、「安」とは字義のうえから太平、安穏をいみする。「国」とは、当時の幕府権力、北条時頼を支配者とした日本国のことである。しかし、これは一往の義であり、再往は一閻浮提、すなわち全世界をいう。とともに、この義は、現世に限らず、未来永遠に通ずるというのが、日寛上人の御指南なのである。
 この大聖人の御本意をわきまえず、「安国」を国家主義的にとらえた人人がいたが、誤りである。ましてや正法の何たるかも知らないでいるのは「日蓮を用いぬるともあしうやまはば国亡ぶべし」と仰せのように、国をほろぼす考え方といわざるをえない。
 ゆえに、三大秘法の大仏法を奉持し弘通して、日本のみならず全世界の太平、安穏、すなわち「安国」を成し遂げることこそ、大聖人の真実の「立正安国」の御精神である。その第一歩を始める国が日本なのである。
 関西は、いまや日本の全同志がその動向に注目し、「関西を見よ」とまでいわれる存在になった。その意味からも、どうか立派な信心勝利の姿を示しきって、全国の同志を勇気づけ、希望を与えゆく、いわば”兄“の存在となってもらいたい。

1
1